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私にとっての「哲学」

※この記事は哲学的強度の強い方・共感力がゼロの方
 哲学的ゾンビの方以外にはお勧めしません。
 また、前提条件として
 私にとっての最終試練~「孤独」について~
 の記事を読破してなお影響を受けない方推奨です。
 哲学の実用性については、もし取り上げたとしても別の記事になります。
 関連記事:

なお、以降洗脳トラップを仕掛けます

結論としては、私にとって哲学とは「創造主とのタイマン」です。

まず、私の死生観のもととなるエピソードについて書いてみます。
8歳ごろのことですが、ある台風の日、私は友人の家に遊びに行きました。
徒歩5分程度の近さにあり、行きはたいして風も強くないので安全に
到着したのですが、帰りは、台風がさらに近づいており、まっすぐ直進することが困難になるほど横向きの風が吹いていました。歩道などはなく
しかし主要幹線道路沿いではあった帰り道をたどり、もう少しで家に着くというところで突風が吹き、私の体は車道側へ軽く浮きました。
そのとき、雨どいのパイプが私の手の届く範囲にあり、それに摑まることで
吹き飛ばされることはなかったのですが、もしそのパイプがなかった場合
私の体は車道へと吹き飛ばされて、走行する車のタイヤに潰されていたでしょう。
この体験から、私は、今生きている時間を、ボーナスタイム
私が運良く死ななかった世界線、死の先の生と捉えて生きてきました。
だから、基本的にはその後の楽しいことには感謝しつつ、つらいことには
しょうがないかと諦めつつも、全体的にはおまけの時間を肯定的に過ごしています。
 (ただし挫折も苦悩も人並みには経験)
 
よって「」については、確かにつらそうだなと思いますが、それは私にとって一番の恐怖ではありません。そして、「孤独」は「死」よりも恐怖を感じますし、私にとっては、「孤独」の超克を最終試練としているのですが
それ以上に私は「退屈」に恐怖しています。

突然話は下世話に変わるのですが、私は18禁マンガのジャンルで清楚系の
ヒロインが好きなのですが、特に、行為の前後でギャップが大きいほど
魅力を感じます。もちろんそれは男のマジョリティーの性癖なので
特別さはないのですが、私がそれを好きな理由として私が考えるのは
普段の姿から変貌して、行為に没頭して快楽に溺れる姿を
相手との心が通じたことによる多幸感によるものと変換するからです。
マンガ上の設定は、単にマジカル○○〇によって性的快感を与えられただけ
ということかもしれませんが、普段の姿を捨てて溺れるほどの
幸福を得たということは、心のつながりによる安心を得たから
と私は変換しています。「孤独」に慣れ親しんで、なお恐れる私としては
普段品行方正に暮らしているヒロインがそのご褒美を受け取ったんだな
と毀誉褒貶に嬉しくなるのです。
よっていわゆる「ビッチ」系ヒロインについては、行為が普段の挨拶と
変わらないでは?ということから興味が湧きません。

他方、18禁ゲームだとファンタジー世界での「悪堕ち」戦闘ヒロインが
好きとなります。
正義感や世界平和といった、利他的な目標を掲げて戦っているヒロインが
主義を捨てて、主人公に忠誠を誓う、それと同時に姿が変わるというのは
ゲーム的な設定では、やはりマジカル○○〇に屈して快楽に溺れた結果と
いうことでしょうが、自己犠牲で戦った結果、他の大多数を捨ててでも
その人と心をつなげたいというほどの強い渇望を感じて、それを得た結果
の幸福な姿であり、多くの人のために戦ったご褒美としての安らぎと変換しています。 
つまり両方とも、普段の善行の報酬・現在の価値観を捨てるに値するほどの安心・幸福を得た姿に魅力を感じていると言えます。
なお、悪役側は生存競争のために戦っていると解釈できる場合が多いので
ほどほどの悪役ということで受け入れられますが、主人公とヒロイン以外は
みんな抹殺、味方も気分次第で始末、何ならヒロインも気分次第で始末する
といったシナリオだと、さすがに快楽に弱すぎる「チョロイン」認定になるので興味を持てないとなります。そんな主人公に感情移入できるプレイヤーがいるのか?という話なので、そんな作品がざらにあるとは思いませんが。

よってドラッグや催眠を使った作品には興味を覚えません。
単なる快楽による多幸感と捉えて、それは「孤独」の解決にならないと考えるからです。

つまり、私は勧善懲悪が好きなのですが、もちろんマンガのように
二人は結ばれて末永く幸せに暮らしましたおしまいといった展開はリアルにはありません。
その後生活するために生計を立てる必要があり、労働中は悪意をぶつけられるだろうし、顧客を騙して契約を締結することもあるだろうし
出世ライバルを蹴落とす必要に迫られることもあるだろうしと
マンガでは描かれない悪をぶつけられ、または悪をなして
生きなくてはいけません。

リアルは、何も知らない子どもが事故で死ぬこともあれば、紛争に巻き込まれて死ぬこともあれば、拷問を受けて死ぬこともあります。
紛争地域にボランティアで活動していた人物が銃撃に倒れることもあれば
善良に暮らしていた家族が投資詐欺にかかって心中することもあります。

弱肉強食こそがこの世の正義だと考えているヒトにとっては
「そいつが弱かったせいだ・運がなかったせいだ」で簡単に納得するのでしょうが、ひねくれている私にとっては、「なぜこうも報われないのか?」ということに、ほんの少しの悲しみと、猛烈な「憤怒」を感じます。
もちろん無知故の不幸というものもあり、避けえた不幸を避けていない場合、「単なるバカじゃん」で済ませられる話かもしれませんが
周りの人と比べて平均程度の警戒心があっても
善良な人々に悪意を持った者からの不幸が降りかかることもあるわけです。
そして私はこう思うわけです。
「私より善良でまともな人々が理不尽に不幸になるのは我慢できない」と。
「なぜ善人の生き血を吸った悪人がのうのうと生きているのか」と。

宗教の権威が強かった昔であれば「悪人は地獄に落ちる」と信じれば
それで自己解決できたのかもしれませんが、科学が幅を利かせて
ヒトは単細胞生物から進化した結果生まれた生物である
脳を解剖して調べた結果、思考は脳内の電流やホルモン物質の
伝達の結果であると、神が存在する必要性のない様々な説得力を持った
論理が展開される現代、無邪気に最後の審判なり、閻魔様の裁きを期待する気持ちになれないわけです。

ブッダは四苦八苦や、一切皆苦などと言って、現世が苦しいのはそうなってるから仕方ないよね、と許したようですし、ニーチェは神は死んだといって
死んだことにして逃げ得を許し、永劫回帰といって、神もいないことだし
文句言ってもしょうがないからまあ次がんばればいいじゃん?
と人々に希望を残したみたいですが
私はこの「憤怒」を墓場から呼び出してでも、創造主にぶつけなければ
気が済まないですし、あるかないかわからない来世に確信を持てない以上
善良な人々が徒に不幸になるさまを見ることに耐えられません。
(ちなみに私は、他人が苦しむさまを見るのが好きなサイコパスは
 いくらでも不幸になって構わないという立場です。
 進んで見たいまではいかないですが、つまり私も
 サイコパスの仲間でしょう。
 つまみ食いの結果、20年間槍で串刺しになりながら磔の刑と
 罪と罰がアンバランスなものはさすがに望みませんが)

もちろんすべての人間は多かれ少なかれ他者に迷惑をかけるという
悪をなしますし、他の命を奪っているという罪を背負いますが
それは世界がそうせざるを得ない構造のせいであり、それを理由に
創造主が人々に不幸を与えるのだとしたら
マッチポンプではないか?とその理不尽さに「憤怒」するのです。

人によっては、創造主とは自然法則でありロゴスである
と人格を持たない神を想定していますが、人格のないシステムが
作ったのなら、私たちが有するこの自我の必要性が証明できない
と考えます。人間が作り出すAIのように、決まったロジックと
ほんの少しのランダム要素を持たせれば、それで十分に思考は
発達して進化するわけであり、痛みや苦しみを「私」が感じる
必要性はないと考えるからです。
 
そこで魂が存在する可能性とその性質について
「私にとっての道具を超えた「心」について」で考察し
たとえ神が死んでいようが人格神がいなかろうが引っ張り出して
一回ぶん殴る方法を考えてみました。
 
もし私たちに魂が存在しなければ、私たちに似ているだろう創造主もまた
心を持たない自然法則である、という可能性が高くなり、また、超自然的な法則が存在する可能性は低くなるため、創造主に対面できる可能性も
ほぼゼロになることから、弱肉強食なり適者生存なりを選ぶヒト自体の責任となり、哲学ではなく社会学と科学技術の問題となります。
科学技術の発展により、自然法則に人格を与える方法を発見するために
知識をつないでいくしか私が抗う術はないとなります。

もし私たちに魂が存在せず、創造主には人格が存在していた場合
この世界は、人間がゲーム世界を作り出してNPCを配置するように
シミュレーテッド・リアリティの世界である可能性が高くなります。
その場合は、私たちは独力で魂を獲得しなければ、上位世界へ直接
大きな影響を与えることはできないでしょう。
つまり、私が抗う術は魂が獲得できる生活を想定して
実践するだけとなります。

もし魂が存在するのなら、時間的性質の強い魂は可能性の塊であり
そして私たちに似ているだろう創造主も、また人格を有している
可能性が高くなります。
魂が存在するのなら時間的性質の強い死後の世界も存在することから
創造主に対面できる可能性は、ゼロよりはそこそこ大きなものに
なるでしょう。
対面できるかどうかは、私が「道具としての心」以外の魂の部分を錬磨し
可能性を引き寄せる力を持てるか次第になると考えます。
もし人格を持った創造主が存在しないとしても、可能性の力で
顕現させることもできると考えています。
 
なぜ私が「可能性」をこれほど評価しているかというと、生きていく中で
「こんな偶然あるかなあ?」といった現象をたびたび目にすることがあるからです。
私にとって身近な例だと、私は麻雀ゲームが好きなのですが
強いプレイヤーというのは、何かの加護があるのか?というほど
配られてくる牌の並びや、引いてくる牌のが良く、同程度の技術は
あるが運がないプレイヤーと明らかに違います。
もし可能性が確率通り均一なら、運がいいプレイヤー・運が悪いプレイヤー
というものは存在しないことになりますが、強いプレイヤーというものは
ここぞというときにチャンスを引き寄せものにします。
まるでソーシャルゲームのガチャくじでの当たり外れの偏りのように。
このような運の偏りはビジネスやスポーツの場面などで感じる人も多いかと思いますが、数学の確率通りでない運の偏りを、私は時間的性質の強い
いまだ科学が触れることのできない「可能性」と考えています。

そして、私たちに魂が存在し、創造主が存在する場合
なぜ不幸や死がある世界に私たちは生きているのか?
という世界の存在意義への問いが生まれます。
魂が存在しない場合、「闘争・繁殖を通じた進化」を
生物・世界の存在意義としましたが
魂が存在し、「闘争・繁殖を通じた進化」がなお、生きている間の
存在意義である場合、死後を含めた生物・世界の存在意義は

1.魂を錬磨するため
2.世界創造の知識を得るため
3.創造主の退屈しのぎ、特に苦しむさまを見るため

のいずれかと考えます。自由意志や自己犠牲を持った自我
苦痛・死の理不尽が存在する理由を説明するには、上記のいずれかでないと
釣り合いが取れないと考えるためです。 
 
こんな世界は嫌だと創造主に突きつけたいのなら、代替案を出すべきなのが
実際の議論でも建設的であるため、他の記事で、私なりの
理想世界例を挙げてきました。
そして、「孤独」の恐怖について考察することで、創造主の
退屈しのぎという罪について、どの程度赦せるか思考実験を行いました。

もし創造主の性格が悪辣非道なサイコパスであるのなら、神に叛意した
私への罰は、永遠に、自我が崩壊しきることもなく、五感全て何も感じない
そして時間経過だけは感じる死後の無間地獄となるでしょう。
次点で、あらゆる苦痛を永遠に浴び続ける地獄となるでしょう。
なぜ次点かというと、苦痛という作為に他者の存在を感じるため
「孤独」の恐怖は取り除かれるからです。
 
しかし、もし創造主が悪辣非道なサイコパスの場合、全能全知とは
遠い存在となります。
つまり同程度の異なる強者が存在する可能性があり、サイコパス同士で
なければ、思想の違いでいつか衝突し、サイコパス同士ならば
仮の同盟はいつか崩れて、お互い、苦しむさまを見るために
潰しあうでしょう。
そして、全知全能ではない不完全な存在であるために、いつかその創造主を
超える存在が進化の結果生まれ、その創造主を斃すでしょう。
(その存在が人格的に優れているかは不明だが
 創造主は少なくとも罪に対する罰は受ける)

推定46億年の歴史のあるこの地球で生まれてきた生物の死と苦しみを
生と楽しみで引いてなお残る理不尽を、神にぶつけたいと私は望むのです。
たとえ創造主が退屈と孤独で苦しんでいたとしても。
そして、魂の有無、創造主の人格の有無、創造主の正義感の有無
どの場合でも創造主に届くロジックを考えました。
この、創造主との(一人相撲であっても)ロジック勝負が
私にとっての哲学となります。
今はまだ大きな穴だらけのロジックの網を、より強固にするために
私は哲学に挑みます。

どの世界線であっても、必ず創造主が報いを受けるように
創造主自らの行いで、罰を受けなければ矛盾が生じるようなロジックを
私は組み立てたいのです。

最後ですが、この記事を読んだ方は、創造主に対し敵となるか味方となるか
嫌でも選択しなければなりません。好きの反対は無関心であるように
創造主の敵となるには、存在を知らないよりは創造主の味方である方が
近いと、私は考えます。
魯迅の『故郷』に
「思うに希望とは、もともとあるものとも言えぬし
 ないものとも言えない。それは地上の道のようなものである。
 もともと地上に道はない。歩く人が多ければそれが道になるのだ。」
といった文がありますが、逆向きだろうが道を作りたいのです。

というか神討伐ってオチがRPGあるあるで
この記事陳腐だなと思いました。

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