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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の26]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3. アガペー(愛)について

個人と愛、近代と脱近代

1036.  夏目漱石や本居宣長を取り上げて、近代日本における個人と愛の問題を考えているうちに(番外編2の8~16)、西洋の代表的な愛の思想の検討をすることになり(番外編2の17~24)、そこから思いがけず近代(モダン)と脱近代(ポストモダン)のせめぎ合いという大がかりな思想史の主題に行き着いてしまいました(番外編2の25:1029 & 1030)。個人と愛の問題を考えることは、個体の内なる欲求が外へと表出され、そこからさまざまな関係性が生まれてくる過程の全体を見なおすことを意味しています。この見なおし作業が、思想史の包括的な捉えなおしを招き寄せるのは、それはそれで当たり前だったのかもしれない。そう気づきました。

1037.  アガペーとしての愛を考えるなかで、問題になる「さまざまな関係性」を二つに大別し、一つは神と人の関係として、もう一つは人と人の関係として扱ってきました(番外編2の23~25)。神と人の関係は、理想と人間の関係に置き換えて考えてもよいでしょう。人と人の関係は、現実の社会的諸関係そのものです。

1038.  人と人との関係の方は、アガペー的な人間関係と名づけて整理しました。それは次のように一般的に記述できます。

〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける。〉(番外編2の23:917)

「過去のいきさつから自由に」ということは、「現行の社会秩序を拒絶する自由が個人に大きく認められる」ことに等しい(同963)。言いかえれば、アガペー的な人間関係は、個人がしがらみにとらわれず、自分の周りのすべてを対象として突き放して検討し、何をどうするか自分で決める、という生き方を含意します。

1039.  こういう生き方は、近代社会の形成原理になっていると考えられます。すなわち、「すべてを対象化して理性的に意思決定する主体が、既存の人間関係に拘束されることなく、それぞれが善を意図して自由かつ自発的にはたらきかけ合うことによって、社会を作り上げる」(番外編2の23:967)という仕方で人と人との関係ができあがる。ここから生まれるのは、人々が相互に対等で自由な近代市民社会であり、その根底に、人と人との関係はアガペー的な愛に――即ち、相手を差別しない自発的な善意に――もとづくべきだ、という直観がある。

1040. 神と人間の関係の方は、神から人への愛(アガペー)と、人から神への愛、という二つ方向にわけて考えてきました。二つのうち、神から人への愛は、無差別の善意としてすべての人に降り注いでいます。パウロその他の初期キリスト教布教者の教えによれば、この愛のはたらきによって、人は罪に囚われた状態から解放され、正しい道(即ち、義)を自分で選びとることができるようになった。ユダヤ教からキリスト教が生れるのは、この無差別の善意としての神のアガペー(愛)のはたらきを強調することによってだった。

1041.  この罪からの解放と義への復帰の過程は、自分の正しさを信じることができない状態から自由意志によって正しさに再び向かう状態への移行、とも表現できます。これはさらに、懐疑に陥った状態から懐疑を脱け出して真理を目指すことができる状態への移行、ということもできる。こう言い換えてみると、罪から解放されて義を見出す、というキリスト教の根本の教えは、懐疑を克服して近代科学を生み出す、という初期近代の思想的な革命(科学革命)の祖型になっていることが分かります。だから、近代の幕開けにおいて、哲学者たちは、誤りと疑いを乗り越えて正しい道を見つけ出すために、神の存在証明を新たに試みることが必要になった。これは、人から神へ到る愛の道行きに相当します。

1042.  というわけで、人から神への愛が問題になる。前回も少し述べたように、デカルト(1596~1650)は『省察』のなかで人間の知識一般を基礎づけるために神の存在証明を行なった。だが、ヒューム(1711~1776)の『人間本性論』は、神なしで成り立つ認識と道徳と統治の理論を提示した。今後、この二人の対比を通じて、神を必要とする近代から神が立ち去るのを受け入れる脱近代へ、という思想的な変化を見て行きます。が、それに取りかかる前に、人から神への愛が簡単には成立しないのはなぜか、どうして人が神を求めるのが困難になるのか、この点を概括的に述べておきます。

「人から神への愛」の困難

1043.  最初に、私の考えで議論の骨組みだけ示します。そのあとで、ニーグレンの『アガペーとエロース』の議論に沿って説明を加えます。
 さて、とにかく神は万物に差別のない愛(アガペー)を与える存在です。人もまた、神にならって、差別のない愛をまわりに与えることを生き方の原則としなければならない。隣人愛が敵を愛することにまで拡張されるのは、この原則の適用の典型です。

1044.  神は「ある」ということそのもの(真の実在)であり、善であり、美である。人が神を愛することは、真実在と善と美を愛することであり、裏を返せば、偽と悪と醜を愛さないことです。このとき、人から神への愛は、差別する愛とならざるを得ない。偽ではなく真を、悪ではなく善を、醜ではなく美を選ぶという仕方で、対象を選り好みしているからです。

1045.  すると、人は、差別のない愛を生き方の原則としなければならないのに、神に対しては、差別のある愛しか抱くことができないことになる。神に対して、対象を差別しないアガペー的な愛を向けることはできない。こういう次第で、人から神への愛は、それは本当に愛(アガペー)なのか、という疑いをまぬがれない。人が神をアガペーにおいて愛することは極めて困難になる。

1046.  上の議論は、アガペーの概念規定にもとづく単純で無内容な論法に見えると思います。だが、けっしてそうではない。復習しておくと、新約聖書の説く愛(アガペー)とは、ニーグレン『アガペーとエロース』の整理によれば、第一に、外からの動機づけによらない自発的な愛であり、第二に、愛する対象の価値に拘泥しない愛であり、第三に、対象の価値を創造する働きを備えた愛であり、第四に、人が神の許に行くのではなく神が人の許へ来るという仕方で神と人の交わりを開始する、そういう愛のことでした。(番外編2の21:870-875)

1047.  すると、人が神を愛するというときに、例えば、神は全宇宙の創造者であり、我らの主であるがゆえに愛するというのなら、外からの動機づけによって愛することなので、これはアガペーとしての愛ではない。また、神は真善美であるがゆえに愛するというのは、対象の価値にこだわっているので、アガペーではない。もとより、人が愛するがゆえに神に価値が生まれるわけではないので、人から神への愛は創造的な働きをもつわけではない。そして、人が神に近づきたいと思って神を愛することは、神と人の結びつきをもたらすものではない。こういうことにならざるを得ない。ニーグレンの整理によるかぎり、人は神をアガペーにおいて愛するということは、論理的に不可能なのです。

1048.  この点は、ニーグレンも強調するところです。まず、

「ここ〔新約〕において要請されているアガペーは、神によって明らかに示されたアガペーを元型としている。それゆえ、自発的で、外から動機づけられておらず、打算的でなく、無制限で、無条件でなくてはならない。」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.60)

人への愛(隣人愛)の水準では、自発的に、相手方の価値を動機とせず、打算を捨てて、無制限かつ無条件に、善意をもって振る舞うこと、すなわち、「あなた方はただで受けたのだ。ただで与えよ(マタイ10:8)」というイエスの教えを実践することは、原理的には可能です(現実的には不可能に近い!)。だが、人から神への愛においては、これが原理的に不可能になる。

1049.  この点を、ニーグレンは以下のように述べています。

「神の愛は自発的で〝外から動機づけられていない(unmotivated)〟。したがって、人から神への愛も、それが真にアガペーの名に値するのならば、同じく自発的で〝外から動機づけられていない〟のでなければならない。しかし、いったいこれはどういうことを意味するのか。神へ向かう私たちの愛は、はたして自発的でありうるのか。また、神へ向かう私たちの愛が〝外から動機づけられていない〟というのは、いったいどういう意味においてなのか。神へ向かう私たちの愛は、非常に高度な水準で〝動機づけられている(motivated)〟のではないか。それは神が私たちに示したアガペーによって動機づけられているのではないか。私たちは、明らかに、逃れようのないジレンマに追い込まれる。」(『アガペーとエロース Ⅰ』p.62)

1050.  神のアガペーが人の愛の元型であるというのなら、人の愛は神から動機を得ていることになる。ニーグレンは「非常に高度な水準で」と言っていますが、「非常に高度」なんてことは多分なくて、キリスト教においても、ごく普通に神の慈愛に感動して人は神に帰依するのでしょう。たしかに隣人愛はアガペー(愛)として成り立つことが論理的にあり得る。というのも、敵を愛するところまで拡張されれば、仇敵である隣人それ自体が愛の動機となっていないことは明らかだからです。だが、神に対する人の愛は、神の無差別の愛に対する人からの感謝を込めた応答とならざるを得ない。つまり、神によって外から動機づけられている。だから、人から神への愛は、どうしたってアガペーとしては成り立たないのです。

1051.  では、いったい現実のクリスチャンたちは、このジレンマをどうやって解消してきたのか。『アガペーとエロース』という大著の三分の二を占める愛の概念の変遷の歴史的な叙述は、その過半がキリスト教において人から神への愛がどのように解釈されてきたのかという検討に当てられています。ニーグレンは、ルター派の聖職者らしく、ルターこそがアガペー的な愛の理念をほんとうに把握することに成功したと説いています。

1052.  ニーグレンの考えを単純化して示すと、こうなります。使徒たちの時代には、人から神への愛の困難はあらわになっていなかった。この時代には、人が神を愛し、神の意志に沿って生きることは、パウロの回心譚に見られるように(使徒行伝:9.1~9.19)、神に自己を支配され、所有される(possessed 憑依する)ことを意味していた。この場合、人間の通常の愛の関係とは違って、自己と愛の対象を分離し、その間に成り立つ関係性を問うといった姿勢は生じない。したがって、使徒たちの時代には、愛の解釈と実践の困難は顕在化しなかった。

1053.  だが、古代末期から中世にかけて、ギリシア思想の影響の下で、人と神の関係性が問われるようになる。このとき、人から神への愛は、アガペーとしてではなく、主にエロースの一種として理解されるようになった。アウグスティヌスのカリタス(cāritās)論*がその典型である。カリタスは最高善(神)を求める浄化された欲求だが、欲求であるという一点においてエロースの一種である。エロースとは、自分に欠けているものへの欲求であって、自分のために善いものを獲得しようとする愛にほかならない。

注*: 「カリタス」はラテン語における「アガペー」の訳語。アウグスティヌスはアガペーをエロースに引きつけて理解した、というのがニーグレンの解釈です。

1054.  ルターは、このアウグスティヌス的な愛の理解を、新約本来のアガペーとしての理解に引き戻し、「「自分のためになるものを求める愛」の正反対である愛の、まったく具体的な像を与えること(『アガペーとエロース Ⅲ』p.320)」ができた。ところが、

「このアガペーの愛は、神の愛から導き出された理想的な像にすぎず、実際にあるがままの人間の生活にまったく関係を持っていないのではないか。そんな愛ははたして可能なのか。この問いに対するルターの回答は、主として否定的であるように見える。(同上pp.320-321)」

 結局、ルターはアガペーとしての愛を再興したが、その愛は人にはほとんど不可能なものであることが判明してしまった。これが、ニーグレンの提示するキリスト教における愛の概念の到達点です。

1055.  所々で確認したように、アガペーとしての隣人愛も、現実にはなかなかむずかしい。敵を愛するなんてできないのが普通です。まして、アガペーというやり方で神を愛することは、すでに見た通り、どうやら論理的に成り立たない。外からの動機づけによらずに、まったく自発的に神へと向かって生きるのは人には不可能であることが、近代初頭のルターに至って分かってしまったのです。

1056.  この、愛は再興されたが愛は人には不可能なものであることが判明する、というルターの陥った困難は、私には、真理に到る道を再興したが真理に到るのは人には不可能であることが判明する、という西洋近代哲学の困難と同じもののように見えます。その点をこれから少し考えてみようというわけです。

5. 近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.1 デカルト(1596-1650)

1057.  これまでにも、デカルトについては本ブログの随所で触れてきました*。デカルトは、感覚への懐疑から考察を開始し、算術の確実性を悪霊の欺きのせいにする極端な懐疑を経て、まさにその懐疑のさなかに〝考える私〟が出現していることに気づく。そして、〝考える私〟の中に見出される神の観念を出発点として、神の存在を証明します。次いで、下に述べますが(1059 & 1060)、神の善意の下における数学的命題の確実性が論証され、数学的自然学(理論物理学)が真理をもたらすことが確立される。感覚的な事物の実在性は、一連の哲学的考察の最終段階(『省察』第六)で、日常生活での利用に限定して、つまり、学問には持ち込まない限りで、認められます。

注*: 第1期その1:2.3~2.17、その6:3.91 & 3.92、その14:4.86 & 4.87。第2期番外編2の2:45, 50~53、2の8:289, 310, 313~316、2の9:361、2の10:369, 371, 375、2の20:817注、2の23:966、2の24:993~996, 1001, 1010 & 1011、2の25:1020, 1025~1035。

1058.  デカルトは、すべてを疑うと言っていますが、言語と論理を疑ってはいません。彼はロゴス(logos、理性、言語)を疑わなかった。そして、自分がそれを疑っていないことに気づいてもいなかった。デカルトは、意気揚々と、スコラ哲学のさまざまな論法を使って神の存在を〝証明〟しています。その証明それ自体には歴史的価値以上のものはありません。数学の定理の証明などとは違って、証明の結論を私たち自身も受け入れねばならないという性質のものではない。だが、神は存在するというその結論は、近代を生み出す強力な支えとなりました。

1059.  神とは「すべての完全性をもっており、いかなる欠陥からもまったく免れている」*存在です。このような存在は、欺瞞者ではありえない。というのも、欺瞞はなんらかの欠陥にもとづくことが明白だから、とデカルトは言います**。かくして全知全能にして善なる神が存在するゆえに、〝考える私〟は、ある命題を明晰判明に真であると考えるとき、自分が欺かれている可能性を考慮しなくてよいことになる。

注*: デカルト『省察』「省察三」末尾(野田又夫編『世界の名著 デカルト』中央公論社1967、p.272)
注**: 同上

1060.  明晰判明な真理の認識は、典型的には、数学の命題の認識のなかで体験されます。デカルトは、数学的認識を手がかりとして底なしの懐疑を脱け出すことができた。そして、デカルト以降の近代人は、数学を疑い得ない真理の典型として受け入れるようになった。こうして数学にもとづく自然探究、つまり物理学が、真なる認識のもっとも有力な源泉であると見なされるようになったのです。

1061.  デカルトの場合、キリスト教神学の権威と、数学そのものの自明性が、懐疑の解消の根拠になっています。懐疑を脱け出すには、自分以外のだれかに「あなたは間違っていない」と言ってもらうしかない(2の25:1018)。デカルトの場合、キリスト教神学と数学そのものがそう言ってくれたわけです。ただし、神の存在証明以前の段階では、数学の自明性は、「2+5=7」のような算術命題でさえ、悪霊に欺かれてそう思い込んでいるだけかもしれない、という意図的で極端な懐疑によって無効にされています。だから、決定的なのは神の存在証明だった。

1062.  デカルトの証明は、〝考える私〟の中に見出される神の観念にもとづいています。すべてを疑っても、自分が考えていることだけは疑い得ない。だから「私は考える、ゆえに私はある」ことは確実です。でも、逆から言えば、考えている自分が存在するだけで、宇宙も神も存在するかどうか分からない、というかむしろ、この段階では宇宙も神も存在するとはいえない。しかしこのとき、考えている自分自身のなかに神の観念が在るのをデカルトは見出します。なんでそんなもんがあるんだ?という疑問はさておいて、とにかく観念があったわけです。で、その観念のみにもとづいて神の存在が証明できるなら、〝考える私〟しか存在しない段階から、〝考える私〟のなかにある観念を手がかりとして、神もまた存在する段階に進むことができる。神は全宇宙の創造主だから、神の存在が証明できれば、全宇宙が存在するといえることになる……。デカルトの形而上学的なもくろみは、およそこういうものだった。

1063.  カナメに来るのは、「神の観念」です。いったいこれは何なのか。「神」をどんな存在としてデカルトがとらえているのかは叙述から分かります。それは伝統的な神と大きくは違わない。全知全能の創造主であり、全宇宙を存在せしめる一個の根源的意志です。むしろ問題は「観念」の方にある。私の印象では、西洋哲学由来の考え方として、「神」よりも「観念」の方が、今どきの日本語人のものの考え方に重大な影響を及ぼしている。デカルトの哲学体系を紹介する前に、「観念」とは何かという問題について考えます。

5.2 観念説

はじめに

1064.  「観念」は、現代の西洋諸語の「idea〔英〕」「idée〔仏〕」「Idee〔独〕」といった単語の訳語として定着しています。初期近代の哲学者のうち、「観念」という語を大々的に使ったのはデカルトです。デカルトの影響が広まって行くにつれて、「観念」は哲学の専門用語として定着しました。「idea」等々は、一般には、「思いつき、考え、理想」といった訳語を当てられることも多い。しかし、哲学文献では、「観念」が当てられることが多い。「観念」は、元は「仏陀の姿や真理などに心を集中してよく考えること」(広辞苑)という仏教用語だった。明治以降に哲学分野の「idea」の訳語として定着したようです。

1065.  哲学文献で「観念」というとき、およその意味は、「各人の意識の内容」といったことです。たとえば、ある人が持っている「神の観念」とは、「その人が神という言葉で考えている内容」のことです。あるいは、ある人が持っている「リンゴの観念」は、同じく「その人がリンゴという言葉で考えている内容」である場合もあるし、その人の目の前にリンゴがあるとすれば、「その人の持つそのリンゴの知覚内容」となる場合もある。どちらになるのかは、「観念」という語が使用される文脈によります。いずれにせよ、その人が抱いている意識の内容(思考の内容、あるいは、知覚の内容)であることに変わりはありません。

1066.  Aさんの持っている神の観念と、Bさんの持っている神の観念は、共通の要素もあるはずですが(でないと、話が通じない)、互いに違っている要素もある。そして、Aさんが持つ観念とBさんが持つ観念は、二人の心の中にそれぞれ別個に抱かれている。AさんはXについて自分の観念を持ち、BさんもXについて自分の観念を持つ。したがって、内容に共通の要素があるとしても、AさんとBさんは、それぞれXについて自分固有の観念を別々に持っていると考えられます。AさんのもつXの観念とBさんのもつXの観念は、Xについての観念であるという意味では同じ一つの観念ですが、それぞれの人が抱いているという意味では別の二つの観念です。

1067.  「idea」等々の語形からもわかるとおり、現代西洋語のこれらの単語は、古代ギリシア語の「イデア、ἰδέα」に由来します。だから、プラトンの「イデア」の意味を引き継いで、「idea」が「理想、理念」と訳される用例も出てくるわけです。古代ギリシア語の「イデア」の日常的な意味は「形、姿」という意味だった。西洋諸語の「idea」等々は、古代ギリシア語の形や姿という意味から始まって、プラトンのイデア(理想的な形)の意味を受け継ぎつつ、「思いつき、考え、理想」また哲学文献における「意識内容」といった意味に分化していったわけです。そこにはややこしい歴史があるにちがいない。だが、立ち入りません。ジョン・コティンガムの編集した『デカルト辞典』(John Cottingham, A Descartes Dictionary, Blackwell, 1993)という便利な本の「idea」の項の冒頭には

「‘idea’という語は、あらゆる哲学的概念のうちで最もとらえそこないやすく(slippery)多義的な語である」

とあります。意味の分化をとらえそこなって滑って転ぶのは止めておきたい。

1068.  先に、「観念」という言葉は、「今どきの日本語人のものの考え方に重大な影響を及ぼしている」と記しました。それはなぜなのか一言のべておきます。私の見るところ、「それってあなたの感想ですよね」という今どきの小理屈の遠い祖先は、デカルトに始まる近代哲学の「観念」という術語にある。

1069.  前々段落で、あるものXについてのAさんの観念とBさんの観念は二つの別の観念と見なされる、と指摘しました。すると、任意のAさんは、任意のBさんに対し、任意の問題XについてのBさんの見解を、「それってあなたの〝観念〟ですよね」と言うことができて、これはつねに正しい。あなたにはその問題がそう見えている、つまりそれはあなたの観念なんですよ。こう決めつけて、他人の主張をその人の心理状態に矮小化してしまうことがいつでもできる。「神は死んだ」と叫ぶ人に向って、「それってあなたの観念ですよね」というのは常に正しい。だが空疎です。

1070. 「観念」という哲学的装置は、個人の意識内容を重視し、そこから知識や道徳の基礎づけを与える、という重要な手続きを近代哲学にもたらしました。しかし、それはまた、すべての知的主張や道徳的関心が、個人の意識内容に還元され、相対化されてしまう可能性ももたらした。その意味で、現代の日本語人が陥っている自己中心的な相対主義、あるいは、自文化中心主義的な相対主義の遠い祖先となっている。そう私には思われます。だから、「観念」をめぐる西洋近代の思想史は、日本語人が立ち止まって考えるべき内容を大いに含んでいるはずです。

1071. というわけで、次回も、「観念」という哲学的装置に着目しながら、デカルトからヒュームにいたる西洋近代の思想史の話を続けます。

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