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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の24]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4.4.3.3 アガペー(愛)について

愛と自由について

969 前回は、大略、以下のような話をしました。隣人愛は、人から人への善意のはたらきかけであり、愛(アガペー)は社会を形成する原理として機能する。しかし、そのアガペーとしての愛は、「現行の社会秩序を拒絶する自由が個人に大きく認められる」(番外編2の23:963)ことを必須の前提とする。アガペー的な人間関係は、個人がそれまでの社会的な関係性を拒絶する自由を含んで成立する。この自由が近代社会を形成する原理となっている。

970 「アガペー的な人間関係」とは、〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける〉ということでした(番外編2の23:917)。だから、前回語った内容は、つまるところ、近代を作ったのは個人の愛と自由だ、ということだと言ってもいい。これは、〝どこかで聞いたことのあるありふれた話〟にすぎないとも言えます。あるいは、ただの〝きれいごと〟と取る人もいるかもしれません。

971 とはいえ〝ありふれた話〟が、わかりやすく、受け入れやすい話であるわけではない。まして、人間性の肯定的な側面だけを大写しにした〝きれいごと〟というわけでもない。アガペー(愛)が社会を形成するとは、なるほど個人の愛と自由が社会を作るという話ではあるけれど、別の角度から見ると、これは、〈社会を拒絶する自由によって社会を作る〉ということです。こう言いかえると、アガペー(愛)には一種の矛盾が潜んでいることがわかります。

972 社会を拒絶することと社会を作ることは、正反対のはたらきです。この二つが、「によって」で繋いである。「Aを拒絶することによってAを作る」というのは、普通はあからさまな矛盾です。「健康を拒絶することによって健康を作る」とか、「富を拒絶することによって富を作る」とか、例文を作ってみればわかります。意味ありげに聞こえますが、通常、そういうことは成り立たない。

973 では、〈社会を拒絶する自由によって社会を作る〉というアガペー的な人間関係の原理は、なぜ成り立つのか。その理由は案外簡単で、この原理は、〈〝現実の〟社会を拒絶する自由によって、〝理想の〟社会を作る〉という意味であるからです。隣人愛の教えはユダヤ教の伝統的な律法だった。愛の対象となる隣人はユダヤの同胞に限られていた。イエスはそれを根本から改めて、同胞を愛するだけでなく、汝の敵を愛せと説いた(マタイ5:44)。現行の規範を拒絶して理想を目指すことは、イエスの愛の教えの不可欠の前提だったわけです。

974 個人の愛と自由が近代社会を作ったという話は、現行の規範を拒絶して理想を目指すはたらきが近代を作ったということです。これは、革命が近代を作ったと言うに等しい。そしてたしかに、近代は、宗教と科学と政治の革命のなかから姿を現した。どの革命も血塗れの物語に満ちている。まったく〝きれいごと〟どころではありません。アガペーとしての愛には、現状を否定し理想を目指す促しが組み込まれています。その帰結として、アガペー的な人間関係は、本質的に、峻厳で非情な側面を備えることになる。前回は、いわゆる〝毒親〟との関係をどうするかという卑近な例を使って、その点に少し触れました。

975 ある人が自分の親は〝毒親〟だったと思っている。その親も今は年老いた。社会規範は、老いて困窮した親を支援せねばならないと告げている。しかし、自分は親と接すると心身の健康が大きく損なわれてしまう。いったい自分は、困窮した親を見捨てない人間でありたいのか、あるいは自分を大切にする人間でありたいのか。自分の理想とするところを思いめぐらして、決断を下す。規範を受容して関係を継続することも可能であり、規範を拒絶して関係を断つことも可能である。どちらにするかはもっぱら本人の自由意志が決める。(番外編2の23:948-953)

976 一見すると、峻厳で非情なのは、親との人間関係を断つ決断のように思われるかもしれません。しかし、本質的には、峻厳で非情なのは、決断と責任の構造それ自体です。自分の理想に向けた自分の決断がすべてを決める。それゆえ、自分の理想に対する自分の応答の責任を、すべて自分が引き受けなければならない。この理想と決断と責任の三者のつながりが峻厳かつ非情なのです。

977 思いつきをひとつ記しておくと、自分の理想に対する自分の応答(response)の帰結を引き受けることが、“responsibility”(「応答能力、責任」)なんじゃないか。だから、「自由には責任が伴う」という決まり文句は、西洋思想の文脈で言うと、第一義的には、自分の理想に対する自分の応答の帰結を自分がすべて引き受けることを意味するはずです。けっして、自分の自由な振る舞いが他の人々に及ぼす影響を引き受ける(つまり、他人の迷惑を考慮して自制する)という意味ではないだろう。というのも、この文脈では、個人は他の人々に対して応答(response)しているわけではないからです。したがって、他の人々との関係において応答能力(responsibility 責任)を問われる筋合いはない。近代的個人は、まずもって、自分と理想との関係において応答能力を問われるのです。

978 理想と自分が一対一で向き合っていて、理想に向けた自分の投企が、その後の一切を決めてゆく。〝その後の一切〟には、理想と自分との関係と、自分と周囲の人間との関係のすべてが含まれます。自分は理想を保ち続けてそこに近づいているか、それとも理想を裏切ってそこから遠ざかっているか。また、自分は、愛と自由によって人間社会を作ることに貢献しているか、それに貢献していないか。理想との関係が、愛と自由による周囲へのはたらきかけの方向を決めます。ですから、アガペー的な人間関係における理想と個人の関係を分析する必要がある。これはアガペー的な愛における神と人との関係を検討することを意味します。

アガペーについて私の言いたいこと ―― 神と人の関係について

979 神と人のあいだには、神は人を愛し、人は神を愛する、という見たところ相互的な関係があります。ただし、この相互性は容易に成り立たない。むしろ、神が人を愛することと、人が神を愛することは、それぞれ独立の事象になって行く。だから、アガペーとしての愛は、その本質において相互的(reciprocal 互酬的)な関係性ではない、といった方がいいと思います。

980 というのも、神と人の関係は、けっして、神が人を慈しみ愛する〝がゆえに〟人が神を敬愛するのではないし、また、人が神を敬愛する〝がゆえに〟神が人を慈しみ愛するのでもないからです。神から人への愛と、人から神への愛は、独立に成り立つ。なぜなら、愛がアガペーとして理解される限り、愛することは、純粋に自発的で、相手の行動や性質に影響されない働きでなければならないからです(番外編2の22:882)。イエスは弟子たちに「父はその太陽を悪しき者にも善き者にも昇らせ、義人にも不義なる者にも雨を降らせ給う」(マタイ5:45)と語りました。アガペーとしての愛は、相手のあり方に影響されません。愛は純粋に自発的な働きかけであって、相手との取り引きではないのです。

981 前回と同じく、論証は少々割愛して言いたいことを言う、という方針を取ることにします(番外編2の23:910)。愛(アガペー)は取り引きではなく、相手への愛は相互に独立の事象にならざるを得ない。この二つのことから導きだされる一連の帰結として、神と人の関係について私が言いたいことを、以下に列挙します。

982 (1) イエスの語る神は、ヒトの向社会性(prosociality)の実体化である。
(2) 底なしの懐疑としての原罪は、他者からの向社会的な働きかけによって解消される。パウロは、神の子イエスの十字架上の死によって、人間は罪の手から解放されたと教えた(番外編2の20:829以下)。この教えは、他者からの向社会的な働きかけによって人は懐疑を脱することができる、というヒトの社会心理学的な特性を宗教的に語ったものである。
(3) アガペーとしての愛は取り引きではなく、またエロースのように優れたものや善いものを愛することでもない。そのゆえに、人が神をアガペーとしての愛において愛することは困難になる。
 その結果、
(4) 人は、人から神に到る道が与えられていないことを受け入れて生きることを要請される。
(5) 近代人は、人から神に到る道が与えられていないことを受け入れながら、それでもなお、神を求めて生きる、という無理なゲームを続けざるを得ない。
 これからこの5項目を順に論じていきます。今回は、(1)と(2)を扱います。

神と向社会性

983 (1)は、突拍子もない主張かもしれません。神と向社会性は、通常、関連しない。誰かが神とは向社会性の実体化であると言うのを、聞いたり読んだりした記憶はありません(が、いないとはかぎりません)。田川建三訳註の新約聖書やニーグレン『アガペーとエロース』を読んでいるときに、突然浮かんできた連想です。イエスの語る神は、向社会性の権化です。

984 本ブログ記事で、向社会性について触れた箇所は、これまでにかなりあります。初出は、第1期その3の3.35です。そこでは、特定の条件下で向社会的行動が出現する頻度を、幼児とチンパンジーについて調べた心理学の研究を紹介しました。

985 そこで注に述べたことですが、「向社会的行動(prosocial action)」とは、他人や他のグループの利益になり、相手を助けることになるような行動を言います。行動に際して、行為者に外部から報酬が与えられないこと、行為者にある程度の損失があること、行為者が自発的であること、の三つが付随の条件とされることが多いようです(菊地章夫「向社会的行動の発達」『教育心理学年報』第23集、1983)。簡略にいえば、向社会的行動とは利他的行動のことであり、向社会性とは利他性のことです。

986 上に引用しましたが、イエスは「父はその太陽を悪しき者にも善き者にも昇らせ、義人にも不義なる者にも雨を降らせ給う」(マタイ5:45)と説きます。あるいは、「私は義人を招くためでなく、罪人を招くために来たのだ」(マルコ2:17;並行記事 マタイ9:9-13.、ルカ5:27-32)と説きます。新約の神は、相手かまわず(というと少し変ですが)、すべての被造物に善意で接する利他的な存在です。

987 またパウロは、イエスの死を解釈して、「神は我々に対するご自身の愛を確定して下さった。我々がまだ罪人であった時に、キリストが我々のために死んで下さったのである」(ローマ5:8)と述べています。罪に堕ちた人類を、罪の手から解放するために、神は我が子イエスの生命を身代金として差し出して、人類を救った。このとき神は、自発的に、報酬を求めず、損失を引き受けて行動している。つまり、付随の条件も含めて、向社会性を発揮しているわけです。

988 キリスト教の神は、無差別の利他性を特徴としています。神は利他性そのものなのです。アガペーとは、自発的で、外からの動機づけに拠らず、相手の価値にかかわりなく、むしろ相手の価値を創造する愛でした(番外編2の22:882)。それは、無差別に向社会性を発揮するという極限的な愛の表現であり、神はヒトの向社会性を理想化してうち固めたもの、つまり向社会性の実体化、あるいは利他性の人格化、と考えてよい(と私は思う)のです。

懐疑と向社会性

989 (2)は、人類の原罪がイエスの十字架上の死によって解消される、というキリスト教の教義を、底なしの懐疑と向社会性の関係として読み解く試みです。これも、私の固有の思い込み(idiosyncracy)かもしれない。一般的な見解ではないと思います。

990 原罪というユダヤ-キリスト教的概念は、ある種の底なしの懐疑であると解することができます。これについては、以前に帰納法に対する懐疑を例として説明しました(番外編2の19:803以下)。これを前提します。私の考えでは、底なしの懐疑からの脱出は、他者の向社会性に依存することによって可能になる。この点はまだ論じていないので、どういうことか以下で説明します。

991 なお、この点が明らかになると、人類の罪がイエスの十字架上の死によって贖われるという教義は、原罪からの解放は神の向社会性によって与えられる、という主張に等しいことが分かります。人間が自分の正しさについて底なしの不安に取り憑かれたとき、そこから救い出してくれるのは、常に、他者からの善意の働きかけ、とりわけ、あなたは間違っていないという他者からの承認なのだ、ということが浮かび上がるわけです。イエスの語った神は、私たちが人々からの承認を喪失したときにも、個人に承認を与えてくれる最後にして最強の拠りどころという意味を備えています。

992 底なしの懐疑と向社会性の関係を検討しましょう。まず、底なしの懐疑とは、次のようなものでした。人間は、これが正しいと思って、事実を認識し、行動を起こします。だが、その認識や行動が正しいことを示す根拠は、究極のところでは見出すことができない。だから、正しいと思うまさにそのとき、自分が間違いを犯しているかもしれない。この可能性は、決して除去できない(番外編2の19:812)。西洋の17世紀、近代の始まりの時点で、人々はこういう底なしの懐疑に陥りました(番外編2の2:49)。

993 この種の懐疑を脱出するやり方は、私の知るかぎり二つしかありません。ひとつは、神に訴えることです。デカルト(1596~1650)はこの道をとった。もうひとつは、人々との社会的な交わりの実践に入ることです。デイヴィド・ヒューム(1711~1776)がこの道を切りひらいた。

994 デカルトは、次のように考えました。まず、感覚を通じて知られるすべては夢かもしれないと疑うことができる。そこで彼は、感覚的な情報の全体を、確実な知識の領域から追放する。他方、幾何学や算術の命題は、夢の中でも同じように成り立つので、デカルトもこれらは確実であると一度は考える。ところが、「2+5=7」が確実だと思うのは、なにか悪霊のようなものが自分にそう思わせているだけかもしれない、と考え得ることに気づく。こう考えれば算術さえも疑うことが可能である。というわけで、数学的知識さえ投げ捨ててしまう。確かな知識は何一つ残らない。ここまでが底なしの懐疑です。

995 しかし、そうやって疑っているあいだ、デカルトは、疑っている自分が存在していることに気づきます。こうして「私は考える、ゆえに私はある」に到達する。そして、この〝考える私〟の中に神の観念を見出して、それを手がかりにして神の存在証明を組み立てる。ここから、万物の造り主である善なる神が存在するゆえに、全宇宙および自由意志をもつ私が存在するという結論を導き出す。つづめていえば、考える私を手がかりにして、神の存在を見出し、懐疑から脱け出すわけです。(番外編2の8:313)

996 懐疑からの脱出は、以下のようにして果たされました。神は存在する。神は善なる存在であって、人を欺いたりしない。だったら、私が明晰判明に「2+5=7」と思うとき、私は自分のこの思考を正しいと信じてよい。なぜなら、私が明晰判明にそう思うのに、真相はそうではなかった、というのなら、神が私を欺いていることになる。だが、これは神の善性に反する。したがって、私は自分の明晰判明な思考を信じてよい。つまり、人は自分の明晰判明な思考は真であると信じてよいのです。

997 以上のように、善なる神の意志にもとづいて底なしの懐疑から脱出するデカルトのやり方は、神が、人に善意で働きかける利他的な存在であることを支えにして懐疑を解消するものだといってよいでしょう。つまり、神の向社会性が人を懐疑から救い出すわけです。

998 では、ヒュームはどのように考えを進めたか。彼はこんなふうに議論しています。あなたが自分の部屋にいて、まわりを見わたすとする。椅子や机が一定の配置で見えている。次に、目を閉じ、また開く。すると、眼を閉じる前と非常に類似した椅子や机の知覚が再び得られる(当たり前です!)。眼を閉じる前の知覚と、眼を閉じて開けた後の知覚は、区別できる二つの別個の知覚である(確かにそうだ。でもやっぱり、当たり前だぁ!!)。区別できる二つの別個の知覚があるのにもかかわらず、私たち人間は、このとき、同一の椅子、同一の机を自分が見ていると思い込んでしまう。

999 自分が現実に経験している知覚は互いに異なる二つであるのにもかかわらず、自分の外の世界には、同じ一つの物体が時間を貫いて実在していると、私たちは考える。このとき、外的世界に実在する同一の物体とは、知覚を手がかりにして人間の想像力が作った虚構(a fiction)である。なぜなら、私たちは意識に与えられるさまざまな表象(感覚印象、情動体験、思考内容、等々)しか知覚できないのであり、外的世界に実在する物体を知覚から独立に捉えるというのは明らかに背理だからである。つまり、そういう物体は想像されているにすぎないのである。ところが人間は、ごく自然に、誰もが、〝知覚から独立に外的世界において連続して存在している物体〟という考え方をとるようになる。

1000 一方において、私たちには、バラバラな無数の知覚が与えられている。これは疑いえない意識の事実である。もう一方において、私たちは、知覚から独立し、連続して存在する一つの物体という考え方を持っている。だが、この物体という考え方には想像力以外の根拠はない。つまり、私たちの意識の外に、物体の世界が実在するかどうか疑い始めると、私たちがそう想像しているという以上に、懐疑を解消する理性的根拠が与えられてはいないことに気づかざるを得ない。ここまでが、ヒュームにおける底なしの懐疑の展開です。

1001 ヒュームは、用心して明言を避けていますが、神なしで哲学を組み立てようとしているので、デカルトが神を呼び出すところで打つ手が尽きてしまうのです。ヒュームは、神ではなく、何を呼び出したのか。

1002 事ここに至って、ヒュームは次のように述べます。

「非常に幸運なことに、理性がこれらの〔懐疑論の〕暗雲を追い払うことができないので、自然本性自体(nature herself)が…(中略)…この哲学的な憂鬱と譫妄から、私を癒してくれるのである。私は友人と食事をし、バックギャモンをして遊び、会話をして、愉快になる。そして、三時間か四時間楽しんだあと、これらの〔懐疑論の〕考察に戻ろうとすると、これらの考察が、冷たく無理のある滑稽なものに見えるので、これ以上それらの考察を行なう気になれない。」(ヒューム『人間本性論 第1巻』木曾好能訳、法政大学出版局 1995、pp.304-305)

1003 ここでヒュームは、哲学者として、ずいぶん思い切ったことを言っています。友人と会話し、楽しく過ごすと、哲学の懐疑的な議論は無理のある滑稽なものに見えてきて、真面目にとりあう気になれなくなる。というのも、哲学者といえども、「他の人々と同様に、生き、話し、行為するように、絶対的かつ必然的に決定されている」(ヒューム上掲書、p.305)ので、人々と社会を形成して共同で行為するかぎりにおいて、物的世界は存在しないのではないかとか、人格の同一性は成り立たない(人は瞬間ごとに違う存在である)のではないか、といったことを常に本気で考え続けることはできない。こうして、社会性の動物としての人間の自然本性が「私を癒してくれる」のだ。

1004 同じことを、別の場所では次のように言っています。こちらでは、人間が懐疑を払いのけることはできないことが強調されます。しかし、そのように言いつつ、懐疑論に注意を払わず、そんなことは気にしないことによって、人は懐疑から脱け出すことができる、と言っています。

「懐疑は、けっして根本的に癒されることのあり得ない病であり、我々がそれをどれほど追い払おうとも、またときには我々がそれから完全に免れているように見えようとも、どの瞬間にも我々に戻ってこざるを得ない病である。…(中略)…懐疑は、これらの〔感覚能力と理性に関する〕問題についての深くて集中的な反省から自然に生じるので、懐疑に反対してであれ一致してであれ、我々が反省を進めれば進めるほど、常に増大する。我々を少しでも癒すことができるのは、捉われず気にしないこと(carelessness and in-attention)だけである。」(ヒューム上掲書、p.251)

ここには、食事をしたり、バックギャモンをしたり、会話したり、といった具体的な活動は述べられていません。ですが、「捉われず気にしないこと」が、日常の社交的な交わりによって自分の注意を懐疑から逸らすことで実現されるのは、容易に想像できます。

1005 「目の前のこのコップは存在するか」という問いを、懐疑論の戯画として取り上げましょう。ヒュームが認めるように、コップが、外的世界に、知覚から独立し、連続して存在しているかどうか、疑い得るとしよう。ここから脱け出すにはどうしたらよいのか。

1006 ヒュームの回答は、友人と食事でもしなさい、ということなのです。友人と食事をするとき、コップがあったら、紅茶でもコーヒーでも注いで、持ち上げて飲む。それだけです。私たちが人々とともに日常生活を生きているとき、世界は間違いなく存在している。「目の前のこのコップは存在するか」なんて、全然問題にならない。

1007 日常を生きているとき、私たちは、「ちょっとそのコップとって」「あ、どれ、んと、これ?」「ありがと」というようなやり取りをする中で、お互いにコップの存在を認識し、それぞれの認識をお互いに承認し合っています。もちろん、発話のやり取りのなかで、頼んだり、確かめたり、感謝したりする気持ち(意図、意味)をお互いに認識し、承認し合っている。どこかに齟齬が生じたら、立ち止まり、やり取りをさかのぼって点検し、認識とその承認の受け渡しをやり直すでしょう。

1008 社会的な交わりのなかで、人は、周囲の人々から、コップがそこに在るというあなたの認識は間違いではない、という承認を受け取ります。この、あなたは間違っていないという承認は、コミュニケーションが成り立っているあいだ、会話と行為の前提となっている無数の事物について、ずっと与えられ続けます。人は、他の人々との社会的な交わりの実践に入っているとき、世界が存在し、他人に心があり、物体は外界に独立して連続的に存在し、それぞれの人間は昨日と同じ人物であることを、疑いもしません。私たちは、周囲の人々から、行住坐臥、自分は間違っていないという承認を受け取っている。私たちは、社会生活を送ることによって、こうやって懐疑からあっさり脱け出しているわけです。

1009 ヒュームが気づいたのは、神に頼らなくても、協力して社会生活を営むとき、周囲の人々から「あなたは間違っていない」という承認を十分に与えられるなら、人はたやすく懐疑を脱け出すことができる、ということです。自分の考えを疑う必要がない、という確信に人が到達し得ることを、デカルトの場合は神の向社会性によって、ヒュームの場合は周囲の人々の向社会性によって、論証してみせた形になっています。

1010 おそらく、ヒュームの気づいたことが、人類の自然誌に属する事実なのでしょう。デカルトの論法は、キリスト教の文化的伝統の中でその事実が取り得るひとつの形を示していることになるわけです。

1011 デカルトの議論は、興味深いことを示唆しています。デカルト的個人は、神からの承認を獲得すれば、周囲の人々をすべて敵に回しても、自分を疑ったり信じられなくなったりすることはありません。人々が認めなくても、自分は間違っていないことを、神という最強の拠りどころによって確信しているからです。神の承認を得た個人は、現行の社会的合意を拒絶して、自分だけの理念を持ち続けることができる。してみると、愛と自由にもとづくアガペー的な人間関係と、近代における種々の革命と、デカルト的な人間観は、見かけは違っても、同じ一つの思考様式に根ざしていることが浮かび上がります。それは、神(真善美)を見た個人は、現実に働きかけ、現実をひっくりかえす拠点となる、という考えではないかと思います。

1012 次回は、982に挙げた残る(3)(4)(5)の論点を扱う予定です。

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