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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の39]


5.近代(modern)と脱近代(postmodern)

5.2 観念説(続き)

はじめに

1587. デカルトの話は前回で終えて、今回からイングランドの哲学者や自然学者の話をします。この話題はやや長く論ずることになりそうです。立ち入った議論を始める前に、登場人物の紹介と大体の話の流れを予告しておきます。なお、7月第4週から9月第2週まで、夏休みということでブログの更新はせず、9月28日土曜日から再開する予定です。本ブログの第3期となりますが、仕切り直して何を考えるのか、長期的な計画を予告する意味もあります。

1588. このブログも思いのほか長く続けてきました。これまでは、実のところ、あまりよく知らない分野を勉強しながら議論を進めてきた。ときどき一回休んで考えなおしたりしたのはそのせいです。そうやって直前にあれこれ勉強する自転車操業を楽しんできたのです。しかし、これからはすこし違って、1980年頃から2000年あたりまで、およそ20年くらい私が携わっていた分野について、記憶を呼び起こしながら話していくことになります。できれば新しく勉強しなおしたい。最新の研究書も買い込みました。哲学は科学と違って日進月歩ではありませんが、それでも、現在の研究動向に追いつくのはなかなか大変なようです。

登場人物の紹介

1589. まず登場人物の紹介から。今後の話の中心は、ロバート・ボイル(Robert Boyle, 1627-1691)とジョン・ロック(John Locke, 1632-1704)になる予定です。ロバート・ボイルは、最初期の実験的自然学者であり、気体の体積と圧力に関するボイル=シャルルの法則で科学史に名を残しています。ジョン・ロックは知識と政治と宗教を論じた哲学者です。ボイルとロックは手紙のやり取りが残っており、ボイルの依頼でロックが気象観測を代行したりするような間柄でした。二人のうちでは、ロックを取り上げる割合が多くなると思います。

1590. ロックについて哲学史の教科書では、デカルトが知識は生得観念にもとづくと考えて理性主義(rationalism 合理論)の立場を取ったのに対し、ロックは知識は感覚経験にもとづくと考え、経験主義(empiricism 経験論)の立場を取った、というように対比されるのが普通です。こういう教科書的なくくり方は、両者の言葉に典拠があるという意味で、まちがいとまでは言えません。しかし、17世紀の学問の状況を視野に入れると、いささか見当はずれではあるのです。デカルトとロックはともにアリストテレス主義を排斥して新しい自然学を強く提唱しました。同時代人にとって二人は同じ陣営に属していたのです。デカルトの理性主義は実験を重視するものでした。また、ロックの経験主義は理性の重要性をよくわきまえたものでした。

1591. ジョン・ロックは知識や宗教について論じた哲学者というだけでなく、当時の新しい医学を修めた医者でもありました。実験と観察にもとづく新しい自然学に実際に携わった人々の一人だった。なお、政界の大立者、初代シャフツベリ伯爵(アントニー・アシュリー・クーパー Anthony Ashley Cooper, 1621-1683)のお抱え医師となり、そのせいで名誉革命前のややこしい政争に巻き込まれ、そのあおりでオランダに避難したりしています。医者であったことはロックの生涯にいろいろと影響を与えています。

1592. 他方、ロバート・ボイルは、初代コーク伯爵、リチャード・ボイルの多数の息子の一人で、とても富裕だったので、既存の学者の世界に属さずに独立の学者として多くの実験を組織し、実行しました。それだけでなく、さらに神学、自然哲学、科学方法論などで多数の著作を残した哲学者でもあったのです。彼の遺言によって、神学と新しい自然学を論ずる連続講演、ボイル・レクチャーズ(the Boyle Lectures)が設立されたりしています。

1593. 西欧の17世紀は、経済、政治、外交から宗教や学問にいたる人間活動の全領域が根本から変化する大変動の時代だった。その中に生きる個人は、一人で多くの領域を横断して判断し、行動することを求められた。だから、ロックやボイルは現在の哲学者や科学者の通念からはみ出る部分を多分にもっています。この時代には、書斎の哲学者と実験室の科学者の両方の特徴を、おのずと兼ねそなえてしまうような生き方をする人々が現れた。そんな人たちがどのような人間観、知識観、自然観をもち、それがどのように受け継がれて近代科学と近代社会が形成されたのか。このあたりを見ていきたいと思います。

1594. ロックとボイルのほかに、トーマス・スプラット(Thomas Sprat, 1635-1713)、トーマス・シドナム(Thomas Sydenham, 1624-1689)、エドワード・スティリングフリート(Edwart Stillingfleet, 1635-1699)といった人たちにも言及する予定です。これらの人々は、当時は有名でしたが、今ではその名を知る人はすくないでしょう。

1595. スプラットは、イングランド国教会の聖職者で、文才のある人物として知られたようです。ボイルが中心になって設立したロンドン王立協会(The Royal Society of London)という実験的自然学者の学会について、協会から依頼を受けて、設立の趣旨や初期の活動状況などを記した『ロンドン王立協会の歴史(The History of the Royal Society of London)』(1667年刊)という書物を書きました。この本は、17世紀後半のイングランドの知的風土を伝える重要な記録です。

1596. シドナムは、ロックに臨床医学を教えた医師です。イングランドで初めて近代的な臨床医学を実践したことで知られている。厳格なピューリタンの家庭に育った人だったため、王政復古後(1660年以降)のイングランドは必ずしも居心地がよくなかったようです。上記のロンドン王立協会にも参加していません。

1597. スティリングフリートは、ロックの知識論を批判する著作を刊行し、ロックと論争した人物です。イングランド国教会の高位の聖職者で、ウスターの主教(bishop)を務めました。ロックをデカルトと重ね合わせて解釈し、この種の新しい哲学は結局は懐疑論に陥ると厳しく批判しています。ロックは、批判されてもいちいち応答しないことが多かったのですが、スティリングフリートの批判には丁寧に応答しました。両者の批判と応答は3往復に及ぶ長大なやり取りとして残されており、ロックやボイルなどロンドン王立協会に集まった人々の新しい学問観が、同時代の知識人にどのように受け取られたのかを知らせる得がたい記録となっています。

1598. ニュートン(Isaac Newton, 1642-1727)は扱わないのか、という疑問を持つ方もいるでしょう。ニュートンは、ロックやボイルよりやや年少ですが、科学史上、この時代のイングランドの抜きんでた存在です。でも、扱う予定はありません。ニュートンはロンドン王立協会の会員であり、ロックもボイルもニュートンを知っていました。ロンドン王立協会は、ベーコンの自然史(natural history)の計画を引き継いで実験と観察を推進しようとする人々の集まりだった。ニュートンもその方針に賛同していたわけです。しかし、ニュートンの多くの仕事のうち、まず目を引くのは、物体の運動の数学的な定式化でしょう。この仕事は断片的な事実を集積する自然史的な探究の対極にある。私の関心は、以下に述べるように(1605ff.)、主として自然史的な事実の収集がどのようにして近代の学問的正統の一つとして認められるにいたったかという点にあります。近代科学へのニュートンの主要な貢献は、この関心と直接には結びつかない。だからニュートンには触れないことにします。

考察の課題

1599. 人間は経験を通じて世界についての知識を獲得して行きます。それはどんなふうに成り立つのか。私としては、ロックやボイルの考え方を検討することによって、この問題を考えたい。端的にいえば、〝経験を通じて世界を知るとはどういうことか〟です。

1600. 私が哲学の勉強に着手した当初の関心として、前回、「個体が環境の知覚的認知から始めて共同性へといたる道筋を示すことができたら面白かろう」という気持ちがあった、と記しました(番外編3の38:1582)。この当初の関心をそのまま引き継ぐ問題といえます。

1601. この問題は、二つに分かれます。ひとつは、〝経験を通じて世界を知るとはどういうことか〟という問いかけに、17世紀から現在までのいろいろな議論の結果、どんな回答が与えられるにいたったかという問題。これは、問題の歴史的な展開を吟味する方向です。問題の哲学史的な取り扱いといってもよい。ただし、こういう考察が行なわれてきましたという哲学史的な報告にとどまらず、私が自分としてはどういう考え方をとっているのかということを、はっきりさせたいと思っています。

1602. 経験を通じてヒトが世界を知る過程は、現代の発達心理学の知見にもとづいて大ざっぱに述べるなら、こんな風になります。それは誕生前に母親の心音や母語の響きを聴くことから始まります。生まれ落ちると、新生児は見たり聞いたり触ったり味わったり嗅いだりして環境の探索を開始します。五感を通じて事物を知っていくなかで、半年から一年くらい経つと、幼児は他人が注目しているものに自分の注意を向けることができるようになる。すると、他人がその対象をどう思っているかがわかってくる。こうして幼児は他人の心を知るようになり、物だけでなく心が存在する世界に生きて、その世界を知るようになります。言葉を使う基本的な条件が整ったわけです。

1603. 言葉をやり取りするうちに、3歳半から5歳くらいにかけて、幼児は、他人が自分と違う世界のとらえ方をする場合がしばしばあることに気づくようになります。自分の見ている世界と他人の見ている世界は違うらしい。ということは、世界そのものは、自分が見ている世界とも、他人が見ている世界とも違う水準に位置するはずで、それ自体で成り立っていることになる……。幼児は5歳くらいで、認識が各自のパースペクティヴに依存し、各自の心が私秘的な領域をなすことが理解できるようになる。それと同時に、心の私秘性と対比して、世界の客観的実在性を取り扱うことができるようになる。こうして5歳以降、幼児は言語能力を爆発的に発達させ、経験を通じて世界を知る活動を、社会生活を通じて多様な仕方で続けることになります。

1604. 以上述べた事柄のなかには、感覚経験、他人との共同注意、自分の心と他人の心の別個な対象化、言語による世界の共有(コミュニケーション)、認識のパースペクティヴ依存性の理解、心の私秘性の理解、世界の客観的実在性の把握など、ヒトの認知を分析する際の指標になる重要な項目が並んでいます。こういった現代の関心を念頭に置きながら、17世紀以来の西洋哲学史の中の認識の理論を見なおして行くつもりです。

1605. 経験を通じて世界を知ることにかかわるもうひとつの問題は、実験や観察を通じて知識を得るという新しい試みが、17世紀のイングランドで、どのようにして学問的活動として認められ、知的活動の正統の一つとして認められるようになったのか、という問題です。これは、経験を通じて世界を知ることの社会的な受容を吟味する方向です。問題の科学社会学的な取り扱いといってもよい。この方向については、既存の研究を紹介しながら検討を進める予定です。

1606. 古代や中世には、たんなる個別の経験知は知識の名に値しないと見なされていました。普遍的な理論知だけがほんとうの意味での知識だった。これに対し、近代以降、実験や観察が知識を得る正統的な活動として広く認められるようになる。このような知識観の変化は、何によってもたらされたのか。当然数多くの歴史的・社会的要因がかかわるはずですが、その複合的な要因の一端を紹介したいと思っています。

1607. 実験や観察を通じてひとつひとつ集められた断片的な事実情報は、それ自体としては知識の名に値しない。知識は、理論にもとづく体系を構成し、普遍性を備えていなければならない。こんな考え方は、現代でも世の中にかなり広く認められるように感じます。17世紀には、アリストテレスの学問体系の権威を背景にして、今よりずっと強力にこう信じられていました。この考え方を打ち破るのは案外難しい。

1608. 17世紀は、流布している古い理論体系はもはや役に立たず、しかし、新しい理論はまだ役に立たない、という状況にありました。そんな状況で、実験的自然学者たちは、ひとつひとつの断片的な事実情報について、これらには理論的な裏づけはないけれど、原理的には信頼できるものなのだ、ということを人々に納得させなければならなかった。

1609. こうしてボイルやロックをはじめとする実験的自然学者たちは、経験を通じて世界を知るとはどういうことなのか、という根本のところから説き起こす必要に迫られた。哲学的な考察に向かわなければ、自分たちの活動を、正当な学問的活動として認めさせることができなかったのです。ロックの『人間知性論』の知覚論、言語論、知識論は、このような状況で生み出されました。ロックの哲学を、たんなる哲学史上の一学説としてではなく、同時代の自然科学が置かれた困難な状況における学問的知識の正当化のこころみと見て検討していきます。

1610. 17世紀後半のイングランドの哲学者、自然学者たちの議論を、これからしばらく、上で紹介した人々と上に述べた問題関心に沿って考えていきます。冒頭に述べたとおり、夏休みを取ります。次回は9月28日土曜日に公開する予定。では、猛暑の折から、皆さま御自愛ください。

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