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  火と人間

氷ノ山

 若い人らと兵庫、鳥取の県境にある氷ノ山(ひょうのせん)の山小屋に泊まった。1時間そこそこで登れる経路は山が初めてという者にとってもさほど厳しいものではない。ただ、7月末の晴れた高温のお昼すぎから登り始めたため、相当に体力を消耗し疲労した。熱中症にかかりかけた者もいた。真夏昼中の登山は禁物だ。
 若い人にとっては「初体験」のオンパレード。“初“登山、“初“山小屋宿泊、“初”水電気なし生活、“初“流れ星…。驚いたのが「火」である。

火起こし

 ガス電気がないので湯を沸かすには火が必要。夏の暑いさかりでも標高1500メートルの夜は寒いため薪ストーブが必要。火を起こした。枯れ葉の上に細枝をのせ、火が枝に移ったら徐々に太い枝、薪へと火を移していく。燃えやすいものから火をつける、火は上にのぼる、燃やすには空気が必要、こんなことは皆知っている。しかし知っていることと実際にできるかどうかは別問題。なかなか着火しない。慣れぬ上、多くの枝や木が湿っていたので、枯れ葉で多少火が燃えあがっても小枝にさえ火が移らない。団扇であおいで空気を送るものの、火おこし初心者はあまりに一生懸命にあおぎすぎて上にのぼろうとする火の勢いを止めてしまう。若い人らは「つかない、つかない」と言いながらも楽しんで格闘している様子なので、火おこしに多少慣れている私は時折、こうしたらいい、ああしてみてはどう、とはいうものの基本は彼らのするに任せた。長い時間かけてワイワイ言いながらもなんとか火は起きた。“初“火おこしを堪能した様子。火おこしは従来「男の領域」とされてきた。狩猟時代の名残が男にあるとも、単に男は単純だから火を見ると血が騒ぐなどと言われた。しかし今回は女性も火おこしに熱中した。近年は火を巡ってもジェンダーの足かせが解かれているのかもしれない。

 火が十分におこり炎が上がり始めると、皆それを囲みスマホで写真やら動画を撮りだした。そして一連の「撮影会」が終わると、何言うともなくじっと火をみつめている。「楽しい」「あきない」「落ち着きますね」…。やがてパチパチと木がはじけるほどに火が馴染んできた。「…この音がいいですね」。

ゆらめく炎 (photo by Sakika)

自然を忘れた人間

 なんで火おこし、焚火にこれほど興じるのだろう、なにがそれほどに珍しいのだろうと不思議に思えた。しかし考えてみれば、若い人らにとって苦労しながら火をおこすことや、燃える炎を静かにみつめるなどということはこれまでにはない初体験なのだ。都会で焚火などすれば条例違反で捕まる。キャンプ場でバーベキューをするにも与えられた炭と着火剤にライターで火をつければ、ガスコンロとほぼたがわぬ火が起こる。そんな経験しかない若者にとって、自身で火を起こし、暗闇の中で火をみつめるというのは新しい喜びなのだ。

 かつて人類は道具と火を手に入れ大脳皮質、コミュニケーション能力の飛躍的発達をへて類人猿と決別し、共同社会を作り上げてきた。現代人は文明化された高度な便利さを手に入れたことと引き替えに、人類のよって立つべき原点や自然との接点・関係を忘れつつある。

夏のストーブ (photo by Sakika)

多元的世界

 この若者らと「多元的世界論(複数世界論)」Pluriverseに関する本を読んできた。西洋的二元論を下敷きとした近代の価値を体現する「普遍的世界(一元的世界)」Universeが、人類共通の目標とされそこに向かって「近代化」の道を進めてきた。しかし二元論的価値は、本来一体化していた人間/自然、肉体/精神、生/死、理性/感情を二項対立の枠組みで引き裂き、文明/野蛮、開発/未開の階層構造を作り出してきた。こうしたUniverseのもたらした結果が、環境破壊、共同体崩壊、貧富格差、社会病理である。Universeの矛盾を克服するためには、人々が自然との関係を見直し、死者(先祖)を含む他者や過去・現在・未来のつながりを再認識して、地域territoryに根差した生活圏=小世界の重要性を再評価しながら、多種多様な小世界が共存する多元的世界Pluriverseを主体的に構築することが必要、というのがその主張である(A. Escobar, 2022, Pluriverse: The Real and the Possible, Duke UP)。そんな内容をあれやこれやと議論しながらみんなで読んできた。

自然の中での議論

 山小屋の生活で火を実際に起こし、彼女彼らは大げさながら自ら生を維持することの大変さや、炎の揺らぎと燃える薪の音がもたらす心の安らぎを実感したことだろう。自然と一体化した中で人間の生活が営まれること、体験なくして「生」の感覚は掴みがたいこと、論理では説明しがたい認識の変化がありうること、などをおぼろげながら感じ取ったのではないだろうか。
 ほんの小さなことのように見えて、それこそがPluriverseで主張された、自然と人間が融合する生活感覚に気づく経験だったのではないか。字ずらを追うだけでは「現実的でない!」と一蹴されそうなPluriverse戦略には、実は高い可能性があるのかもしれない。

 火を無邪気に楽しむ若者を見てそんなことを感じた。   (2023.8記)


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