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土成り、人成る② 瀧山城(摂津)

 神戸の六甲山系一角に「布引ハーブ園」という観光地がある。新幹線新神戸駅からロープウェーで一気にのぼったところにある植物園で、そこから三宮の街、神戸港を一望できる。天気が良ければ大阪湾や淡路島まで遥か見渡すことができる。今では憩いと安らぎを与えてくれるこの行楽地も、かつては戦を想定した山城の一部だった。標高316メートル(比高250メートル)は山城として特別高いとは言えないが、海に迫っているため下から見上げれば難攻牽制の威圧感があり、上から見下ろせば海沿い西国街道や兵庫津、灘沖の流通、軍勢を容易に把握できる。

松永久秀の城

 鎌倉末期に大塔宮護良(もりなが)親王の命をうけて、幕府打倒を掲げ苔縄城から挙兵し一旦は京都まで攻め上った赤松則村円心が、六波羅勢に押し返されて、立てこもったのがこの瀧山城である。戦国の世になって、四国より進出した三好長慶は、摂津支配の要として重臣松永弾正久秀をこの城に配した。松永久秀が現在遺構の残る城としての大改修を行ったという。後に三好氏と松永氏が対立した際には三好方に落ち、織田信長に荒木村重が謀反した際には、村重配下の花隈城(神戸元町)支城としてこの瀧山城も籠城戦略をとる。しかしついには信長方に落ち、以後は歴史記録に表れず廃城とされたと言われる。

松永久秀 (高槻市たかつき歴史Webより)

 こうして時代の流れと共に大きく揺れ動いてきたものの、この瀧山城を舞台とした戦記、武勇伝が多く伝わるわけではない。むしろ文化文芸に関わる優雅な逸話を残す。松永弾正久秀は、信長に謀反し最後は奈良信貴山城で「これだけは信長に渡すまい」と天下の名器「平蜘蛛の茶釜」を打ち砕き自刃したとの逸話が語られ続け、これまで野卑武骨、狡猾固陋のイメージが強かった。しかし、近年の研究では、三好長慶氏に仕える能吏としての功績や領地経営の手腕が評価されており、むしろ有能な合理主義的武将だったといわれている。瀧山城主時代の松永久秀には文化をめでる教養人としての記録が残る。主君である三好長慶を城に迎えるにあたり、観世太夫による能興行を行い、連歌師、武将のみならず、豪商、僧侶らをも含む多数を招いて「千句連歌」の会を催した。世はそのめでたき華やぎを「嘉辰例月」と賞したという。戦の城というよりも文化の城として後世に語られている。

明媚な布引の滝

 この瀧山城は、華厳滝、那智滝とともに日本三大神滝のひとつとされる「布引の滝」を、山の麓、つまり城の裾に有する。布引は雄滝(おんたき)、雌滝(めんたき)、夫婦滝(めおとだき)、そして鼓ヶ滝(つつみがだき)の4つの滝を持つ景勝の地であり、京の都に近いうえ、さほど奥山に分け入らずともこれらが鑑賞できることから、古来多くの貴人文人が訪ねた。実際どの滝も小規模ながら背後の大岩や池のような滝壺、さらには周囲の樹木と美しく調和しており、見事というほかない。大都市近郊にこんな風光明媚なところがあったのかと驚かされる。滝のみならず清流の緩急で表情を変化(へんげ)させる生田川と、それを照り映す優麗な岩肌と樹木は文人画家の創造心を搔き立てるに余りある。それを題材とした文芸絵画も多く残された。茶人としても名の知れた松永久秀自身に素養があったには違いないが、加えてこの地のもつ審美的景観と文化的伝統が彼の文化活動に大きな影響を与えたのだろう。

布引の滝

 本丸へは幾つかのルートがあるが、新神戸駅の東から布引の滝を鑑賞しつつのぼる経、つまり山城東側の生田川沿いの山路をとれば、他の山城では滅多に味わうことのない独特の楽しみ方ができる。道に沿って「布引三十六歌碑」がたつ。布引の滝を題材として奈良平安の古い時代から江戸期までに謳われた秀歌を明治になってから選ったものらしい。そんな歌碑を楽しみながら歩める。小生如きが偉そうな品評をしてはまこと申し訳ないが、良い歌もあれば、中にはこれはどうだろうというようなものもある。

    津の国の 生田の川の 水上は 今こそ見つれ 布引の滝 
                           藤原基隆
これなどは「わざわざ摂津まで出かけてあの布引の滝を見てこられたのですね」「さぞお美しかったことでしょうね」と会話のつまにでもされれば上々というほどの出来ではなかろうか。

   松の音 琴に調(しら)ぶる 山風は 滝の糸をや すげて弾くらむ     
                           紀 貫之
さすが歌人貫之は、少し技巧的ながら、視覚、聴覚、情景に関わる要素を見事に“みそひともじ”に編み込んで歌い上げている。
 まわりの風景と照らし合わせつつ一つ一つの歌にこんな下世話な批評を加えながらのぼっていると、本丸にいつ到達できるのやら覚束ないので、山城を楽しむのなら歌碑はそこそこにやり過ごしたほうが良い。しかし見事な景観と古歌を楽しみながら登れる山城など他にない。

急峻登攀

 雄滝を過ぎ、川に沿ってまっすぐ行かず、左に折れ南に向かう形で「猿のかずら橋」をわたって、三連からなる瀧山城のうちのまずは東曲輪群をめざす。渡橋後は、滝をめでる遊興気分を捨てて、一気に急坂を攻める登山のつもりで少しばかり気を引き締めないといけない。急勾配をしばらく登るため多少の体力脚力が必要だが、尾根づたいの左右の眺めの爽快さが疲れを忘れさせてくれる。右には谷向こうの布引ハーブ園を臨み、左には神戸三宮東部の街を見下ろす。新神戸からハーブ園に向かうロープウェーが手の届くかと思われるほどの距離に山路と交錯しており、ゴンドラの中の乗客を間近に見ることができる。座ったままに山を一気に駆け上ってしまうこの観光客らに、自分の足で一歩一歩踏み進み景色や風と一体化できる山登りの楽しみを少しでも分けてさしあげたい、と勝手な優越感に浸る。内心、ロープウェーで登ったらさぞかし楽だろうなとも思う。でも実際のところ、左右視界の開ける尾根歩きは、あの谷川岳の絶景を彷彿とさせるほどに爽快だ。

神戸眺望 (布引ハーブ園HPより)

 東曲輪群への経路はところどころ曲輪(くるわ)だった思われる削平地があるのみでさほどの遺構がない。東側はあまりにも急峻であるうえアクセスも尾根づたいの細道しかないため、恐らくこちら側から攻めてくる敵を想定していなかったのだろう。尤も、東曲輪群の大面積の削平地へはどうも一般の登山道では行けないようなので、今回は断念した。

本丸攻め

 東曲輪群の縁部を北側に回り込む形で本丸のある中央曲輪群へと向かう。さすが中央曲輪群には明確に曲輪だったと判別できる遺構がいくつか見られる。東と中央の曲輪群をつなぐ尾根を中途で断ち切る大規模な堀切(ほりきり)もみとめられる。本丸周辺には、土塁跡や、石を積んだ形跡も残り、戦への備えを感じさせる。見分けがつきにくかったが周辺には竪堀(たてぼり)も少ないながら掘られたらしい。「瀧山城址」石碑の立つ本丸最高点は案外に狭い削平地であった。松永久秀の頃はこの本丸あたりに居住館もあったと推測されている。ここで千句連歌会や能興行が行われたのだろう。東西に六甲の山々、そして南には兵庫津、瀬戸内海、そして淡路島を臨みながら、鼓の音を響かせたに違いない。戦に明け暮れる武将らにとってはさぞ優雅な息抜きになったことだろう。ただし現在は木々の伐採をしていないため残念ながら本丸周辺からは周囲を眺望することはかなわない。

主郭近くの堀切

 中央曲輪群から西へ少々下ると西曲輪群のはずだが、ルートが見つからず今回ここへのアクセスも断念した。ただ、西側は自然地形に手の入れられた形跡が比較的少ないという。それはつまり山の多い西側からの敵をさほど想定していなかったということになろうか。
 この瀧山城は、港、街道に面し、都にもほど近く、良い立地であったとはいえ、あまりにも急峻な為、総じてどこまで戦時に機能しえたのかについては疑問符がつく。つまり籠ってしまえば守り易い反面、攻め出すにはあまりに急勾配すぎて動きに制限を受ける。そもそも削平地も少なく各曲輪が広くないため多くの兵士を滞陣させることは難しかったのではないか。立地はよくとも花熊城(神戸元町駅北)の支城だったのはそのあたりに理由があるのかもしれない。花熊城が尼崎城の支城だったので、瀧山城は支城の支城ということになる。より戦いに適した城の補助でしかなかったのかもしれない。そのためこの城を主戦場とした戦そのものが少なく、戦にまつわる記録よりも文化に関わる逸話が残ったに違いない。

文化の城

 瀧山城は、戦に巻き込まれながらも勇猛な戦話が少なく、逆に文化の香りを伝える点で他とは一味違った山城といえる。そしてそれが一九九五年の大震災を経験し、そこから復興をとげてきた神戸の街に存在するというのも何だか象徴的な気がする。観光客が平和安穏を楽しめる布引ハーブ園が立地するのもこうした歴史の流れに沿った産物なのかもしれない。
 瀧山城は、文化と名勝を楽しみ同時に本格登山に近い体験もでき、さらに見晴らしも堪能できる城である。しかも電車の駅からすぐに登り始められる。これほどまでに利便性とお楽しみ要素が揃っていて、幾度でも訪れたくなる山城はそうそう多くあるまい。
 偉大なる先人の歌を悪評しながら、最後にお目汚しの愚歌で恥さらしをして筆を置こうか。
     赤松の 長く久しく 秀茂して  
           鎮め見守る 復興の日々
                          (2024年3月)









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