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私が好きな「自由」について②

今回は私が「自由」を求める理由について
概念的な視点から説明します。

結論としては私が「自由」を求める理由は
私へのプライドが高いからです。

まず私たち現実存在としては、自由とは程遠く
様々な縛りの中で生きています。

まず先天的な性質としては

・存在する世界・物理的法則、たとえば重力や温度(分子運動や輻射熱)
・生まれてきた種族・国・地域・家族・両親
・体格・容姿・性別・才能・身体機能・思考機能

次に後天的な性質としては

・経験・知識・記憶・技術
・所有物・金銭
・年齢・病歴

その他あるかどうかわからない超自然的な性質

・運
・予め作られていた/作られる予定の縁・前世
・原罪・宿命
・その他人間が認識できないシステム

これらが私たちの行動を束縛し制御すると同時に
私たちの「個性」を形作るものとなります。

なぜ私が「自由」を求めるのか。それは予め与えられた条件を主として
不当な扱いを受けることを拒みたいからです。

先天的に与えられたものを、私たちは自らの努力で変えることは
できません。
せいぜい嘘や隠蔽でごまかすことができるぐらいです。
つまり自分の責任外の事柄で、虐げられたり侮蔑されることを
望まないからです。

「体格・容姿・性別・才能・身体機能・思考機能」
こちらについては、もちろん個人の努力で改善できるものはあるでしょうし
能力に直結しているものであることから、判断材料から除外するのは
難しいと言えるでしょう。

では
「生まれてきた種族・国・地域・家族・両親」
こちらについて嘘や隠蔽以外で変更することは可能でしょうか?
私たちは「○○の場所に生まれたいな」という意思によって生まれてきたのでしょうか?
少なくとも私たち全員にその記憶はないはずです。
これについて、「そうなってるからしょうがないじゃないか」と
抵抗なく受け入れるか
「それが理由であーだこーだ言われても困る」と抵抗するのかが
各人の自由や人権への態度の違いとなるでしょう。

そして
「生まれてきた種族・国・地域・家族・両親」
これは私たち一人一人に与えられた必然の状態なのか?
それともたまたま偶然、人間に、〇〇国の△△地方の□□さんちに生まれて
きただけではないのか?
この疑問を抱くことができるかどうかが優生学を信じるか
障がい者や性的弱者への配慮を主張するかの違いになります。

この考えを発展させた場合、「では私たちは例えば牛に生まれてきた
可能性もあったのではないか」と種族の枠すら偶然と考えて
「牛に生まれてきたというだけで、狭いところで暮らし
突然食肉となるのは嫌だ」
という想像力から、菜食主義者になったりすると、私は考えています。

つまり、自身が経験しないことへの想像力、共感力がより大きいほど
それぞれの違いを「個性」として他者を尊重する立場になり
自身の経験、現実存在としての「今の私」を中心に置いた場合
(自分が理想とする)統一した規格・意思で人間が生活することを望み
また、自身の価値観をより多く人々に受容させるように
望むことになります。

私は後天的な性質に基づいて、虐げられたり、侮蔑されることについては
自身の努力の結果が不十分と考えて受け入れることができます。
超自然的な性質に基づいて、虐げられたり、侮蔑されることについては
「きっと昔私がどこかで悪事を働いて、そのしっぺ返しを
受けているのだろう」
と理由付けすることによって、不承不承ながらも受け入れることでしょう。
しかし、先天的な性質に基づいて、虐げられたり、侮蔑されることに
ついては、特に「生まれてきた種族・国・地域・家族・両親」が
理由のものについて、心理的に納得することは決してできません。

これは、男性にはピンとこない感覚かもしれませんが、女性には
容易に理解できる思考かと思います。なぜなら女性は月経によって
ある年齢の範囲、1か月のうち数日は体調不良になり、不快感を
抱くはめになるからです。
それを経験することがない男性に比べ、何か悪いことをしたわけでもなく
努力を怠ったわけでもないのに。
これを現実存在としてありのまま受け入れる男性は
男尊女卑的思考で、女性を劣っていると評価し対応するでしょうし
この理不尽さを決して認めたくないという女性は
身体的苦痛の分男は女に尽くすべきだ、体調が悪いときに
その怒りを男性にぶつけることは当然の権利だ
と思うことでしょう。

では、自由を突き詰めた場合その到達点はどこになるでしょうか?
先天的・後天的・その他超自然的な性質に縛られている
私たちが、その束縛をすべて取り除いた場合、残るものは
「無」となります。
身体を持てば、それは物理的制約に置かれますし
思考を持てば、それは一定の論理的制約に置かれます。
「名は体を表す」ので、「」というものを説明する名前なども
」を規定し束縛するものとなり、制約となります。
これらすべてを除こうと欲するのなら、何も持たない「無」となります。

では、私は「自由」が好きだから、その「無」が好きであるかというと
もちろんそんなことはありません。
」として生まれた以上、「」を捨てることはしない。
先天的な性質に基づいた「」の一部を否定すること。
捨てるように強要すること。
これを「自由」への侵害と捉えて拒絶するのが、私が好きな
自由」となります。
「私さえ幸せならそれでいい」「みんなと同じ結果の平等が欲しい」
「個人は国への奉仕者であるべきだ」
といった個人主義、社会主義、全体主義とは一線を引くこと
それが私の「自由」となります。
機会の平等=先天的な性質を重視しないこと、それがそこそこ
与えられるのなら、十分な贅沢であると私は考えます。

ただし、先天的な性質に基づいた不快感、それを罪であると
否定すること、それを抱かないように心を改変することは
私は考えていません。
たとえば私は、肌が黒い人々を見ると、どうしても異質感を抱きますし
場合によっては恐怖感も抱きます。
野蛮だと言われている国の出身者と相対した際には
身の危険を感じたりもします。
その心理自体を否定すると、それは私自身の感覚や推定を
否定することになるからです。
他者を認めようとするあまり、自らの一部を否定することは
望むことではありません。
ただ、その不快感を不適切な方法で相手に伝えたり
必要以上に安全を確保しようとして、その先天的性質のみを
理由として差別することを避ければ十分だと考えています。

そして、「自由」を重視しない場合、目の前の現実だけにしか
価値を感じない「唯物主義」となり
(もしくはすべて運命論で処理する「神秘主義」となり)
飽くことなく「自由」を求めた場合、個人の差異である「個性」に
価値を感じない「虚無主義」に到達すると私は考えます。
そこには、私が求める「」は存在しません。
魂の存在を信じたいからこそ、私は、私が好きな「自由」を
これからも愛するでしょう。

ただし、私は「私」のことをそれほど好きではないですがw
(だからナルシズムに陥らず他者からの承認欲求につながるわけですが)


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