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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の27]


5. 近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

前回への補足

1072. 前回の記事の後半から、初期近代(early modern)の西洋哲学史を扱っています。愛(アガペー)の話から近代哲学史に話題が移ったのは、もっぱら私の連想によります。私の直観的連想によれば、「愛は再興されたが愛は人には不可能なものであることが判明する、というルターの陥った困難は、……真理に到る道を再興したが真理に到るのは人には不可能であることが判明する、という西洋近代哲学の困難と同じもの」(番外編2の26:1056)のように見えるのです。

1073. ほぼ同時代に踵を接して起こった宗教の革命(宗教改革)と学問の革命(科学革命)に、共通性があるのは不思議ではありません。その共通性を、〝真理に到る道〟の困難をめぐって、つまり認識論や知識論の領域で探ってみるというのが当面の課題です。

1074. 焦点になるのは、17世紀に西洋の哲学的思考法に導入された「観念」による論法です。「観念 idea」という言葉を用いて人間の心のはたらきを分析し、人間が真理と善にいたる道筋を明らかにする。17世紀から18世紀にかけて、こういう論法が哲学的方法として一般化しました。それを「観念説(the theory of ideas)」と呼ぶことがある。のちに触れる予定ですが、これは「観念論(idealism)」とは異なる立場です。そもそも「観念」とは何か、そして、「観念説」とはどういう立場か。

注: 私の知るかぎり、〝美〟は17世紀の哲学者の主要な関心事ではなかったように見えます。

1075. 「観念」とは、ほぼ「各人の意識の内容」ということだ、と前回述べました(2の26:1065)。Aさんのもつ「リンゴの観念」は、「Aさんがリンゴという言葉で考えている内容」であったり、「Aさんがいま見ているリンゴの知覚の内容」であったり、「Aさんの記憶しているリンゴの心像イメージ」であったりする。思考内容、知覚内容、記憶内容のいずれであるにせよ、Aさんの意識の内容です。「観念説」の言葉遣いにならえば、これらはすべて「リンゴの観念(idea)」と呼ぶことができます。

1076. デカルトは、考えている自分自身以外のすべてが存在しないと仮定しました。そして、〝考える私〟の心の中を覗き込んだとき、そこに神の観念を見いだした。彼はこれを手がかりにして神の存在証明を構成します。何度か述べましたが*、自分以外のすべてが存在しないとしても、自分のなかにある神の観念を手がかりにして神の存在が証明できれば、神は万物の造り主なので、結局、懐疑的な仮定を破棄することができる。つまり、宇宙全部が存在するといってよいことになる。デカルトの立論のカナメにあるのは、「観念」という哲学的な仕掛けです。

注*: 番外編2の8:313、同2の24:995、同2の26:1062。

1077. 今回は、この「観念」という言葉を用いた西洋17世紀の哲学的思考様式、つまり観念説が、いったい現代人の思考様式とどのようにつながっているのか、まず、この点を考えます。突然デカルトの神の存在証明をこまごま紹介しても、いったい現代の私たちになんの関係があるのかわけが分からない、と言いたくなるのが普通でしょう。観念説は、「自分には世界がこう見えている、他人にはどう見えていようと、私にとってはこうなのだ」という一種の居直りを可能にする論法です。根底には〝心の私秘性〟という人類社会に共通する心の構造が存在している。そのあたりを今回は扱います。

1078. なお、愛という主題の締めくくりをしていないことが気に懸かっているので、次回は愛にかんするまとめを書くつもりです。夏目漱石の『こころ』と本居宣長の「物のあわれ」論の検討から愛の思想に論点が移り、エロース、ピリアー、アガペーを取り上げて来ました。いったい日本における愛のとらえ方と、プラトン、アリストテレス、キリスト教における愛のとらえ方に、どういう共通点と相違点があるのか。次回は、この辺りについて述べる予定です。

心の私秘性

1079. まず、下に二つのエピソードを紹介します。どちらも、人の意識の内容にかかわるやり取りを扱っています。17世紀西洋哲学風に言えば〝観念〟にかかわるエピソードです。ここから出発して、どういう経路をたどると「観念説」の着想にいたるのか、それを考えます。

1080. 最初のエピソードは、ずいぶん昔、ノーマン・マルコムの書いた伝記『ウィトゲンシュタイン』で読んだもの。手もとに本が無いので、うろ覚えのまま記します。ウィトゲンシュタインは、「今朝、マーケットスクウェアにピンクの象がいた」という冗談を言うのを好んだそうです。まわりが、「じゃ、見に行こう」というと、「今じゃないよ、今朝のことだよ」と嬉しそうに答えたとのこと。

1081. ケンブリッジの広場にピンクの象がいる、なんてことは、まずありえない。だが、この主張を決定的に論駁することは難しい。実地に調べるといっても、今朝は確かにいたんだけどね、今から見に行ったってたぶんいないよ、と言われればどうにもならない。信じがたい話なのに、ひっくりかえすことができません。見え透いた虚偽なのに論駁できない、簡単な問題なのに解けない。この手詰まりな感じの愚かしさが、人間知性の陥りがちな窮地の戯画として、哲学者にはなんだか可笑しかったんだと思います。

1082. この冗談は、体験の一人称による報告というものの特性に根差しています。一人称の報告は、法廷での証言の扱いが典型ですが、まずとにかく信用するという方向で受け止められる。表現形式として、もともと信用性が高いから、反駁する必要が出てくるわけです。「昔々あるところにピンクの象がいました」といった語り方なら、反駁の必要は生じません。この一人称の体験報告の性質は、後期のウィトゲンシュタインが執拗に考え続けた問題でした(1092参照)。

1083. 二つ目のエピソードは2023年12月5日の読売新聞オンラインのニュースから。「岸田首相は5日午前、ギングリッチ元米下院議長と2019年に面会した際、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の友好団体トップが同席し、ともに撮影したとみられる写真を朝日新聞が報道したことについて、「同席者は承知していない。写真があったとしても、認識は変わらない」と述べた」とのことです。

1084. これも決定的に論駁するのは難しい。4年前に海外からの賓客数名に会って、その人たちと撮った写真が残っていて、だがそのとき誰と会ったのか知らない、というのはちょっと受け入れがたい。けれども、本人が「承知していない」と言い張るなら、これをひっくり返すのは困難です。

読売新聞オンラインより

1085. 以上のエピソードはすべて、ある人の心の中はその人自身だけしか直接に接近することができない、という特性にかかわっています。17世紀の観念説の言葉で言えば、さまざまな観念を人は自分の心の中で直接とらえている、だが、他人の心の中の観念を同じように直接とらえることはできない、ということ。この特性は、心の「私秘性(privacy)」と呼ばれます。

1086. 「私秘性」ないし「プライバシー」とは、この場合、〝心の中の事実認識や欲求、感情、意図などの心的内容(つまり観念)は、本人以外が直接とらえることはできない〟という特性です。この特性を承認すると(拒否するのはなかなか困難です)、上の二つのエピソードのように、「あなたがどう思おうが、私はこれこれこういう心的内容を抱いているのだ」と主張された場合、「いや、あなたはそんな心的内容は抱いていない」と打ち消すのは、不可能ではないものの(後述1099-1101)、一般には難しくなります。

心の私秘性と発達心理学

1087. 人間は、定型発達の場合、心の私秘性の原則を3歳から5歳にかけて身に付けるようです。どの文化圏で育っても、3歳過ぎから5歳頃までに、幼児は、自分と他人が別々の心をもっていてそれぞれ多少異なる仕方で事実を認識しているが、他人の心に生じているその事実認識を自分は直接とらえることはできない、ということが分かるようになる。

1088. 心の私秘性の理解は、このように、ヒトの生物学的な成熟に応じて出現する認知発達のひとつです。その意味で、私秘性は、「心/mind」、「意識/consciousness」、「魂/spirit」などと呼ばれるものに関する人類共通の概念的理解の一部を構成しています。観念説は西洋近代初期の哲学的手法ですが、その根底には人類社会に共通する心の構造がある。こうして観念説は私たちと結びついているのです。

1089. 1980年代から2000年代にかけて、幼児における人間の心というものの理解(幼児の〝心の理論〟)について、画期的な発見がいくつも得られました。3歳から5歳における心の私秘性の理解は、その一つです。それらの発見の概要については、拙稿「私は考えるとは、何をすることなのか? ――心の理論に関する発達心理学の最近の研究から――」(2004)(名古屋大学学術機関リポジトリ (nii.ac.jp))で紹介しました。門外漢の書いたものですが、また少々訂正したいところもありますが、発達心理学の一連の研究の案内にはなっています。文献等の裏付けを知りたい方は参照してください。

心の私秘性を理解する枠組み

1090. 心の私秘性は、やっかいな哲学的問題の一つです。ある人が「歯が痛い」と言うとします。その人がまさにそのとき感じている痛みは、本人以外が感じることはできない。しかし、その人の歯が痛んでいることは、言葉や身振りから分かる。この場合、その時その人が体験している一個の身体感覚それ自体は、本人以外が感じることはできません。だから、それがどういう感じなのか第三者がありありと分かる(感じる)ことはない。しかし、その人が「歯が痛い」と描写される種類の体験をしていることは、言葉や身振りで容易に第三者にも分かります。

1091. すなわち、(ア)他人の痛みの身体感覚それ自体は自分に感じられないということが分かる、と同時に、(イ)自分に感じられないその身体感覚が「痛い」と表現される種類の体験であることは分かる。この(ア)と(イ)を合わせた状態が、心の私秘性の理解の大まかな枠組みでしょう。

1092. 私秘性については、後期のウィトゲンシュタインが、「いま私は痛い(I am in pain)」という発話は何を表しているのかという問い(『哲学探究』246節)を通じて、しつこく考えています。私秘性の例として痛みを私が挙げたのは、その影響にちがいない。ただし私としては、上に提示した私秘性の理解枠組みを、積極的にウィトゲンシュタインの考えと結びつけるつもりはありません (というのも、そもそも、ウィトゲンシュタインが何を考えていたかが大きな謎なので……)。

1093. 上に挙げた2023年12月10日現在の日本国総理大臣、岸田文雄の談話の例に、上述の枠組みを適用してみましょう。岸田文雄の「同席者は承知していない」との発言は、以前にギングリッチ元合衆国下院議長に会ったとき、ほかに誰が同席していたのかは知らないという意味です。私たちには、岸田文雄の心の中に、心的内容として「○○は知らない」と記述される認知的状態があることは容易に分かる。本人がそう言っているからです(1091(イ)の適用)。しかし、岸田文雄がそのとき心の中で体験している認知状態それ自体は、私たちには決してとらえられない(1091(ア)の適用)。

1094. すると、「知らない」と口では言いながら、内心の事実としては「知っている」のかもしれないという疑いが残ります。というのも、4年ほど前に海外からの重要な客と面談して、4人並んで写真まで撮って、しかし、1人を除いて誰がいたのかは知らないというのは、なかなか考えにくいからです。少なくとも漠然とは覚えているんじゃないか。「いわれてみれば、問題の数名の人に会った」となるのが普通だろう。というわけで、岸田文雄は内心を偽っている可能性がある。だが、それを完全に立証すること、つまり「知らない」という本人の報告を決定的に――例えば、本人が虚偽を述べたと認めるまでに――論駁することは、なかなか難しい。一人称の報告にはある種の権威があります。

1095. 岸田文雄は、心の私秘性を、すなわち〝ある人の心の中はその人自身しか直接にとらえることができない、という特性〟を最大限に利用して、「同席者については、承知していない」という自分の主張を押し通そうとしている。誰が何と言おうと、私は知らないのだ、私が知らないということは私だけには直接とらえられる、だから、誰それに会っているはずだと言われても、知らないものは知らない、どうしようもないじゃないか、ということ。この〝どうしようもなさ〟が、一人称報告の権威(他者の容喙を拒絶する力)の源泉でしょう。

1096. 私の印象では、小佐野某が「記憶にございません」を連発して疑惑を封殺したロッキード事件の証人喚問あたりから、〝心の中は本人しか直接とらえることはできない〟という心の私秘性に立て籠もって不都合な質問をやり過ごす手法が、大手を振って利用されるようになった、そんな感じがします。急いで付け加えておくと、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」(日本国憲法第38条1項)のですから、他人の質問に答えない自由はいつでもどこでも保障されねばなりません。ただ、質問に答えないでおくために、心の私秘性を盾に取る手法が興味深いということです。

1097. ピンクの像のエピソードも岸田文雄の発言のエピソードも、心の私秘性がカナメの位置にある。その人が自分の心の中で直接にとらえている意識内容にもとづけば、ピンクの象が存在し、岸田文雄は当該人物に会った事実がない。「私の心の中ではそうなのだ」と主張されたら、それを覆すことは難しい。ただし、難しいけれども、不可能ではないのです。不可能ではないことを示す例をひとつ紹介します。

心の私秘性と一人称の報告

1098. もうずいぶん前に弁護士の友人と雑談していて、その折りに友人が言及したある話題が記憶に残っています。簡略に述べます。

〈殺人罪は、人を殺す意図(殺意)をもって人を死なしめることを言う。殺意の有無は、行為の外形的なあり方で判断できる。刃物で刺して心臓に達する傷を与えておいて、殺意はなかったと言っても通らない。だが、太腿部を刺し、切っ先がたまたま動脈を傷つけて失血死させるにいたった場合、殺意はなかったという主張が通ることもあり得る〉

1099. 人を殺す意図は、心の私秘性に鑑みると、その人自身だけしか直接にとらえることができない心的内容の一つです。しかし、だからといって、いつでも本人による一人称の報告(自己申告)が他の判断に優越するわけではない。それがこの話の要点です。ある人の心的内容は、心の私秘性の原則に沿って、本人にしかとらえられないとされるけれど、そうはいっても第三者の判断が優先されることもあるのです。

1100. 例えば、殺人犯が、「お前を殺したくはないんだ!」と心の中で叫びながら、被害者の左胸を刺した、というのが事件の真相だったと仮定しましょう。それでも、殺意はあったと見なされるに違いない。どんなに本人が「殺したくないとほんとうに思っていたんです」と訴えても、聞き届けられる可能性はまずありません。故意に左胸を刺すという行為の外形から逆算して、殺す意図があったと判定されるはずです。

1101. 意図にかぎらず、一般に心的内容は、言葉で表現される水準においては、私秘的な直接体験によってだけではなく、公共的な認定を通じて確定するという性質がある。心的内容の一人称報告は、実際、人々に受け入れられる場合もあれば、斥けられる場合もある。「ああ言ってるけど、あの人、ウソついてるんじゃないか」という疑念は、上に挙げたエピソードでも明らかなように、しばしば日常生活で生じることです。裁判官は、疑念からもう一歩踏み込んで、被告人が「殺したくないとほんとうに思っていたんです」と主張しても、それを判決で否定できます。被告人の心的内容はこうして一人称報告を斥ける形で確定する。司法制度は、個人の一人称報告を否定して、妥当と判断できる心的内容を個人に割り当てる権力をもっています。

1102. なお、仮定によって、「「お前を殺したくはないんだ!」と心の中で叫びながら、被害者の左胸を刺した」というのが事件の真相だったはずだ。だとすると、このような裁判官の判定は、一種の冤罪を生むことになるのではないか。こんな疑問をいだく読者もいると思います。だが、この疑問は必ずしも当たりません。というのも、裁判官は、次のように考えたと解し得るからです。心の中でそう叫んだのが一人称の体験的事実だったとしても、そのとき当該被告人は「殺したくない」という言葉の理解不能な使い方をしたにすぎない。つまり、被告人の言葉遣いは誤っていたのだ。被告人の一人称の体験的事実は、正しい言葉遣いで表現すれば、「お前を殺したい」だった。だから、殺意はたしかに存在したのであり、冤罪であるとの批判は当たらない。

言語から観念へ

1103. しかしこの例のように、心的内容が個人に外から割り当てられてしまうのは、あくまでも、言語化された一人称の〝報告〟の水準の話です。言葉にする前の、一人称の体験そのものについてはどうなのか。

1104. 「歯が痛い」という例についていうと、その人が感じている痛みそれ自体と、「歯が痛い」という言明は異なる水準にあります。その証拠に、痛みがないのに「痛い」と言うことはたやすいし、痛みがあるのに「痛くない」と言うこともたやすい。内心を言葉で偽ることは容易です。

1105. しかし、本人しか直接とらえることができない心的内容それ自体の水準では、偽りも誤りも起きないと考えられます。痛いときは痛いのであり、痛くないときは痛くないからです。そして、心の私秘性――ある人の心の中はその人自身だけしか直接にとらえることができないという特性――が成り立つのは、その人に起きた一個の出来事としての痛みについてであって、「私は痛い」という言明についてではありません。

1106. 同じように考えると、「ピンクの象がいた」という〝言明〟も、「同席者については承知していない」という〝言明〟も、すべて偽りの疑いがある。しかし、それぞれの言明を発するに至ったその人の心的過程そのものは、その人(ないしその人の脳)に起きた一個の出来事であって、その人自身しか直接にとらえる(当該の脳状態を持つ)ことはできない。こう言うことができそうです。

1107. 虚偽の疑いがありうる言明の水準ではなく、この心的過程そのものの水準で人間の知的活動を考察すれば、本人が直接にとらえることのできる事柄にもとづいて、虚偽の疑いの残らない検討結果が得られるはずだ。17世紀の哲学者たちは、こう考えた。そうして、各人の意識の内容をいう「観念(idea)」という用語で哲学体系を築くことにしたわけです。

前途瞥見

1108. 以上が、17世紀に「観念(idea)」という哲学的装置が魅力的に見えたいきさつです。言語ではなく観念を分析すれば、偽りや誤りのあり得ない自分の意識内容の直接的把握にもとづいて、知識や道徳を基礎づけることができる。この洞察は、17世紀以降、非常に長く西洋近代思想を支配しました。意識への直接所与から出発すれば、虚偽の疑いの残らない哲学的考察が可能だ、という発想は、一個の強固な教条ドグマとなったのです。

1109. 私の見るところ、このドグマから脱却する兆しが西洋の思想的潮流に現れるのは、20世紀の半ば頃です。それまでは、バートランド・ラッセルのような英語圏の哲学者たちも、ベルクソンやフッサールといったヨーロッパ大陸の哲学者たちも、意識への直接所与から出発するという姿勢に関しては共通していました。

1110. 20世紀思想史の常識に従うと、意識の直接所与へのこだわりは、言語への着目を通じて衰退します。意識は言語によって組み立てられており、言語は社会の共有物であって、したがって意識は社会的に構成されたものとして存在する。個人の意識体験に直接与えられるものとは、あらかじめ言語によって整理され分類された社会的な共有物にすぎない。という次第で、20世紀の半ば以降、種々の言語哲学や言語行為論、人類学や構造主義といったものが、意識の直接所与からの出発というドグマを捨てた思想家たちによって展開されることになった。

1111. 私が今回述べたことは、この観念から言語へという現代思想の直近の展開に逆行するかたちになっています。前節の見出しは、まさしく「言語から観念へ」です。初期近代の哲学者たちは、言語表現をはぎ取って、むき出しの心的内容を求めた。今後どこかで触れますが、17世紀には、中世スコラ学の学問言語の体系をしりぞけることが焦眉の急でした。言語を捨てて、観念へ向かう必然性があったのです。

1112. さて次回は、冒頭でお話したように、愛についての考察のまとめをする予定です。


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