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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の18]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.3. エロース、ピリアー、アガペー

4,4.3.2. ピリアー(友愛)について

729. アリストテレス(前384~前322)は、『ニコマコス倫理学』の第8巻と第9巻をピリアー(philia, φιλία)を論ずることに当てています。「巻」といっても、長さは「章」ですが、とにかく全10巻の書物の2巻を割いている。ピリアー、すなわち友愛をかなり重視していたのだと思います。

730. 『ニコマコス倫理学』という著作は、西洋哲学史を勉強するとき、倫理学分野の必読書の第一位か、少なくとも二位には挙げられるような書物です。これと一位を争うのは、衆目の一致するところ、カントの『人倫の形而上学の基礎づけ』*(1785)でしょう(何かでそう言われているのを読んだのだけれど、出典が思い出せない)。

注*: 岩波文庫の篠田英雄訳(1960)では、『道徳形而上学原論』という書名になっています。『人倫の形而上学の基礎づけ』は『世界の名著 カント』(中央公論社 1972)所収の野田又男訳の書名です。原題は、Grundlegung zur Metaphysik der Sitten です。

731. 『ニコマコス倫理学』は、倫理学という学問のそもそもの始まりをなしていて、分野を定義する位置を占めている。他方、『人倫の形而上学の基礎づけ』は、西洋近代のキリスト教的個人主義の原理を、聖書やイエスに直接言及せずに定式化している。倫理学の始まりを重く見れば前者が、現代との繋がりを重く見れば後者が、それぞれ必読書の筆頭になるわけです。

732. 『ニコマコス倫理学』は、アリストテレスの他の著作と同じく、彼が晩年にアテナイに創設した学園、リュケイオンにおける彼の講義の記録を、死後250年ほどたってから公刊したものです。アリストテレスの師プラトンの場合は、みずから執筆した対話篇が残っている。読むと、文学作品としてもなかなか面白い。アリストテレスの方は、講義の草稿や筆記録を後世の人々が編纂した著作群が残るだけです。読んでただちに面白いというものではない。哲学の勉強のためにがまんして読む本です。

なぜピリアー(友愛)を論ずるか
733. アリストテレスは、第8巻冒頭で、友愛(ピリアー)を論ずる理由について、次のように語っています。

「なぜなら、友愛は…(中略)…われわれの人生に最も必要なものだからである。実際、愛する友なしには、たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、だれも生きてゆきたいとは思わないであろう」(1155a1)*

一読、同意しかねる、という気持ちになる。親友がいるのはよいことかもしれないが、だからといって、「愛する友なしには……だれも生きてゆきたいとは思わない」というのは言い過ぎではないか。たしかに、社会的孤立は自殺を招き寄せる要因ではあるけれど(番外編2の8:249)、アリストテレスのこの言い方は誇張に聞こえます。

注*: 「1155a1」は、アリストテレスの出典表記の慣例で、19世紀に刊行されたベッカー版アリストテレス全集の頁数、左右のコラム(aが左コラム、bが右コラム)、行数を示します。訳書等では欄外に記される。ただし、翻訳の場合、行数は大体の対応にとどまります。「1155a1」は、ベッカー版全集の1155頁の左コラムの1行目あたりに対応する、ということ。なお、訳文は、アリストテレス『ニコマコス倫理学』朴一功訳(京都大学学術出版会2002)のもの。必要に応じて、『アリストテレス全集 第15巻 ニコマコス倫理学』(岩波書店2014)の神崎繁訳で補足することがありますが、特に断りません。

734. 続く箇所にはどうあるか。富や地位や権力を持つ者同士のあいだでも、相手のために善を行なう機会がある方が意味のある人生を送ることができるし、友人がいなければ自分の富や権力を守ることも難しい、とある。貧困その他の逆境では、友人が唯一の避難所になる、などとも言っている。こうした例を読むと、「ピリアー」は、「友愛」という言葉から私たちが思い浮かべるよりも、ずいぶん実利的な関係まで含むらしいことが分かってきます。友だちに善を為すのが生きる意味になるというのはともかく、自分を守ってもらえるとか、逆境の支えになるというのは、実利的な効用です。

735. ピリアーは、どうやら、実利のやりとりを含む個人のあいだの良好な人間関係一般を言うらしい。第9巻第1章では、「社会ポリス的な友愛」というものを挙げていて、靴作りの職人は、自分の作った履物と引き換えに、その価値に応じた見返りを手に入れるとある(1163b30)。私たちは、代価を払って商品を手に入れる関係を、普通、友愛とは考えない。経済関係は友人関係とは別扱いと考えるはずです(とはいえ、なじみの店ができたりするから、現代でもまったく別扱いというわけでもない)。また、アリストテレスは、「恋愛における友愛」も考えている(1164a5)。というわけで、恋愛も商取引も含むような広い範囲の良好な人間関係総体について、「ピリアー」という言葉を使っていると思われます。

736. こうして、ピリアー(友愛)は人生に不可欠なものだ、という冒頭の言葉も、さほど誇張ではないことがわかります。親友と離反するのは辛いけれど、人生にはありがちです。それでも人は生きて行く。しかし、どこのお店にいっても一切商品を売ってもらえなくなったら、それでもなお生きて行くというのは、親友を失うより難しいかもしれない。村八分を考えたらわかります。ピリアー(友愛)が、恋愛から商取引まで、親友との交わりからご近所づきあいまで、個人間の良好な人間関係全体を覆う概念であるとしたら、そういう人間関係全体を喪失してしまえば、確かに「たとえ他の善きものをすべてもっていたとしても、だれも生きてゆきたいとは思わない」(前掲)ような苦境に陥ることが考えられます。

「愛されるもの」
737. アリストテレスは、ピリアー(友愛)の考察を、「愛されるもの」とは何であるかを明らかにすることから始めます(第8巻第2章)。

「すべのものが愛されるわけではなく、愛されうるものだけが愛されるのであって、愛されうるものとは、(1)善きものであるか、(2)快いものであるか、(3)有用なものであるかのいずれかだと考えられる」(115b15)

すなわち、愛の対象となるのは、善いもの、快いもの、有用なもの、の3種類であるとされます。

738. ここも、ちょっと待て、と言いたくなる。快いものは、快感を与えるという意味で、〝よいもの〟ではないのか。有用なものは、善や快を得る手段となるという意味で、〝よいもの〟ではないのか。つまり、三つに分ける意味はなくて、愛されるのは、何らかの意味で〝よいもの〟なのだと言っておけば十分ではなかろうか。なぜ三つに分けるのだろう。

739. まず、有用なものが、善や快を得る手段として愛されることは、アリストテレス自身が注記するところです。善と快は目的であり、有用なものはその手段となる(1155b20)。したがって、手段と目的を分けるという意味で、有用なものを、善きもの及び快いものと別に扱う理由はある。

740. では、善きものと快いものを分けるのはなぜか。私の考えをいうと、この場合、善きものとは、人間が自分の頭を使ってああしよう、こうしよう、と考えるときに目的になるようなもののことだろう。例えば、混み合った車内で、危なっかしく立っている御老体を見て、席を譲ろうか、どうしようかと考える。このとき、目的は〝困っている人を助けること〟であり、これが〝善きもの〟として目指されて(好まれて、愛されて)いる。また、快いものとは、人間が自分の食欲や性欲に動かされてああしたい、こうしたい、と思うときに目的になるようなもののことを言う。例は各自思い当たるでしょう。以上をアリストテレス風に言うなら、善きものとは、人間の理性的願望(ブーレーシス)の対象であり、快いものとは、人間の欲望(エピテューミア)の対象である。こういうことになると思います*。

注*: J・O・アームソン『アリストテレス倫理学入門』雨宮健訳(岩波同時代ライブラリー1998)pp.68-71 を参考にしています。

741. こうして、愛の対象となるのは、理性的願望の対象としての善きもの、欲望の対象としての快いもの、これら善きものや快いものを得る手段として有用なもの、という三種類になる。三つに分けるのは理に適っていたわけです。

742. 次に、善きものとは、真に善きもののことなのか、それともある人に善きものに見えるもののことなのか、という問題が取り上げられます。これに対する答えは、どちらでもよい、という簡単なものです。現実には、真に善きものでなく、その人にとって善きものに見えるものに過ぎなくても、愛は生じる。そういう現実的な水準の人間関係をアリストテレスは問題にする。

743. さらに、当時の言葉遣いの観察から、魂のない無生物を愛することについては、ピリアー(友愛)という言葉は用いられない、と言います(1155b25)。アリストテレスによる理由付けは、大事な示唆を含みます。

「無生物には愛し返すということがないからであり、またわれわれが、無生物の善を願うということもありえないからである。」(1155b30)

「愛し返すということがない」という言葉から、アリストテレスが、友愛を一方通行ではない相互的(応報的)な関係として考えていることがわかります。

744. AがBを愛するだけでは、AがBに「好意(エウノイア)」を抱いているに過ぎない。Aの愛に応えて、BもAを愛するのでなければ、AとBのあいだに「友愛(ピリアー)」があるとは言わない(1155b30)。双方が、お互いに相手がこちらを愛しているとわかっていて、こちらも相手を愛するような相互関係が友愛(ピリアー)なのです。無生物は、わかるはたらきを持たず、こちらを愛し返すことがありえないので、たとえ私たちが無生物を愛するとしても、そこにあるのは友愛(ピリアー)ではない、ということです。

745. 無生物への愛として、「酒を愛する」という例が挙げられる。自分が酒を好きだとしても、酒の方はこちらを好きになってくれはしない。当たり前です。さらに人間が、酒にとって善なることがあるようにと願う、というのはばかげた話だ指摘されます。例えば、酒が熟成して好い味になるといったことは、酒にとって善なのではなくて、酒を飲む自分にとって善なることにすぎない。「無生物の善を願う」(1155b30)のは、結局、自分のための善を願うことに帰着する。
 なお、「無生物の善を願う」といった用例では、「善」は、前記の理性的願望(ブーレーシス)の対象としての善(理性的行為の目指す善、道徳的な善)という意味には取れません。もっと広く、快楽も含むような「何らかの意味で望ましいこと」というほどの意味だと思います。「善」の指すものは、文脈に応じて広かったり狭かったりします。

746. さて、相互性が成り立たないことと、相手の善を願うことが意味をなさないこと、という二つの理由で、無生物との間には友愛(ピリアー)は成り立たない。なんだか当たり前のことをくどくど言っているだけに見えます。だが、的外れみたいなこんな分析が意外に重要なことに結びつく。一つは、この考え方によると、敵を愛するというのは意味をなさないということ。互いに善を願う双方的な関係として友愛(ピリアー)を考えているからです。敵とは互い善を願う関係にはありません。

747. もう一つは、友愛(ピリアー)は必ずある程度の利他性を含むということ。相手のために善を願う要素がまったくないとしたら、それは友愛(ピリアー)ではない。酒を愛する場合、相手のために善を願うのは、論理的に意味をなさない。だから、それは友愛(ピリアー)ではない。人間を対象としていても、自分にとっての快または有用性のために相手に好意を抱き、いつも傍にいて欲しいと思うけれど、相手のために何らの善も願うことがないならば、その関係は友愛(ピリアー)ではない。たんなる搾取です。

友愛の三種類
748. 以上から、第一に、一般に、愛されるものは、善きものか、快いものか、有用なものの三種類である。第二に、友愛は、二人の人間がお互いに愛し合う相互的な関係である。この二つのことが明瞭になりました。

749. 愛されるものが三種類あるので、友愛にも三種類あることになります。すなわち、有用性のゆえに愛し合う、快楽のゆえに愛し合う、善きものゆえに愛し合う、という三つ。善きものゆえに愛し合う人々が、有用性や快楽のゆえに愛し合う人々から、どのように区別されるのか。これが、アリストテレスのピリアー(友愛)論の最も興味深いところです。

750. まず、有用性あるいは快楽のゆえに愛し合う人々について、アリストテレスは次のように言っています。

「有用性のゆえに愛する人たちは自分にとっての善のゆえに相手に愛情をいだいており、また快楽のゆえに愛する人たちは、自分にとって快いがゆえに相手に愛情をいだいているのであって、そうした愛情というのは、愛される人が愛される人であるかぎりにおいてではなく、相手が有用であったり、快かったりするかぎりにおいて、抱かれているものなのである。」(1156a15)

一読、趣旨は明瞭と思われますが、ピリアー(友愛)が商取引まで含むような幅広い人間関係を言うものであることを思い起こすと、理解しやすいものとなります。

751. 有用性を理由とする友愛についていうと、靴を買う人は、靴職人が靴を作ってくれる有用な存在であるがゆえに好意を持つ。職人の方も、客がお金を払ってくれる有用な存在であるがゆえに好意を持つ。そして、職人は靴がお客にとって有用であることを願う。客の方も支払うお金が職人にとって有用であることを願う。こうして、互いに相手のための善を願いつつ、互いに好意を抱きあう関係が成立するので、この関係を友愛(ピリアー)と呼ぶことができるわけです。

752. 快楽を理由とする友愛についても、同じです。相手とともにいることが自分にとって快いがゆえに相手に好意を抱き、かつ自分とともにいることが相手にとって快いことを願う。このことが双方で成り立つと、そこに友愛が成立する。恋愛における友愛はこういうものです(1156b5)。

753. しかし、この種の友愛は、相手が有用でなくなったり、快さを与えてくれなくなったりすれば消滅します。有用性や快楽による友愛は、「相手を、相手の人そのものとして愛しているのではな〔い〕」(1156a10)からです。靴職人が履き心地の悪い靴しか作らなくなったら、もう買うのはやめるでしょう。アリストテレスは、有用性や快楽のゆえに成立している友愛は、「付帯的なものにすぎない」と言います(1156a15)。相手の人そのもの(その人の永続的な性格)ではなく、相手がある時点でたまたま備えている可変的な特性(その人に付帯する特性)に依存しているからです。

754. このような移ろいやすい友愛ではなくて、相手の人となりそのものに根差した永続的な友愛は、有用性や快楽ではなく、善きものゆえに愛し合う人々のあいだに成立する。アリストテレスは次のように言っています。ただし、かなりわかりにくい。

「完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人々どうしの友愛である。なぜなら、そのような人たちは、善き人々であるかぎり、善きものを互いに対して、同じように願望するからであり、また彼らは、ほかでもなく彼ら自身に基づいて善き人たちだからである。しかるに、友に対して善きものを、友のために願う人たちどうしは、真の意味で互いに友である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえにであり、付帯的な仕方によるものではないからである。こうして、善き人々の友愛は、彼らが善き人々であるかぎりずっと続くことになるが、徳とは、もちろん永続的なものである。」(1156b10)

うって変わって、格段にわかりにくい説明です。大ざっぱにいうと、徳ある善い人どうしの友愛は、お互いに、相手に備わった善きもの(徳)ゆえに相手を愛し、また、それぞれにとって善きもの(徳ある善い人が愛するもの)を相手のために願う、という仕方で成り立つ。これが永続する真の意味の友愛である。こう言っているようだ。言い方が回りくどくて、この友愛の関係において何が生じているのか、よくわからない。ということで、以下では、このアリストテレスの言葉を、納得の行くように説明することを試みます。

徳と友愛
755. まず、「徳」とは何か。「徳」は「アレテー(ἀρετή, aretē)」の訳語です。「卓越性」とか「優れた性格」などと訳出されることもある。希英辞典を見ると、「善いこと、卓越性、特に男らしい性質、勇気」といった説明があって、その少し後に「道徳的意味で、善いこと、徳(virtue)」などとあります*。

注*: 1. goodness, excellence, of any kind, esp. of manly qualities, manhood, valour, prowess, Hom., Hdt. (like Lat. vir-tus, from vir). . . . 4. in moral sense, goodness, virtue, Plat., etc.:-- also character for virtue, merit, Eur., etc. (Henry George Liddell, Robert Scott, An Intermediate Greek-English Lexicon, ἀρετή (tufts.edu)

756. では、アリストテレスは「徳」についてどう言っているか。かかわりのある箇所について、アームソンによるアリストテレスの原文の英語訳(の日本語訳)とそれへの説明を示します。まず、『ニコマコス倫理学』の1104b13-16に対するアームソンの訳から。

「優れた性格〔アレテー〕は人間の行動と情動に関係するものであり、すべての情動と行動には好き嫌いがともなう。ゆえに、優れた性格はその人が何を好み何を嫌うかということにかかわる。」(アームソン前掲書[740]pp.46-47)

ここでは、「アレテー(ἀρετή, aretē)」の訳語は「徳」ではなく、「優れた性格」になっています。これは日本語の事情です。英語では、「excellence」ないし「excellence of character」です。「卓越性」「性格の卓越性」などとも訳せる。なお、ギリシャ語原文でも英語訳でも主語は複数なので、詳しく言えば「さまざまな優れた性格」です。

757. アリストテレスは何を言っているのか。趣旨を補って説明すると、さまざまな優れた性格は、その人が何をするか(行動)、および、何に気持ちを動かされるか(情動)にかかわっていて、何かをするにせよ、気持ちを動かされるにせよ、そこには常に好き嫌いが関係する。人は、一般に、好きなことを行なうだろうし、嫌いなことは行わない。情動には、好ましい感じや嫌な感じがある。というわけで、さまざまな優れた性格は、その人が何を好み何を嫌うかにかかわっているのだ。こう言っている。

758. もっと雑に言えば、「徳(優れた性格)」とはある種の好き嫌いだと言っている。ちょっと驚くところです。美徳とか有徳というと、もっと立派なもののような気がする。だが、うち割って言えば、「徳高い」とか「倫理的に優れている」とは、何かを好きだったり嫌いだったりするはたらきに基づいている。アームソンは次のように説明しています。

「この箇所におけるアリストテレスの趣旨は、ある人が優れた性格を持っているかどうかは、たんにその人が何をするかによって決まるのではなく、その人が何を好んでするかによって決まる、ということである。」(アームソン前掲書、p.47 太字は追加)

759. 例えば、ある人が、過ちを犯した人を許す寛大な振る舞いをしたとしよう。そこにはいろいろな動機がありうる。寛大なところを人々に見せておけば、自分にとって有利になると計算したのかもしれない。あるいは、その振る舞いが過ちを許す結果になることに気付かなかった、つまり一種の愚かさのせいかもしれない。これらの場合、この人物は徳を持っているとはちょっと言いにくい。だが、その人が、寛大であることを好むのだとしたら、その人は寛大な気質を備えているのであって、その点で優れた性格(徳)を持っていると言ってよい。というわけで、「徳」とは「善いことを好んで行うような性格を持っていること」という意味になります。

760. 「善いこと」を好むのが「徳」であるのなら、その「善いこと」とは何か。アリストテレスは、善いこととは、基本的に、共同体の幸福を維持し、増進する行いだ、と考えています。「社会共同体にとっての幸福ないしは幸福の諸部分をつくり出したり、それらを保護したりする性質のものを「正しいこと」という」(1129b15)とある。

「法は、たとえば戦列を離れたり、逃げたり、武器を投げ捨てたりしないといった、勇気ある人の行為を命じ、また姦通をしたり、乱暴をはたらいたりしないような、節制ある人の行為を命じ、また殴ったり、暴言を吐いたりしないような、温厚な人の行為を命じ、同様にして他のさまざまな徳と邪悪に応じて、一方の行為を命令し、他方の行為を禁じる」(1129b20)

ここで例示されているように、善いことは、勇気、節制、温厚など社会的に認められた行為類型として定められている。正しいとされるこうした行為類型を好むような性格を持っていることが、「徳」であり、優れた性格である、ということになります。

761. アリストテレスによれば、善いこと、正しいことを好むようになるために必要なのは、習慣づけです。

「若いころからただちにどのように習慣づけられるかは、…(中略)…極めて大きな、いやむしろ全面的な違いを生む、と言ってよいであろう」(1103b25)

「それゆえプラトンが言っているように、よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむように、そのようにわれわれは若いころからただちに何らかの仕方で指導されなければならない。それこそが正しい教育なのである。」(1104b10)

この習慣づけは、理性的思考を介さない自動的な反応であってはならない。理性を十分に行使するような仕方で、思慮分別を用いて自分の行為を熟慮して決定していく過程がともなわないといけない。

762. 先に(740)善きものとは理性的願望(ブーレーシス)の対象である、と述べました。動物は欲望に従って行動するけれど、人間は理性があるので、欲望を抑えることができる。欲望を抑え、思慮分別を働かせて目指すもの、これが理性的願望の対象としての〝善いこと〟です。

763. 願望の対象としての善いことは、必ずしも社会的に正しいとされる行為類型と一致するとは限りません。理性的に熟慮した結果、例えば、危険な任務は引き受けない方が善いと思うかもしれない。引き受けない方が自分の利益になりそうだからです。しかし、その任務を引き受けることは、共同体の幸福を増進するという意味で善いことかもしれない。このとき、そういう任務を引き受けるのを好むように、つまり勇気という徳(優れた性格)を身につけるように、若者を育成することが必要になる。「よろこぶべきものをよろこび、苦しむべきものを苦しむ」(上掲)ように仕向ける教育は、個々人が理性的に願望する善いことを、社会的に定められた善い行為類型と一致させていく過程にかかわります。

764. こうして、人は一般に好きなことを行ない嫌いなことは行わない、という基本的な事実と、人は理性的願望を抱きうるという心理的構造と、社会的に望ましい方向に好き嫌いを導く教育の効果とが相まって、ある人のなかに優れた性格(ないし徳)が作り上げられる。それがその人の恒常的な人となりを作り上げるのです。

765. 話題が友愛からずいぶん逸脱してしまったように見えますが、そうではありません。752で引用したアリストテレスの文章を再掲します。上述のことによって、この文章はすこしは納得の行くものになっているはずです。説明の便のために、文章に符号をつけておきます。

「(ア)完全な友愛とは、徳に基づいて互いに似ている善き人々どうしの友愛である。なぜなら、(イ)そのような人たちは、善き人々であるかぎり、善きものを互いに対して、同じように願望するからであり、また彼らは、ほかでもなく彼ら自身に基づいて善き人たちだからである。しかるに、(ウ)友に対して善きものを、友のために願う人たちどうしは、真の意味で互いに友である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえにであり、付帯的な仕方によるものではないからである。こうして、(エ)善き人々の友愛は、彼らが善き人々であるかぎりずっと続くことになるが、徳とは、もちろん永続的なものである。」(1156b10)

766. (ア)の「徳に基づいて互いに似ている善き人々どうしの友愛」というのは、適切な教育によって好むべきものを好み、嫌うべきものを嫌うような優れた性格を備えるに至った同じタイプの人々どうしの友愛、ということ。これが完全な友愛であると言われている。

767. (イ)の前半の「そのような人たちは、善き人々であるかぎり、善きものを互いに対して、同じように願望する」というのは、優れた性格を備える人々は、社会の幸福を維持・増進するようなもの(つまり、善きもの)でありかつ相手が理性的に願望するようなもの(つまり、善きもの)を、相手のために願うということ。相手のために善を願うことは、友愛が成立する一つの条件でした(746)。善き人々が、何を、どうして、相手のために願うのかが分かるようになった。

768. (イ)の後半の「彼らは、ほかでもなく彼ら自身に基づいて善き人たち」というのは、優れた性格を備えた人々は、善いことを性格的に好むというあり方において善い人たちである、ということ。それぞれの人が善き存在である根拠が示されている。有用性や快楽のゆえにではなく、善きものゆえに愛し合う友愛のことを考えているのだから、愛し合う人々自体が善き存在であることが明示される必要があるわけです。

769. (ア)と(イ)を合体すると、優れた性格を備えた人々は、善いことを性格的に好むというあり方において善い人であるので、相手方が善き存在(善きものを好む善い人)であるがゆえに愛し、かつ諸々の善きもの(それぞれの人が理性的に願望し、かつ、共同体の幸福を維持・増進するもの)を相手のために願う。だからこれが完全な友愛なのだ、ということになります。

770. (ウ)の「友に対して善きものを、友のために願う人たちどうしは、真の意味で互いに友である。というのも、彼らがこのような態度をとるのは、彼ら自身のあり方のゆえにであり、付帯的な仕方によるものではないからである」というのは、優れた性格を備えた人々同士の場合、双方とも善きものを好むという性格を備えているので、その性格のゆえに相手方に対して善きものを望むことになる。その性格は、若年からの教育を通じて身についたものであって、たまたま備えている一時的な特性ではない。こうして、お互いを相手の恒常的なあり方そのもの(相手の人となりそのもの)に即して愛するのであるから、これが真の意味で互いに友であるということだ、ということ。

771. (エ)の「善き人々の友愛は、彼らが善き人々であるかぎりずっと続くことになるが、徳とは、もちろん永続的なものである」というのは、優れた性格を備えた人々の友愛は、その性格が変わらない限り、お互いが善きものであるゆえに相手を愛し、相手のために善きものを望むという状態が続く。そして、優れた性格であるとは、思慮分別をともなう習慣づけられた好き嫌いを備えているということであり、習慣は一時的なものではないので、優れた性格を持つ人どうしの友愛は長続きする、ということです。

772. (ア)(イ)(ウ)(エ)を合体すると、《優れた性格を備えた人々は、善いことを性格的に好むというあり方において善い人であるので、双方とも相手方が善き存在であるがゆえに愛し、かつ、それぞれが理性的に願望すると同時に共同体の幸福にも資するような諸々の善きものを、相手のために願う。だからこれが完全な友愛――望ましい要素をこれ以上付け加える必要がないような友愛――なのだ。また、優れた性格を備えた人々は、相手の人となりそのものを愛するのであるから、真の意味で友である。さらに、性格は一時的なものではないので、その友愛は長続きする。》

773. アリストテレスにとっては、主要な意味での友愛とは、上述のような完全かつ真の意味での永続的な友愛、すなわち「善き人々が善き人々であるかぎりにおいて、そのような人々の間に見られる友愛のこと」(1157b30)です。有用性や快楽による友愛は、善き人々の間の友愛に多少とも似たところがあるかぎりで友愛と呼ばれるにすぎません。

ピリアー(友愛)とはどういうものか
774. アリストテレスのピリアー(友愛)とは、どういうものなのか。これまでに見た愛の思想と対比して特徴づけておきます。

775. 第一に、完全かつ真の意味での友愛の関係が、現実の地上の出来事として想定できる、ということが一つの特徴になる。優れた性格を持つように若者を育てることはできるはずであり、したがって、優れた性格を持つ人々どうしの友愛も現実にありうると考えてよい。善い人々同士が善いことをお互い相手に望むような理想的な人間関係は、うまく行けば人間にとって到達可能なところにある。こうアリストテレスは主張しているわけです。

776. これは、プラトンのエロース論で、恋の道の最奥のところが美のイデアを観るという天上的で秘儀的な体験になっていたのと比べると、同じく「愛」と訳され得る心の作用を論じながら、ずいぶんと違う理想像が述べられている。アリストテレスの愛の理想は、プラトンとは違って、死すべき者たちの地上的な生から不死なる天上的な生へ垂直的に上昇する力(2の17:726)とは無縁です。

777. 第二に、友愛が個人間の良好な人間関係の総体を覆う概念であり、かつある程度の利他性がその必要条件となっているということから、アリストテレスがヒトの向社会性(prosociality)をピリアー(友愛)という言葉でとらえようとしていたことがわかります。向社会性とは、簡単に言えば、自分に直接の利益はないが相手のためにはなる行動(向社会的行動 prosocial action)をする性質です(第1期その4:3.43)。

778. 優れた性格を持つ人々どうしの完全な友愛は、向社会性の理想的で永続的な実現――相手が善き人であるがゆえに互いに好意を抱き、相手のために善いことを互いに願うという関係の持続的な実現――を描いている。このような愛は、善き人々が善き人々における善いことの実現に互いに好意をもって協力し合う理想的な社会を提示する。だが、〝敵をも愛する〟というはたらきは備えていない。この点で、アリストテレスのピリアー(友愛)の考え方は、キリスト教の考える愛とは根本的に違うところがあります。

779. 第三に、アリストテレスにおいては、個人の理性的願望が、社会的に推奨される行為類型を打破する可能性は顧慮されていません。若者の理性的願望は、優れた性格(徳)を身に付けるために、社会的に推奨される行為類型に一致するように教育され、習慣づけられる。このようにして馴致された理性的願望は、理想的な向社会的行動を生み、安定した双方向的な愛によって支えられた共同体をもたらします。

780. しかし、これを言いかえれば、アリストテレスのピリアー(友愛)は、個人における善への内発的な欲求が、社会的要請を越える可能性を視野に入れておらず、個人主義の要素を持っていないということです。この点で、ピリアー(友愛)は、西洋近代思想における愛の概念とは違うものです。

781. 私の考えですが、西洋近代思想においては、愛は意志の最初の発動であり(2の10:373)、意志は個人を定義する機能であり(同:382)、かつ意志は自分の信ずる善へ向かって行為する最終的な決定を下す機能である(同:389)とされます。社会的に推奨される行為類型は、神へ向かう魂の力としての愛(同:389)にとって、外的で偶然的な要素にすぎない。つまり、愛は馴致されないことを本質とする。近代人はこう考えるのだと思います。

782. アリストテレスのピリアー(友愛)については、一応これで議論したことにして、次回は、ニグレンの『アガペーとエロース』を取り上げて、キリスト教的な愛の概念を検討する予定です。

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