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式波・アスカ・ラングレーに過去のわたしの救済を見る


※『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』のネタバレを含みます。

※特に考察をしているわけではない、オタクの繰り言です。


エヴァンゲリオンをご覧になったことはあるだろうか。
私はアラサーで直撃世代よりかは少し下の世代にあたるのだが、地味に地上波放送を見ていた記憶がある。もちろん、難解を極めるストーリーを理解できていたわけではない。当時ロボットのかっこよさに目覚めたてだった私は、とにかくロボットや宇宙船が出てくるアニメを片っ端から見ていた。少し後になるが、『COWBOY BEBOP』をかぶりつきで見ていたきっかけもソードフィッシュという主人公が乗る宇宙船の機体が超かっこよかったからだ。

当時小学生だった私は、世界に数機しかない超カッコいいロボット(エヴァンゲリオンは正確にはロボットではないが、当時の私には区別がつかなかった)に乗る権利を得たはずの主人公・シンジがひたすらうだうだするのがめちゃくちゃ嫌いだった。主体性がないヒロイン・綾波レイも何考えてるかわからなくて好きになれなかったし、ゲンドウはずっと見下ろしてきて怖いし、ミサトさんも寄り添ってるようでなんかそうじゃない気がするし…。小学生の私にとって『エヴァ』は『ロボットが戦ってるとこはかっこいいけど人間が出てくるところはつまんない』アニメだった。ラストを見た覚えはないので、おそらく途中で見るのをやめてしまったのだと思う。

そして思春期、中二病の到来である。
当時住んでいた家ではケーブルテレビが導入されていて、24時間アニメが流れている夢のようなチャンネルを見ることができた。もちろん24時間見ることは不可能だったので、番組表を見て録画したものを親の目を盗んでひたすら見た。当時見て衝撃を受けたアニメは主にこれらだ。『COWBOY BEBOP』『少女革命ウテナ』『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』(もちろん神山版攻殻も好きだ)『人狼-JIN-ROH-』『AKIRA』『装甲騎兵ボトムズ』、そして『新世紀エヴァンゲリオン』だ。
小学生の頃よりはある程度理解力が上がり人間の機微にも聡くなった中学生にとって、シンジくんはやっぱりうじうじして見えたし、レイはやっぱちょっと不気味だった。ただ、アスカだけは妙に実在感があった。白黒はっきりしすぎるところや、若さゆえの尊大さや、自分の感情の制御ができないところ、その割に少しドライで、そして母親への強大なトラウマとコンプレックス。理解できるようでできないキャラクターたちの中で、唯一感情移入できるキャラクターがアスカだったのだ。

多分、私は要素として一番似ているのがアスカだったのだと思う。個人的に『母親との距離が近い』長女はアスカに感情移入する傾向にあると感じる。良くも悪くも母親の影響を受けすぎるためだ。初号機に搭乗するシンジに対し「七光りのくせに」と痛烈に当たるアスカの姿は、第二子ができて母親を独占できずに癇癪を起こす長子そのものだ。私にも弟がいるため、お恥ずかしい話ものすごく身に覚えがある。
ちなみに、レイは第二子以降の子が感情移入するようだ。超有名な『わたしが死んでも代わりはいるもの』というセリフにとても共感したと言っていたのは3人兄弟の末っ子の友人で、この観点はなかったのためものすごく感動した。

そんな感じだったので、アニメシリーズを見終えた際はとんでもないダメージを受けた。自己中心的でヒステリックなきらいはあったとはいえ、人並み以上に努力して、努力して、努力した彼女が至った結末があれだ。何がおめでとうだよ、何がめでたいんだよ、どこがめでたいんだよ言ってみろよふざけんなよと泣きじゃくりながら見たラストシーンを多分ずっと忘れられない。明確なトラウマだった。
そして、旧劇である。正式名称『新世紀エヴァンゲリオン劇場版 Air/まごころを、君に』を見た後思ったことは、「まごころ、どこだよ…」。旧劇はある種の『やさしい世界』を描いたものだとは思うが、アスカに関してはマジでもう眠らせておいてやってほしかった。ていうかあのエヴァ量産機戦の惨さったらなくない?弍号機とアスカをリョナ要員にすなマジで。頼むから。ほんとに。

『エヴァ、新劇場版製作決定』のニュースを見たのはそれから3年は経った頃だ。おそらくエヴァにトラウマを植え付けられたチルドレンは一様に「ああ、また地獄を味合わされるのか…」と思ったことだろう。私もそうだ。走馬灯のように、号泣しながら見たブラウン管の中の『おめでとう』、旧劇を見た後の虚無感、そんなものが頭をよぎった。しかし、他のチルドレンと同じように、私も虚無顔で公開初日に映画館へ向かい、座席に座った。前売り券は買えなかった。『エヴァ』を想起させるものを極力手元に残したくなかったからだ。トラウマが甚大すぎる。

そして幕が開けた。
はじめはいつトラウマが殴りかかってきてもいいように、びくびくしながら薄目を開けて見ていたが、『序』『破』『Q』と観賞し、いつの間にか新鮮な気持ちでエヴァの物語の再構成を楽しんでいた。そして、かつて理解ができなかったキャラクターたちの見方もずいぶん変わった。
その筆頭がシンジ君だ。いやだって、軍事訓練もろくに受けてない14歳の少年に状況説明も何もせず突然決戦兵器に乗って戦って世界を救えとかいくらなんでも無理ゲーすぎるし、大人が無責任すぎて吐き気がするレベルだ。そういうことが起きないための大人じゃないの…?何子供を矢面に立たせてんの…??無能なの…???そんでいざ頑張って戦ってもろくに評価されないわ、気がついたら14年経ってるわ、『行きなさいシンジくん!誰かのためじゃない!あなた自身の願いのために!!』ってめっちゃいいセリフ言い放ったミサトさん当人に全力で掌返されるし、エヴァの大人全般まじで報連相しなさすぎじゃない????大人としてどうなん????????とQを見た当時全力で社畜だった私は強く強く強く思った。シンジくんが本当に可哀想…。もうやめなよそんな会社……。
(ちなみに、シン・エヴァでは『破』での例の掌返しを悔いたミサトさんがきっちり大人としてけじめをつける展開がありとても安心しました。よかった。大人として彼女をマジで嫌いになりかけた…)閑話休題。

話がずいぶん脱線したが、今回話したいのは惣流から式波に変更された、アスカについてだ。
相変わらず尊大で、自己中心的で、素直になれなくて、でも繊細なアスカのままだった。14歳のアスカよりも29歳のミサトさんに年が近くなった現在の私にとっての式波・アスカ・ラングレーは、トゲトゲしてやわらかいおなかを必死に守っているハリネズミみたいだった。そんなアスカが年相応に同世代の子達とキャッキャやってる。もうそれだけで号泣である。シンジとレイのために3号機の実験パイロット役を志願したアスカが呟いた「そっか、あたし、笑えるんだ」なんて、あまりのけなげさに血涙が出るかと思った。なんならいまこの文章打ちながら泣いてる。相変わらずリョナ枠だったけどな!!!
それでもアスカはアスカのまま『破』も、『Q』も生き延びた。『Q』のラストで赤い砂漠をずんずん歩くアスカの姿を、私はやっぱり号泣しながら見送った。

そして『破』から導入された最大の新要素、マリ。
マリは謎の女だ。(彼女は明らかに『少女』ではなく『女』だ)明らかに他のチルドレンを被保護者として見ているし、口ずさむ曲、レイのオリジナルへの言及など、枚挙に遑がない。でも、ぶっちゃけそんなことは正直どうでもよかった。わたしにとって一番大事だったのは、『マリ』は、『アスカ』の『相棒』であることだ。
旧作から、アスカはいつも『ひとりぼっち』を強調されていたように思う。シンジのペアはレイ・もしくはカヲルだったし、梶にはミサトがいた。アスカはいつも、だれかの一番になりたい女の子だったのに、だ。
そんなアスカが他者と軽口を叩き合い、対等にコミュニケーションが取れている。感動した。「あたしをちゃんと見てくれる人は初めからいないし」と虚勢を張っていたあぶなっかしいあのアスカが。厳しい生い立ちで心の中に癒えない孤独をかかえていても、その空白を少しは埋められていたんじゃないか。でなけりゃマリの大胆なボディタッチやコミュニケーションを許すはずもない。だってアスカはハリネズミだ。マリにやわらかいおなかをさわらせてやるまでいかなくても、針を立てることがないくらいの信頼関係ではあったはずだ。


おそらくシン・エヴァンゲリオンを見た中には『マリアスだと思ってたら違った…』という人もいるだろう。そこはちょっとだけ私も思った。だってすごいいい関係だったもんね。私だってシン・エヴァのあの瞬間、「アスカァ!」と叫んだマリに号泣したよ。わかる。でもね、ケンスケ、いい男だと思う。さすがに着ぐるみから出てきたときは『いやお前か〜〜〜い!!!』って笑ったけど、旧作の母親の呪縛から開放されたアスカにとって、まずエヴァの呪縛がない『リリン』で(エヴァの関係者だとどうしたって傷の舐め合いになってしまう気が)、適度な距離をとれて、人の機微にも聡く、いい意味でドライで、何よりエヴァの関係者じゃないからこそ『エヴァの搭乗者としてではない、アスカ自身をちゃんと見てくれる人』なのだ。アスカにめちゃくちゃフィットする綴じ蓋だと思う。もしあのポジションが梶さんだったなら『悪いこと言わないからその男だけはやめとけ!!!』って心の中の老婆心が暴れただろうから。(余談だが、新劇ではアスカの梶さんへの執着が完全カットになっててよかった。惣流は男運、あんまりよくなさそうだもん…)

でもそんなことより、何より『友情』は形に囚われないものだってことは、恋愛がわからない私がよく知ってるから。(次の世界線でもケンケンを選ぶかはわからないけど、)伴侶として選んだのはケンケンでも、アスカにとってのマリは恋愛という枠には囚われないのだと思う。マリは自由な女で、『相棒』だもんね。うんうん。
ちなみに、駅のホームでひとりのアスカ問題に関しては、私はかなり肯定的です。というのも、『必ずしも誰かとつがいにならなければならないなんて事はない』という可能性の提示を示唆していると感じたわけです。なにせ私はアロマンティックアセクシャル自認で、婚姻しなければ幸せになれないという世間一般的な価値観に疑問を持っているので。あと、そもそもケンケンはエヴァチルドレンではないので『チルドレンたちがエヴァの呪いから開放された描写としてのラストシーン』にはいなかったのかなと思ったり。端末いじってる感じだったし、ケンケンと連絡とってたのかも。かわいいね!(脳死)

だからこそ、いつかあの世界でマリと出会って、わちゃわちゃしながら仲良くなって、今度は平和な世界でだらだら「ケンケンのやつ、ほんっと気が利かないのよね」「まあまあ姫、お茶でも飲みなよ〜。あ、このスイーツおいし〜!!姫も食べてみなよほらほらほら」「ちょ、近いわよコネメガネ!」なんて話をして欲しい。おいしいもの食べて、笑って、たまにしんどいことがあったってきっとアスカなら強く生きていってくれる。もう使徒もエヴァもない世界なんだから。


………だめだ、『One Last Kiss』を聴きながら書いてたら本格的に泣けてきてしまった。

なんにせよ、アスカの人生に幸多からんことを。
それでは。

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