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私が抱く「信仰」について

今回のテーマは、私にとっては「哲学」と裏表の関係にある「信仰」についてです。

結論としては、私の「哲学」は悲観論であるのに対し、「信仰」は楽観論を綴っています。

「私にとっての「哲学」」の記事では、酒場でくだまく呑兵衛のように
不満を垂れ流してみましたが、私個人に目を向けると
基本的には現在の暮らしに納得していますし
感謝したいものはたくさんあります。
数百年前では一般市民が食すことなど考えられなかったアイスを
容易く食べることができますし、甘味も好きなだけ食べることができます。
ビデオゲームとインターネットの発達は、家庭用PCでMMOやVRchatが
容易にできるようになり、質さえ問わなければ四六時中ゲーム漬けの
日々を送ることもできます。
出版業界は下火で、紙媒体の本の数は低下気味でありますが
電子出版やネット小説など、アーカイブというべき大量の蔵書に
アクセスできるようになっています。
動画配信サイトを開けば、クラシックからマイナーなアニソンまで
数十秒の広告を目にするだけでいつでも聴くことができます。
過去の人々の努力の上にこの贅沢は成り立っているのですが
そのことに私は感謝しています。

納豆に小ネギが入ってるだけでも贅沢と思う安あがりな性格なので
我ながらコスパがいいなとは思っております。
数万円もする高級食材を用いた料理といわれても、ピンとこなさ過ぎて
魅力を感じませんし、お酒に至ってはアルコールの苦みが好きではないので
味として単純に好きと思わず、お酒のメリットは洋菓子の香りづけ程度
にしか思っておりません。

多少体が弱く、運動神経も劣っており、ウイルス性感染症には簡単に罹患してしまうほど免疫力が低いですが、身体的には特に大きな不自由を
感じることもないので、恵まれていると思っています。

容姿が悪いのは自分のねじ曲がった性根が反映しているせいだろうと
(いやいやながら)納得しておりますし、こだわりが強い性格が
無ければもっと気楽に暮らせただろうとは思いますが
じゃあ今と違う性格の自分は今の自分と同じ存在なのだろうか?
と考えてみた場合、多分違うだろうなと思うので諦めています。
誇りを無くしては人ではいられない、と考えている自分自身にうざったさしか感じませんが。
日本社会とのずれは多分に感じますが、稼いだ大金を女と酒とギャンブルに
しかつぎ込まない社会に適応できるわけもないので、これも仕方のないことと納得しています。日本は自然に湧く欲求を自然なものだから
尊いと捉えており、私からするとケモノの価値観が尊く正しいのですから。
理屈で考えて、女性を食い物にする構造の正当性を見いだせないので
それを毛嫌いする結果、経済活動の片隅にしか居場所がないのは
それに固執する私と社会が悪いのであって、神の領域ではないでしょう。
女遊びしたいならひとりで行けチキンどもとは思いますが。

「私にとっての「世界」と「オカルト」」で言及したように
仏教の因果応報・縁起・輪廻転生といった概念や、キリスト教のたとえば
「光あるうち光の中を歩め」「力を尽くして狭き門より入れ」といった
警句は、意味を十全に理解しているわけではないですが
私が好きなものです。ただし、好き嫌いだけでは万人に説得力を持って
推薦する(押し付ける)ことはできないので、哲学として取り上げることはできないと考えています。

霊や魂の存在、魔法的超常現象の存在、不完全な創造主の存在
物語の紡ぎ手としての私の存在意義、信じることが可能性を産み出し
可能性を操作する、これらも、私が好き嫌いで信じているものに
過ぎないので、根拠となる論理を用意できなければ他者に「あると信じろ」と迫ることはできないでしょう。
あると信じたほうが、私にとっては生きるのがちょっとだけ
より楽しく思えるのですが。

このように、「信仰」を中心に考えると、自分が得た日々の幸福への感謝を神に伝えるものとなり、「哲学」を中心に考えると、人が感じる悲しみ
苦しみを創造主へ訴えるものとなります。
地震は来ないと言って、免震設計もされていない建物に他人を住ませることが無責任であるように、私が楽観的に考えている世界観を
他人に勧めて当てが外れた場合の責任・補償を
私が負うことはできないからです。よって、なるべく説得力を持つように
悲観的に考えて、それでも希望が残るようなロジックを、哲学において
私自身は組み立てたつもりです。

現時点での私の「哲学」の大きな関心事である
時間」の性質・「」・「孤独」については、未熟ながらも他の記事で
一通り書ききったと思っています。

私の「哲学」を、より論理だけで裁定されるために、論理に説得力を与える目的以外の私自身の個性を、消そう消そうと努力しているのですが
少ないながらも、私の承認欲求と自己顕示欲が邪魔をするのに
困っています。
記事を重ねるごとに、より雑味が増すので、目下課題です。

これも雑味ですが、最後に詩の一文を紹介して締めたいと思います。
ヒュームの不可知論を認めつつも、なお信じたいものを信じる
私にとっての「信仰」です。

タゴール作 高良とみ訳 『ギタンジャリ』より

ここから わたしが立ち去る時
わたしの別れの言葉に こう言わせて下さい
わたしが 見てきたものは
たぐいなく素晴らしいものでしたと

わたしは 光の海に 拡がる蓮の花の
秘められた蜜の 甘さを味わい
わたしは こんなに祝福されました――と
これを わたしの別れの言葉に させてください

数限りない形を そなえた この劇場で
私は 劇を演じてきました。
そしてここに形のないものの
姿を見ることが出来ました。

触れることの出来ないものの手に 触れられて
わたしの体も手足も喜び踊りました。そして
ここに終りがくるものなら 終りとなるがよい
これを わたしの別れの言葉に させて下さい


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