1度死んだ者へ
また今度ね
またっていつだろう。
明日?明後日?来月?1年後?
未来に約束事を預けるなんてできない。
いつ死ぬか分からないのに。
接客業をしているとよく耳にする。
子供があれが欲しいと駄々をこね、親がなんとかなだめる。無い言い訳を振り絞って、
また今度ね、と。
大人の自分からしたら、それはいつ?どこで?
また来た時に絶対に買って貰える確証がない限りこの場で引き下がることは出来ない、そう思う。
しかし相手は子供だ。
いつか死ぬなんていう恐怖もなければ、汚い社会を知らない。誰かに刺されるとか、事故が起こるとか、未来に1ミリも不安を感じていないんだ。
ぼくはこれが欲しいんだと、あれやこれや感情論を、子供の小さい脳みそで考えるスピードよりも早く、親が手を引っ張り半ば強制的に帰っていく。
帰路で泣き喚こうが、車を運転するのは親だ。
抗うこともできない子供は声を枯らしながら家へ着く。
直接見てはいないが、きっとそんな日々の繰り返しだろう。
あの子が死ぬ前に、もっとやりたいことをやらせれば良かった。行きたいところに連れていきたかった。なのに、こんなに早く死ぬなんて…
実際、こんな妄想はどうでもいい。
起こるかも分からない恐怖に苛まれていたら、日常生活を送れない。
俺明日死ぬかもしれないから、今有り金を全て使うわ。焼肉行って全メニュー頼んで食おう。ディズニー貸し切ろう。飛行機のいい席とって世界旅行しよう。
なんて、そんなことしてる人は富豪以外いないだろう。
皆、死<将来への不安 なのだ。
明日も当たり前に生きられると思っている。
先月頭、親戚が亡くなった。
聞いた話によると、肺が機能せず、入院し人工呼吸器をつけていたそうだ。そう長くは持たないだろうと大きな病院へ移されたが、ほどなくして──。
小さい頃にしか会っていなかった。
正月になると家へ来てお年玉をくれるおじさん。
大人になった今、記憶の片隅から消えかけていた存在だった。
「もう歳も歳だし、人生を全うしただろう。
老いればみんな死ぬからね。」
と父は言った。
正直、血が繋がっていようが、頻繁に会う訳でもなければ、仲が良いという訳でもない、特別思い入れはなかった。
70いくつのおじさんだ、若くして亡くなった訳でもない。
当たり前のように命の終わりが来ただけだ。
皆、やりたいことを当たり前のように未来の自分に託す。
1年後には引っ越そう、3年後には車を買い換えよう、その前に旅行も行きたいし、どこどこで美味しいご飯を……。
子供から大人になるにつれ、
やりたいこと<ならなきゃいけないこと
の割合が増える。
おもちゃなんて買って貰えなくても命には関係無いが、働かないと生きていけない。
本当はやりたいことを仕事に出来たら1番いい。
仕事に行か"なきゃ"と億劫にならずに、行きたいと思えるはずだ。
実際はそうも上手くいかない。
みんな仕事なんて行きたくないが、生きるために頑張っている。
ルーティーンワークのような日々を過ごし十数年、やりたいことにまみれた子供はやがて成長し、大人になる。親の真似事のような生活を送る。
そうやって世代が引き継がれていく。
"やりたいこと"をどこまで許容するのかは難しい、人それぞれ線引きがあるはずだ。
やりたいことを達成出来るほど、幸福な人生へ繋がっていくはずだろう。
だが、子供が欲しいものすべて買い与えていたらワガママになる。教育に悪い。
かといって、我慢ばかりさせていたら可哀想。
そうやって、日々葛藤しながら生きている。
その結果生まれた言葉が、
また今度ね
なのだろう。
僕はうつ病を経験している。
うつは心の病気だなんてよく言われるが、実際は脳のバグだと(言い方が悪いが)思っている。
いくら気を強く持とうが、脳がおかしいのだから意味がない。
お風呂入らなきゃ、洗濯しなきゃ、ご飯作らなきゃ、あとゴミも捨てないと。
いくら頭で考えようが、体は言うことを聞かない。
思考・感情と現実のギャップに苦しめられるのだ。
あれしなきゃ、これしなきゃ、しなきゃしなきゃと。
まるで誰かに人生の設計図を任せているのか、指図でもされているのか。
誰も、君がしようとしていることなんて興味が無い。ただ自分の中で、これをしなきゃだめだ、こう生きなきゃだめだ、と決めつけているにすぎない。
でも体は動かない。
やりたいこと?やらなきゃいけないこと?
お風呂、洗濯なんてどうでも別にいい。臭くなるだけだ。ご飯だって作らなくても、既に売っているものがある。そもそも最低3日は水分だけで生きていけるし。
きっと、ご飯を作って、お風呂に入って、綺麗な状態で寝たい。
そうしたいという願望なんだ。
つまりやりたいこと、したいことの部類に入るだろう。
でも、ご飯は食べないと死ぬ、呼吸しないと死ぬ、これはやらなきゃいけないこと。
抑うつ状態に入ると、希死念慮が唐突に湧いてくる。だから尚更ご飯なんて食べずに死ねたら本望。
でも、あれをしないと、これをしないとという、生きるためにするようなことを常に考えている。
実は誰よりも生きたいという活力が湧いているのではないか。
生きなきゃ
と。
また今度ね という言葉は、生きることに対して責任を放棄しているのではないか。
自分にとっては今必要不可欠、やらなきゃいけないことでも、相手にとってはただのエゴでしかない。
仲が良い関係の人は、そのエゴの物々交換がスムーズに行えているからだ。
相手と行動を共にし、上手くマッチしなければ、また今度ねとスルーされる、お店にいた親子のように。
人はいつか死ぬ。
死ぬまでにしたいこと、しなきゃいけないこと、誰にも求められていないただ自分の中だけでの意欲に目を向けられているだろうか。
当たり前に老人になるまで生きれるだろうとは思っているものの、何をしているか、どう生きようかなんて考えている人は少ないだろう。
でも、何も考えなくてもいいんだ。
思った通りに人生が進むわけじゃないんだから。
どう生きていけばいいか、まだ自分なりの結論は出ていない。
やろうとした事なんて、すぐに実現できない事の方が人生多い。
でも、
死ぬまでにはやろう。
そう思うことにしている。
「いつか会いたいね!」
「今度○○行きたいな!」
友達からのお誘い。
僕なら、1時間後に集合しようぜと言ってしまうほど早とちりな性格だ。
実際はそうもいかない。予定を決めかね、ずるずると先延ばしにしがちだ。
でも、死ぬまでには絶対会う、絶対行く、心の中ではそう思っている。
また今度、ではなく、死ぬまでにやろう。
それって同じ意味だろう、死ぬまでになんて無責任だ、と思うかもしれないが、そうでは無い。
未来に約束事を預けることは出来ないと最初に言った通り、絶対に死ぬまでにやり遂げる強い気持ちがあるんだ。
傍から見ればおかしな考えだが、自分には確固たる信念がある。
自分の意思を持ってして成し遂げるんだと。
その積み重ねでいい、毎日小さな選択を繰り返していくだけ。
未来のことは分からない。
明日生きているのかすらも。
もしかしたら100歳まで長生きするかもしれない。
寿命は人それぞれだが、その人なりに、する事を死ぬまでに達成して欲しい。
"しなきゃ"
"するべき"
こんな、誰が決めたのか分からないような、人生の足枷はいらない。
意志のない選択は、生かされているロボットのようである。
○○やらなきゃ、を捨てて、
○○をやろう、へ。
生きなきゃ、から、
生きたい、へ。
そして、
いつか、ではなく
死ぬまでには絶対。
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