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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の23]



4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)4

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3 アガペー(愛)について

方針の変更

909 キリスト教的な愛(アガペー)の話を、番外編2の19(2023年8月12日公開)から4回にわたって続けてきました。でも、私の言いたいことになかなか行き着かない。前回(番外編2の22)の公開時に、ツイッター(X)で、「今は、どこかに出られると信じて、出口の見えない地下道を進んでる状態」と述べました。正確にいうと、出口があることは、わかっていて、方向もわかっている。だが、今いる場所から一歩ずつ進んで、あといくつ角を曲がると出口に辿りつくのか、それがわからない。そんな感じがしていました。

910 これはべつに困ったことではない。議論の到達目標が大体わかっていて、途中の論証を一歩ずつ進めるのは、大変面白い作業です(やってる私には)。模型作りやお絵描き、数学や論理学の証明問題なんかに似ている。完成形の心象はある。そこを目指して、お、ここはこうするのか、で、こっちをこうすれば、うまくはまって、うん、次はあそこをちょっと工夫すればいいはず、といった感じで、飽きません。ですが、その過程をこまごま書いてしまうと冗長になる。なので、今回は方針を少し変更し、論証を多少割愛して、言いたいことの方から書くことにします。

アガペーについて私の言いたいこと――隣人愛について

911 アガペーについて私が言いたいことは、大きく括ると二つあります。アガペー(愛)の教えは、神への愛と隣人愛にかかわっている。まず「主なる汝の神を愛すべし。また、おのれの如く汝の隣人を愛すべし」(ルカ10:27*)とある。そして、この隣人愛が見知らぬ人や敵にまで拡張されることが、イエスの教えの特異なところだった。すなわち、「汝らの敵を愛し、汝らを迫害する者のために祈れ」(マタイ5:44**)。この神への愛と、拡張された隣人愛のそれぞれについて、気づきというか、発見というか、まあ私の思いついたことがある。その二つを話します。

注*: 並行記事、マルコ12:30-31、マタイ22:37-39。なお、新約聖書の訳文は、田川建三『新約聖書 訳と註 1~7』(作品社 2007~2017)によります。

注**: 並行記事、ルカ6:27~36。

912 まず隣人愛に関する思いつきの方から述べたい。こっちの方が単純だからです。中身は社会哲学にかかわる。平たくいえば、隣人愛の教えは人間関係のあり方を変えるのです。なお、神への愛の方は、人間と理想ないし絶対の関係にかかわります。こちらは哲学一般のさまざまな問題に波及しそうで、なかなか厄介なところがあると予想される。だから後回し(次回以降)にします。

913 隣人愛の教えは、二つの段階を含んでいます。まず、アガペーとしての愛は、過去のいきさつを帳消しにして、すべての外的な束縛から自分を解放することを要請する。このことは、「敵を愛せ」というイエスの特異な命令から明らかです。敵を愛することは、過去の諸事情から自分が自由にならなければ成立しません。

914 次に、アガペーとしての愛は、内的な束縛を断ち切って、対象へと自発的に向かうことを要請する。これは、相手との過去のいきさつだけでなく、自分の中の感情や利害計算などからも解放され、内的にも自由になって、いやいやではなく、進んで自発的に相手を愛することを意味します。敵は憎らしいという感情や、敵を愛して何になるのかという利害計算を乗り越えないかぎり、敵にとっての善を願うことは不可能です。

915 外的な束縛と内的な束縛について少し説明します。ある人が自分の敵であるとしたら、たぶん対立して争った過去の事実があるでしょう。この事実は、第三者が観察できるという意味で、外的世界に実在する。これが外的な束縛になる。しかしまた、そんな事実があれば、彼奴は敵だという怒りや怨みも当然ある。これは直接には自分にしかわからない感情ですから、内的といっていい。こちらが内的な束縛です。

916 外的な事実は内的な感情を生み、内的な感情は外的な事実に結実する。外的な事実と内的な感情は、交互に強めあって、束縛はらせん状に亢進する仕組みになっている。こういう場合、内と外は明快に区別できるものではありません。だから、上で外的束縛からの自由と内的束縛からの自由を対比しましたが、今のところ、この内と外の対比は便宜的なものにとどまります。後で意志の自由に触れる予定ですが(952, 953)、そのときに便宜的でない本質的な内面性について語ることができるはずです。

917 このように、外的及び内的な束縛からの解放という二つの段階は密接に結びついています。隣人愛の教えは対人関係のあり方についての教えです。そこで、この二つの段階を一つにまとめて人間同士の関係の上に映し出すと、こんな風に描き出されるはずです。

〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける。〉

918 愛(アガペー)に生きる人からなる社会では、それぞれの人が他者にこんな風に自発的にはたらきかけ合うことによって、お互いの人間関係が成り立ち、社会ができあがる。そう考えられます。このような働きかけとそれからなる社会のあり方を、「アガペー的な人間関係」と呼ぶことにします。私たちがキリスト教的な生き方とか、キリスト教的な社会といったものを思い浮かべるとき、その最良の部分は、このアガペー的な人間関係を意味している。私はそう思います。(最悪の部分は、本稿で扱う予定はないのですが、神の正義の名の下の侵略や殺戮でしょう。)

919 隣人愛に関する私の思いつきとは、このアガペー的な人間関係が、理想として近代社会の人間関係の原理になっている、ということです。近代的個人は、現実にはともかく、理想的には〈過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける〉ような存在である、と考えられているのではないか。隣人愛としてのアガペーについて私の言いたいことは、このことです。さらに、この延長上に、日本語人はアガペー的な人間関係と縁が薄く、その意味で、近代的個人ではないようだ、という認識があります。このこともあわせて言っておきたい。

920 というわけで、以下、アガペー的な人間関係が近代社会の原理だということと、日本語人にはそのアガペー的な人間関係が縁遠いということを、裏付けし、敷衍し、説明していくことにします。が、その前に、隣人愛をアガペー的な人間関係として解するのがキリスト教の正統であるのを示しておく必要があるでしょう。

よきサマリア人の譬え

921 隣人愛をアガペーとして解するとは、たとえ相手が敵であっても、アガペー的な愛をもって相手の善を目指して働きかけるということです。もちろん見知らぬ人や疎遠な人も、同様の愛をもって遇さねばならない。このことは、「よきサマリア人の譬え」(ルカ10:30-37)で語られています。

922 この譬え話は、イエスが律法学者から隣人とは誰のことかと詰問されたとき、その問いをさえぎって語ったとされます。かいつまんで言うと、ひとりの旅人が強盗にあって半殺しにされて街道に倒れていた。祭司やレヴィ人(下級祭司)は見て見ぬふりをして通り過ぎた。一人のサマリア人だけが手厚く介抱し、路銀を添えて旅籠に送り届けた。ここでイエスは、いったい誰がこの旅人の隣人だろうか、と律法学者に問い返します。律法学者は介抱した人物だと答える。するとイエスは、あなたも同じようにせよ、と告げるのです。

923 ユダヤ教の祭司たちは倒れている旅人を無視したのに、サマリア人だけが隣人愛をもって遇した。それだけの話ですが、当時ユダヤ社会でサマリア人が異教の風習に染まった者たちとして差別されていた事実を補うと*、イエスの反問の意図がわかります。ユダヤ社会で隣人扱いされていない人々が、かえって真の隣人愛を実践している。隣人を愛するとは、ユダヤ教の祭司たちのようにではなく、サマリア人のように振る舞うことだ。見知らぬ人、疎遠な人、敵かもしれない人に対して、手を差し伸べて働きかけることだ。だからあなたもそうせよ。律法に凝り固まった偏狭な隣人の概念を捨てよ。

注*: 田川建三『イエスという男』作品社 2004、pp.42-45。

924 イエスは、これまでの関係がどうあろうと、そういう外的な条件や動機をすべて度外視することを要求している。そして、自分の内なる自発性において相手の善を目指して働きかけよ、と言っている。過去のいきさつの無視と端的な自発性がアガペーとしての隣人愛の特徴と言えます。

アガペー的な人間関係は可能か

925 アガペー的な人間関係は、典型的には、汝の敵を愛せ、という逆説的な教えに集約されます。こういう人間関係は、世の中で普通に暮らしていればおのずと成立するようなものではありません。というのも、現実の私たちは、こんがらかったしがらみの中で生きるしかないからです。敵だけでなく、家族も、友人も、ちょっとした知り合いも、お互いに過去を引きずっている。そういういきさつを帳消しにしてその人と新しく向き合うことは、なかなか難しい。

926 否、難しいだけでなく、そもそも推奨されないかもしれない。お互いの過去は、自分は何者なのかという認識(自分の同一性アイデンティティの認識)を支える決定的な要素です。過去を帳消しにすることは、その人が生きてきた歴史の否定であり、そんなことをすれば、お互いの関係は変わらざるをえないでしょう。アガペー的な人間関係にはそういう危なっかしさがともないます。

927 初めて会う相手ならば、先入観をもたずにまっさらな気持ちでお付き合いを始めるのはよいことかもしれない。しかし、そんなときでも相手が人間であるのはわかっていて、若いか年寄りか中年か、気難しいか気さくか、勝ち気か引っ込み思案か、話が通じるか通じないか、こういったことは、会ったその場である程度分かります。そういう判断は、これまでに培ってきた自分の経験から出てくるものです。広義の先入観にもとづくけれど、これらをすべて抹消して真っ白な状態で人と接するということは、まず不可能でしょう。すると、アガペー的な人間関係は、危なっかしいという以前に、事実上成立しないのではないか。

928 上のような疑問は、しかし、多少の違和感を引き起こします。上の(917)の定式やサマリア人の譬えを素直に読めば、あからさまに危なかったり不可能だったりすることは要求されていない。過去のいきさつを離れ、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける。そういう人は、ごく普通の意味で、善い人です。だから、アガペー的な人間関係は絵空事ではないはずだ。上の疑問はどこか誇張されている。こう思われるわけです。

929 とはいえ、過去のいきさつを離れてどんな相手にも善を願ってはたらきかけるということは、一方では、人間関係を変えてしまう危なさがあり、他方では、そこまでの無差別を貫くことは人間にはできない。こういう批判もある程度当たっているように思われる。結局、アガペー的な人間関係は、実現可能な理想のようでもあり、現実的には無理な要請のようでもある。どうなっているのか。こんなときは、具体的な状況に即して考えると見えてくるものがあります。

母子関係と愛(love)

930 私が、西洋近代社会における愛(love)の問題に関心をもったのは、ひとつには、以下に紹介するルース・ベネディクトの『菊と刀』における「恩」と「恩返し」をめぐる考察がきっかけです。ベネディクトは大略以下のように述べています。日本社会においては、恩と恩返しからなる人間関係が、感情的な結びつきを形成している。その感情は献身的な愛情と呼ぶことが可能である。だが、それは西洋キリスト教文明圏の住人が愛(love)と呼ぶものとは違っている。

931 私の理解では、この違いを示すためにベネディクトが取り上げる事例が、アガペー的な人間関係の本質をとらえるためのちょうどよい導きになります。先回りして言っておけば、その本質とは、個人はこれまでの人間関係や社会規範の束縛を拒絶する最終的な権限をもつ、という個人主義の原理であるといえます。アガペー的な人間関係はそういう意味での個人主義を前提している。ベネディクトはこの原理を暗黙に前提して、日系人への聞き取り調査とその解釈を行なっています。その結果、『菊と刀』は、日本語人にとっては、むしろ西洋キリスト教文明の暗黙の前提について教えてくれる書物となっています。

932 『菊と刀』は、第5章と第6章が「恩」の概念の解明に当てられています。まず、「恩(On)」は英語では、“obligations”、“loyalty”、 “kindness”、 “love”といった語に訳されるが、そのいずれでもないのだという注意が与えられる。これらに日本語を当てれば、順に「さまざまな義務」「忠誠」「親切」「愛」でしょう。「恩」はいろいろな用法があるので、英語に訳そうとすると一語にはならない。しかし、ベネディクトは「恩」の意味の核心を的確に抽出します。

「それらの用法の全部に通じる意味は、人ができるだけの力を出して背負う負担(a load)、債務(an indebtedness)、重荷(a burden)である」(『菊と刀』p.115*)

人は、ひとたび恩を受けたら、なんらかの仕方で恩を返さねばならない。その意味で、「恩」が債務であるというのは、的確な理解です。

注*: ルース・ベネディクト『菊と刀』長谷川松治訳、社会思想社(現代教養文庫)1967。なお、Ruth Benedict, The Chrysanthemum and the Sword, Boston: Houghton Mifflin Company, 1989 にもとづいて訳文を適宜改める場合があります。

933 他方で、「恩」とはたんなる債務とその返済ではなくて、強い感情的な繋がりの意識をともなっていることにベネディクトは気づいています。恩を与えることはしばしば特別の配慮であり、受けた恩は債務として返済すればよいのではなく、十分な感謝がともなわねばならない。AがBに恩を与え、BがAに恩を返すという間柄は、AとBが「相互に身を献げ合うこと(reciprocal devotion)の純粋な現れ」(『菊と刀』p.115)と見なされ得る。こうして、恩と恩返しからなる間柄は、献身的な愛の関係として社会に出現することになるわけです。

934 この文脈で、忠犬ハチ公の挿話が、尋常小学校二年向けの修身の教科書(昭和十年十二月発行)から引用されています。少し長いのですが、昭和戦前期の修身教育が感情的な紐帯をことのほか重んじたことがわかる興味深い文章なので、全体を引用します。

 「ハチハ、カハイゝ犬デス。生マレテ、間モナクヨソノ人ニヒキ取ラレ、ソノ家ノ子ノヤウニシテカハイガラレマシタ。ソノタメニ、ヨワカッタカラダモ、大ソウジャウブニナリマシタ。サウシテ、カヒヌシガ毎朝ツトメニ出ル時ハ、デンシャノエキマデオクッテ行キ、ユフガタカヘルコロニハ、マタエキマデムカヘニ出マシタ。
 ヤガテ、カヒヌシガナクナリマシタ。
 ハチハ、ソレヲ知ラナイノカ、毎日カヒヌシヲサガシマシタ。イツモノエキニ行ッテハ、デンシャノツクタビニ、出テ来ル大ゼイノ人ノ中ニ、カヒヌシハヰナイカトサガシマシタ。
 カウシテ、月日ガタチマシタ。
 一年タチ、二年タチ、三年タチ、十年タッテモ、シカシ、マダカヒヌシヲサガシテヰル年ヲトッタハチノスガタガ、毎日ソノエキノ前ニ見ラレマシタ。」(『菊と刀』pp.115-116)

 これが渋谷駅前に今も銅像のある忠犬ハチ公のお話です。大正生まれの私の亡母は渋谷の氷川神社の辺りで育ちました。渋谷駅を老いたハチ公がうろうろしているのは小学生の頃に見たことがあるといっていました。

935 このハチ公の挿話の題は、「オンヲ忘レルナ」です。犬が飼い主になついて通勤の行き帰りについて歩き、飼い主の死後もながく駅に現れる。その話が恩を忘れない行動の例として人間の子供に教えられる。私の目には、飼い犬の行動が人間の子供の道徳的模範になるという発想は子供を侮辱するものに映るのですが、ベネディクトは、この物語の教訓を、「愛情の別名にほかならない忠誠」(『菊と刀』p.116)であると、おそらく教科書編纂者の意に沿って正しく読解しています。飼い主はハチをかわいがり、忠実な犬は飼い主から受けた恩を忘れない。ここに流れている感情は、たしかに愛情と呼ぶことが一応できるでしょう。

936 恩と恩返しの間柄が、愛と呼ばれるにいっそうふさわしいのは、親子関係です。特に、母親と息子の関係に着目して、ベネディクトは「恩」を次のように説明します。息子にとって母の「恩」とは、自分が赤ん坊だったときから成人するまでに母親がしてくれたすべてのことを意味している。だから、息子は、母親に孝養を尽くさねばならない。

「〔恩という語は〕母親が存在するというたんなる事実のゆえに息子が母親に対して負っている一切の負い目(all that he owes her)を意味している」(『菊と刀』p.116)

937 母親へ向かう息子の気遣いと孝行は、自分の生存が、産んでもらい育ててもらった全過程を通じて母親の善意に大きく依存してきた事実を認め、その善意に返礼をする行為です。恩返しは、かくして母の献身的な愛に報いる息子から母への献身であり愛となる。ベネディクトはそれを以下のように説明しています。

「「恩」という言葉は、この負い目(indebtedness)の返済を含意する。それゆえ、「恩」は愛(love)を意味することになる。しかし、主たる意味は負債(the debt)である。」(『菊と刀』p.116)

938 なぜ、負債としての「恩」が、返済を含意する〝ゆえに〟愛(love)をも意味することになるのか。恐らくベネディクトは、次のように(基本的に正しく)推論したものと思われます。「恩」は、第一義的には、ある人が他者からしてもらった何らかの好ましい事柄を意味している。その事柄が一個の孤立した出来事としてではなく、「恩」即ち〝債務〟として捉えられるならば、その事柄にはそれに見合った返済がともなう。ちょうど山々の存在が谷間の存在を含意するように、「恩」は恩返しを概念的に含意する。恩返しは、相手(恩人)にとっての善を目的とする行為となり、相手の善を意図するかぎりで、恩返しは「愛(love)」と呼ばれるための基本的な条件は満たしている。だから、「恩」は、それが恩返しを含意することにおいて、愛(love)と重なる部分をもつ。

939 しかし、すぐ続けて、ベネディクトは「私たち(we)」の考え方として、次のように述べています。

「これに対し、私たちは、愛とは義務の拘束を離れて自由に与えられるものであると考える。」(『菊と刀』p.116)

西洋キリスト教文明圏に生まれ育ったベネディクトの目には、息子から母への恩返しは、愛とはどこか別物であると映っているのです。

愛と義務的拘束

940 社会規範は恩返しを命じている。息子がそれに従っているかぎり、母に向けられた息子の気遣いや孝行は、自由に行われているとはいいにくい。ベネディクトにとって、愛は、そんな拘束を離れて、自由かつ自発的に与えられるものでなければならなかった。先に述べた(917)アガペー的な人間関係の定式は、以下の通りです。

〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける〉

ベネディクトの念頭にある愛(love)の観念は、外部的な事情に拘束されず、自由に与えられるものであるという点で、アガペー(愛)の概念と通じています。

941 ベネディクトの違和感は、愛情が返済の義務とともに語られるところに発しています。愛は、それが愛であるかぎり、見返りを求めずに自発的に与えられる。少なくとも、そのようにして与えられる愛がもっとも価値がある。そうベネディクトは考えている。

「私たちにとって、愛は心の問題(a matter of the heart)であり、自由に与えられる愛が最上の愛である」(『菊と刀』p.134)

「愛(love)や親切(kindness)や気前良さ(generosity)は、紐付きでないほど私たち〔アメリカ人〕は高く評価する」(『菊と刀』p.132)

息子に対する母親の愛と献身は、見返りを求めず無条件に(〝紐付き〟でなく)与えられることに価値があり、母親に対する息子の気遣いや孝行も、義務としての返済ではなく、自発的なものであることに価値がある。そう理解されるわけです。

942 これに対し、恩と恩返しからなる日本人の道徳体系においては、母と息子のお互いの愛は、相互の自発的なはたらきかけとしてではなく、あたかも経済取引であるかのように捉えられている。ベネディクトは英語圏の読者に繰り返しこう注意を促します。アメリカとは違って、愛や親切や気前良さは「日本では必ず紐付きでなければならない」(『菊と刀』p.132)のです。規範に紐付けられた義務的履行であるかぎりにおいて、愛や親切や気前良さに価値が生まれる。それゆえ、

「徳は、感謝の意を表す仕事に積極的に取り組むときに始まる。」(『菊と刀』p.133)

943 道徳的に価値のある行為(徳)は、恩と恩返しの定型に沿って、規範に紐づけられて実行される行為である。言いかえれば、偶発的に、つまり規範に紐付けられずに行われた孤立した善なる行為は、道徳的に価値の有るものとみなされない。ベネディクトは書いていませんが、日本社会では、たとえ善意の行動であっても、規範に紐付けられていない場合、意味不明で奇矯かつ不適切と見なされる可能性があるでしょう。

944 では、ベネディクトの生きた20世紀前半のアメリカでは、家族の相互の間には義務的な拘束はなかったのだろうか。そんなはずはありません。ベネディクトはアメリカの家族関係にも義務があることをはっきり述べています。

「私たちも、人は困窮した両親を可哀想に思って支援すべきであると考えるし、妻を殴ってはならないし、子供たちを扶養すべきであると考える」(『菊と刀』p.134)

「○○すべし」という義務の拘束は、家族間に厳然とあるわけです。

945 ベネディクトは、家族間の義務について、アメリカでは金銭貸借のように計量されるものではない、と言っています。ベネディクトの違和感は、家族間の思いやりと愛が、社会規範に沿って、自発性と無関係に、いわば自動的にやり取りされることに向かっています。親に育ててもらった恩に子が報いることが、日本ではまるで借金の返済のように決まっており、それが愛という名で呼ばれ得るということに違和感を覚えている。愛はそういうものではない。では、どういうものなのか。

拒絶する権限としての意志

946 すでに述べた通り、ベネディクトは、愛とは「義務の拘束を離れて自由に与えられるもの」(『菊と刀』p.116)であると考えています。しかしまた、家族間にはお互いを愛をもって遇する義務はある。では、義務と自由の関係はどうなるのか。

947 愛は借金の返済義務のようなものではないという言葉から推量すれば、愛とは自分の判断で与えるのを拒絶することもあるし、承認することもあるような、その意味で自由な決定にもとづくものなのだ、となるはずです。つまり、家族間の相互扶助を愛として捉えるとは、扶助の義務そのものが自由な決定の下に置かれるということです。

948 具体的に考えてみます。仮に、ある人の母親が、過干渉で子供をことこまかに支配したがるうえに、しばしば棘のある言葉を発して子供のやる気を挫くような、俗に言う〝毒親〟だったとします。長じてのち、その人は子供時代を振り返って、母親はよい親ではなかったと感じる。だが、そんな母親ではあるが、老いて困窮した母親を世話するとみずから決める。こういう例はあるでしょう。しかしまた、同様の状況で、母親とあえて縁を切る、ということもあり得る。

949 世話すると決めた人の決定過程を想像してみると、次のようなものだったかもしれない。「親を世話すべしという社会規範がある。自分の母はよい親ではなかったから、世話したいとは感じない。だが、自分は困窮した人を見捨てたりしない人間でありたいから、世話をする。」

950 他方、縁を切ると決めた人の決定過程を想像していみると、次のようなものだったかもしれない。「親を世話すべしという社会規範がある。それはたしかに社会的に望まれていることではある。だが、自分はあの親とこれ以上かかわると心の健康を大きくそこねる恐れがある。自分は己れの人生を大切にする人間でありたいから、縁を切る。」

951 どちらの決定過程も私が勝手に想像したことで、思考の中身には特に意味はありません。意味があるのは思考の形式の方です。どちらの決定過程も、

①社会規範の存在を認め、
②自分自身の心的状態の認識を経て、
③自分の理想とする生き方を実現するために、
④規範的な命令を承認するか拒絶するか決定する、

という形式をとっています。外的条件(規範)と内的条件(心理)と理想状態を思いめぐらして、みずから決定する。規範を承認する決定も、拒絶する決定も同じ形式で成り立っています。

952 カナメになっているのは、規範によって直ちに拘束されるのではなく、規範を対象化して、つまり状況を突き放して考えて、それを最終的に受け入れるか拒否するかは、外的、内的、理想的な諸条件を勘案して自分が決めるということ。こうして自分が決めることが自由と自発性の実質であり、この最終決定を行なう働きが意志と呼ばれます*。人は、みずからの自由な意志において、相手を愛する、または縁を切るのです

注*: 2の10で「意志W」として説明した概念です。「意志Wは、自分の信ずる善へ向かって行為する最終的な決定を下す機能である」(2の10:389)。

953 この最終的な決定を下す権限が、人に固有の内面性を構成します。最終的にどう決めるかは、その人以外の誰にも事前にはわからない。まわりが脅したりすかしたりしても、結局どう決めるのかは当人にゆだねられている。外的な事情だけでなく、自分自身の感情さえも対象化してとらえて、それらをすべて考慮に入れて自分が決定する。この最終的な決定を下すはたらきが個人に根源的な内面性を与えます。

954 ひるがえって、恩と恩返しの道徳体系の下で同様の過程を想像すると、ベネディクトの描いている限りでは、このように最終決定権が個人にあるとされる状況は想定できません。まさに、借金を返すか返さないか借り手側に決定権があるという状態が「借金」という概念そのものの否定であるように、恩返しをするかしないか恩を受けた側に決定権があるという状態は、「恩」という概念そのものの否定になります。恩と恩返しの体制の下では、恩を返さないという決定は予定されていない。人には、社会規範の命令を拒絶する自由が認められていないのです。恩知らずは、最終的には、社会制度の外に追放されるでしょう。

955 社会規範の命令を承認し、命令に沿って行動することは、どんな社会でも当然みとめられています。したがって、社会規範の命令を拒絶する自由が、西洋キリスト教文明圏における意志という心的機構のもっとも重要な働きであり、この働きこそが個人の本体であるといえます。ベネディクトの想定する愛(love)は、この意味での意志の自由に立脚しています。

アガペー的な人間関係は可能である

956 先に、アガペー的な人間関係は可能か、という節を立てました(925-299)。そこでは、過去のいきさつを帳消しにした上で、どんな相手にも先入観を捨ててまっさらな気持ちではたらきかける、というのは無理ではないか、という疑問を提出しました。特に、過去を帳消しにすれば相手との人間関係は変化してしまうし、あらゆる先入観を捨てることは不可能だろう、という二つの困難を指摘しました。

957 この二つの困難は、最終決定を下す仕組みとして、意志を導入することによって、解決されます。過去のいきさつを帳消しにすることと、あらゆる先入観を捨てることは、両方とも、最終決定を下すまでにすべての条件を対象化して考える操作に置き換えられます。

958 たとえば、母親に世話になったとか、ある人と長年敵対してきたとか、この人は初対面で人柄がつかめないとか、対人関係においてはいろいろな経緯や思惑がある。こういった過去の事情や今の思惑をすべて自分の目の前にくりひろげて検討する。また、自分がどう思っているのか、また、どのようにしたいと願っているのかということも、はっきりさせる。外的な事実と内的な心情と自分の理想を思いめぐらして、最終的に決断する。

959 決断の結果、人間関係が変化する場合もあるし、変化しない場合もあると思われます。上の〝毒親〟の例でいえば、親子関係を維持することも絶縁することもあり得る。どちらも、自分が最も善いと信ずる方向で相手に働きかけていくことの帰結であって、たとえ絶縁する場合であっても、それは相手にとっても自分にとっても最も善い結果をもたらすと信じるからそうするわけです。このようにして、アガペー的な人間関係は現実世界で成り立つと主張できます。

960 アガペー的な人間関係の定式は、以下の通りでした。

〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける。〉

すると、〝毒親〟と絶縁する決定は、親にとってはうれしくないはずだから、「相手にとっての善を願って」という条件から外れている。したがって、規範を拒絶する意志は、アガペー的な人間関係に反している。こういう批判があるかもしれません。

961 この批判に対しては、(1)相手にとっての善と自分にとっての善は、究極のところでは背反しない、という考え方と、(2)人は自分が善と信ずることを追求することによってしか善には到達できない、という二つの考え方を導入すれば回答できます。

962 この二つの考え方は、根底では、(1′)神(真善美)は一つであり、(2′)人は自分の信念を通じてのみ一なる神(真善美)に到達できる、という考え方と同じものです。これはこれで吟味が必要なのですが、今はこれらを前提すれば、表面的には絶縁するような場合でも、それはアガペー的な人間関係に反するものではない、と言い得ることを指摘するにとどめます。自分が最善と信ずる決定は、究極的には相手にとっても最善となるはずであり、仮に、特定の場合そうならないように見えるとしても、自分は自分が最善と信ずるところを追求することによってしか、相手にとっての最善を願うことはできないのだから、自分が最善と信ずることを追求するしかないわけです。

アガペーと近代社会

963 最後に、アガペー的な人間関係が近代社会の原理であることと、日本語人はアガペー的な人間関係と縁が薄いということを確認しておきます。上の分析によって、アガペー的な人間関係の前提になっているのは、現行の社会秩序を拒絶する自由が個人に大きく認められる、という条件であることがわかります。この自由によって、過去のいきさつを不問にし、先入観を去って、新たな対人関係を結ぶことが可能になるからです。

964 ベネディクトの記述を見れば、この自由が日本語社会ではあまり認められていないことはわかります。付け加えると、先に番外編2の10で日本語における意志の概念を「意志W」と対比して「意志 J 」と名づけて検討しました。そのとき、「意志 J は、行為を決定する要因のうちの一つであって、最終的な決定要因ではない」(2の10:392.5, 401, 402)という所見を示しました。行為を最終的に決定する権限が個人に認められないのにもかかわらず、現行の社会規範を拒絶する自由が個人に認められる、ということはありません。

965 なぜなら、行為を最終的に決定する権限が個人に認められないということは、人々の行為はすべて、行為者と社会秩序との談合と調整の帰結として出力される、ということを意味します。この場合、社会秩序の認める範囲に人々の行為が収まることはあらかじめ決まっています。直感的には、反逆さえも社会秩序が認める範囲に収まる、ということです。現行の社会秩序をとことん拒絶する自由が個人に認められることはありません。したがって、アガペー的な人間関係は成立しがたいことになります。日常の水準でいうと、日本社会では、既存の人間関係を個人の決定だけで断ち切ることが難しい。それゆえ、ベネディクトが観察したように、愛もお互いの拘束のなかに現れざるを得ないのです。

966 アガペー的な人間関係は、過去の経緯も自分の感情も対象化して検討し最終決定を下す主体という概念に立脚しています。この概念は、デカルトやロック以来の近代的な主体の概念そのものです。これについて詳しく論ずるのは一大事業になるので、ここでは、チャールズ・テイラーの言葉を引用することで論証に替えたいと思います。

「距離を置いて理性的制御を行う主体は、近代的な人間像として私たちになじみのあるものとなっている。…(中略)…この人間像にとって鍵となるのは〈距離を置くこと〉を通じて制御を達成するということである。…(中略)…〈距離を置くこと〉は「対象化(objectification)」と常に結びついている。」*

注*: チャールズ・テイラー『自我の源泉 近代的アイデンティティの形成』下川潔、桜井徹、田中智彦訳、名古屋大学出版会 2009、p.186。

967 すべてを対象化して理性的に意思決定する主体が、既存の人間関係に拘束されることなく、それぞれが善を意図して自由かつ自発的にはたらきかけ合うことによって、社会を作り上げる。近代社会がこのようなものであると想定されているとしたら、その原理となっているのは、アガペー的な人間関係の理念であるといってよいと思います。

968 隣人愛については、以上で言いたいことは言ったので、次回は、アガペーとしての神への愛について、私の気づいたことを述べようと思います。

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