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『東北古墳研究の原点 会津大塚山古墳』を読んだ話

なぜこの本を手に取ったか

先日、会津若松に行ったとき訪れてみた会津大塚山古墳ですが、

シリーズ「遺跡を学ぶ」が出ているじゃないか!というわけで早速購入。
新泉社のシリーズ「遺跡を学ぶ」大好きなんですよね。手頃な価格、コンパクトに、でも詳しく遺跡のポイントや調査時の話なんかがぎゅっと詰まっている、ゆるふわ考古ファンにはありがたい存在です。

会津大塚山古墳に関しては、もちろん福島県立博物館で展示を見たりしたので(福島県立博物館が素晴らしい話も別でしたい!)、自分の頭の中ではすこーし理解の筋道ができてはいました。

初めての会津。会津は東北の玄関

先日の旅行は初めての会津だったわけですが、そこで学んだこと(こんなの常識、かもしないけど(汗))。それは、鶴松城のボランティアガイドさんがおっしゃっていた
「新幹線ができるまで、会津は東北の玄関だった」
という一言に尽きるような気がしています。
なぜそれが自分にとって学びだったか、というと、関東民な自分はどうしても西日本から伝播する文化(弥生~古墳時代の文化は基本的にはそういう伝播が多い理解)は、西日本→(略)→関東→東北だと思いがちだったのですね、無意識に。がしかし、実際「Go!Go!5世紀」展で見た遺物たちは、関東ではあまり見かけない、むしろ西の方で見たな…(ざっくりすぎる記憶)な物が。そこで、自分の認識を改めなければいけない。つまり、会津が東北の玄関ということは、その入口は北陸に向いている、ということなのですね。けして関東じゃない。それでハッとしていろいろ理解がつながりました。新幹線基準でものを考えてはだめですね。

四角い古墳がある地域って

ハッとしたのは、なぜか。その鍵は前方後方墳です。

福島県立博物館常設展示のパネル。これを眺めているだけでいろいろな想像がわきます

会津大塚山古墳は前方後円墳ですが、会津盆地の古墳には前方後方墳も多いということを福島県立博物館で学びました。
そして私は知っている、能登半島に四角い古墳が多いことを!フフッ(この話もまた別で書きたい)
そこで理解がつながった気がしました。

で、本の話

ここまで自分の与太話っていうか与太理解(そんな言葉ある?)を書いたのですが、本書にはその理解をきちんと深めてくれる内容が書かれていました。超大雑把にまとめるとこんな感じ。

①前提その1
1960年代ぐらいまで、東北には古い(前期、中期)の古墳はないと考えられていた。しかし会津大塚山古墳の調査を契機に、会津盆地には中期どころか前期古墳がたくさんあることが分かってくる。
②前提その2
この地域は、弥生時代に稲作を開始していたものの、弥生時代末の寒冷化により、水稲耕作を手放して狩猟採集の生活に戻ったことが分かっている(寒くなって稲の栽培が難しくなった)。
③そこで疑問
弥生時代の末期に稲作を手放し、リーダーシップを必要としない社会を形成していたにもかかわらず、なぜ前期古墳が多いのか?

この疑問とその解明が、本書の第4~5章に詳しく書かれています。
その答えは先ほど入口が北陸に向いている、と書いたことと関係があって、弥生時代終末期から古墳時代初めの遺跡から北陸地方(特に北東部、能登半島)と似ている土器がまとまって出土している、さらに土器だけでなく、遺跡から推定される家の構造も違うらしい。つまり結論を言ってしまうと、その地域からの集団移住があったようだ、ということが分かってきているようです。
本書には、東北系土器と北陸系土器の写真が掲載されていますが、かなり異質だということが分かります。また、土器だけでなく、家の使い方も墓の作り方も違う、というのも面白いなぁと思います。

まとめ、のようなもの

「Go!Go!5世紀」展で自分が感じた違和感、認識違い、の理由が北陸を通すことで見えてきて、それを補強してくれる本でした。

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