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【ピリカ文庫】 フウセンカズラ

 「お疲れ様でした。お先に失礼します。」
真奈美は、差し込んだタイムカードが出てくるのを待って、フロアに向かって声を放った。
 「はーい、お疲れ様でした。」
 残業中の上司が、机から顔を上げて、いつもと同じように穏やかな返事を返してくれた。

 今の職場へ転職して二年になるが、特に大きなトラブルもなく働かせてもらっている。有難いな、と感じる反面”ナニカタリナイ”という欠乏感を覚えるようになった。
 以前の職場では大学を卒業してから15年間正規雇用で働いてきた。残業も多く、給与は月並みだったが、ボーナスが年に3回付いてきた。今の職場では契約社員で、定時にあがれる働き方は、立場的に気楽ではあるものの、独身で一人暮らしの真奈美にとって余計な事を考える時間が増えた。
 新しい仕事に慣れた頃から”コレカラドウシヨウ”という不安が常に付き纏っている。

 恋人とは、二年前の銀杏の季節に別れた。その後、誰とも付き合っていない。別れを切り出したのは、真奈美の方からだった。恋人であった和幸とは5年付き合った。和幸は、真奈美より6歳年下で、いつもどこかで真奈美の意見を尊重してくれた。
 二年前の秋、一緒に暮らそうという和幸の提案に対して別れを告げた真奈美に、最初は戸惑っていたけれど、「分かった。真奈美ちゃんらしいね。」と和幸は言ってくれた。
 二人は一度も喧嘩をしたこともなかった。今振り返ると、喧嘩をする勇気がなかったからかも知れない。
 別れを切り出した後に、どういう会話をしたかは覚えていないけれど、あと一週間もしたら散り始めそうな銀杏の樹が辺り一面を見事に黄色く眩しくさせていた景色が目に焼き付いている。それから和幸とは一切連絡を取っていない。

 通勤は、乗り換えなしで電車で38分。途中で降りるのは面倒で、自宅と勤務先の最寄り駅しか、ほぼ利用していない。それでも生活に困ることもなく済まされている。
 職場を出てから自宅へ向かう電車を待っている間にスマホを見ると、宅配の不在通知メールが1件届いていた。送り主を確認すると母からだった。そのまま、スマホで再配達の依頼を済ませた。
 LINEを見ると赤く5の表示があり、開いてみると莉子と紗江子さんからだった。
 莉子からのメッセージを開く。くまがケーキを持ったスタンプに続いて”なかなか会えないけれど元気にしてるかな?お誕生日おめでとう。よい年になりますように”と送られてあった。
 莉子は、高校時代からの親友で、こうして真奈美の誕生日には必ずお祝いのメッセージを送ってくれる。”仕事と子育てで忙しい中に毎年覚えていてくれてありがとう。よい年にします!”と返事を返した。
 スタンプを探している間に電車が到着したので、いつもよく使う、小鳥がおじぎをしているスタンプを送ってスマホを閉じた。

 車内に空いている座席はなく、開いた扉の反対側の手すりのある角をキープした。吊皮を握るのは苦手で、この場所が真奈美の落ち着ける定位置になっている。
 扉が閉まり電車がゆっくりと進みはじめた。真奈美は、再びスマホを開いて、紗江子さんからのLINEに着手した。
 ”真奈美ちゃん お誕生日おめでとう。いつも優しさをありがとうね。頼りっぱなしの私ですが、今日が真奈美ちゃんにとって幸せなお誕生日になりますように。また家へ寄ってください。”律儀で丁寧な紗江子さんらしい文章が綴られてあり、花束を抱えたウサギのスタンプとクジラがウクレレを持って踊っているスタンプとが連打されてあった。
 紗江子さんは、以前の職場の同僚で、真奈美より二回りほど年上だが、とても気が合う仲で、一緒にいて心地よい。
 真奈美の職場と自宅を結ぶ路線とは反対方向にあり、そこから更にバスで移動しなければ辿り着けない紗江子さんの自宅に、退職してからも、何度かお邪魔させてもらっている。
 
 紗江子さんへの返事を綴っている最中に、見知らぬ番号から着信があった。15秒ほど点灯して着信が途絶えた。
 誰からだろうという不安から、LINEを閉じて着信のあった番号を検索にかけた。
 すると「CAKE HOUSE 花音」と出てきた。続けて住所を検索すると、真奈美の訪れたことのない郊外にあるケーキ屋さんだった。
 何の用事だろうか。気になって関連しそうな事柄を思い起こすが、何も繋がらない。
 そうこうしているうちに、自宅の最寄り駅に着いた。
 改札を出て、人通りが少し落ち着いた場所で着信のあった番号をタッチした。二回ほど呼び出し音のなった後に
「お電話ありがとうございます。ケーキハウスかのんです。」と明るく活発そうな女性が電話に出た。
「あの、お電話いただいていたので、折り返しお電話差し上げました。」と真奈美が話すと
「あ、是枝真奈美様ですね。お電話ありがとうございます。本日、是枝様にケーキをお預かりしておりまして、何時頃ご在宅か確認のお電話でした。」
 怪しい電話なのではないかと不安げに電話をかけた真奈美とは対照的にハキハキとしっかり用件が用意されていた。
「え?ケーキですか。」誕生日とケーキは関連付きそうだが、真奈美自身がケーキを注文したりしていないので話がピンと来なかった。
「はい、宅間和幸様から、是枝真奈美様宛にケーキをお預かりしております。何時頃お届けに伺えばよろしいでしょうか。」
 ケーキ屋の女性店員が何の迷いもなく話している間に、真奈美の頭は何年分かの記憶や思いで一気にグルグルしていた。

 自宅に着いてからも頭はグルグルしたままで、とりあえず部屋着に着替えた。
 インターホンが鳴った。あれ?早いな、と思いながら出てみると、再配達の依頼をかけた宅配業者だった。
 そんなことも忘れていて、受け取った母からの荷物を開けると、ジップロックに詰められた母手作りの漬物や真奈美の故郷特有の食品とこちらでも十分買えそうな菓子が箱いっぱいに収められていた。
 一筆箋に懐かしい文字で「お誕生日おめでとう。身体に気をつけて、無理をしすぎない程度にがんばってください」と書かれてあった。
 再びインターホンが鳴った。出てみると、今度こそ、ケーキが入っていると思わしき白い箱が入った紙袋を携えた女性が立っていた。
 先ほど電話で話した明るいトーンの女性とは声が違っていて、静かで落ち着いた雰囲気で真奈美と同年代ほどに見える。
「宅間和幸様からのご依頼でケーキをお届けに伺いました。」と、静かに紙袋を手渡してくれた。
「ありがとうございます。」真奈美は、白い箱の入った紙袋を受け取った。
 女性は、そのままでは帰りにくそうに
「あの、今日お誕生日なのですね。おめでとうございます。」とこちらを窺うように切り出した。
「はい、ありがとうございます。」紙袋を持ったまま真奈美も答えた。
「私、パティシエをしておりまして、本来ならこうして、パティシエが直接ケーキをお届けすることはないのですが、宅間様からご依頼を受けて作らせていただいたケーキがご依頼に合っているか自信がなくて、こうして伺わせていただきました。」
「はい。」
「あの、宅間様からのご依頼が”フウセンカズラ”のケーキだったのです。お恥ずかしながら、私、今回のご依頼を受けて初めてフウセンカズラを知りました。」

 ”フウセンカズラ” 真奈美は、すっかりその存在を忘れていたけれど、よく知っている植物だ。
 
 小学生の頃に、近所のおばちゃんからもらったフウセンカズラの種。丸くて黒い種には、大きなベージュのハート柄が入っていた。
「これを植えたらね、夏には風船の実がなるの。その風船に願い事をしたらね、その気持ちがポーンと天まで届くんだよ。」おばちゃんが、そう教えてくれた。
 
 プランターに植えたフウセンカズラの種は、緑の蔓がぐんぐん伸びて、真奈美の家の窓一面に広がった。白い小さな花を咲かせた後にグリーンの紙風船みたいな実がなった。
 小学生の真奈美がどんなお願い事をしたかは覚えていないけれど、カラカラになった風船の実の中から、またハートの柄の模様が入った種が3つ出てきたのは感動的だった。
「いつかね、庭付きの家に住んだらまた植えてみたいんだよね。」和幸にこの話をしたのを覚えている。

 玄関の扉を閉めて、真奈美は紙袋からケーキの入った白い箱を取り出した。
 箱を開けると、中から艶やかなピスタチオ色の丸いケーキが出てきた。ケーキの上にはキラキラしたカラメル色の華奢な飴細工で作ったと思われるボンボンが5つ乗っかっていて、真ん中の白いホワイトチョコのプレートに“HAPPY BIRTHDAY MANAMI”と記されていた。
 ケーキを届けてくれたパティシエの女性が、きっと困ったであろう依頼の内容と依頼主である和幸が可笑しくて、真奈美はケーキを見つめながら頬を緩ませていた。

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