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聴衆という第四人称―小宮知久個展に接して―青柿 将大(作曲家)(小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」展覧会レビュー)

2024年3月15〜17日に開催された小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」(Retramp Gallery, ベルリン)の展覧会レビューを作曲家の青柿 将大さんに執筆していただきました。



聴衆という第四人称――小宮知久個展に接して――

青柿 将大(作曲家)


 英文学者・言語学者の外山滋比古が提示する「第四人称」という概念がある。これは第一人称(私)、第二人称(あなた)、第三人称(彼、彼女、それ)によって完結するコンテクストの外から内を「覗き見/立ち聞き」するいわばメタレベルの視点であり、外山は例として演劇の観客や裁判の傍聴者などを挙げている。
 近年活躍が目覚ましい作曲家・メディアアーティストである小宮知久の出世作と言える、声とライヴ・エレクトロニクスによる《VOX-AUTOPOIESIS》の実演に接するたびに、筆者は単なる一聴衆ではなく第四人称として「盗み見」している錯覚に陥る。音楽においては、例えば台本に沿って劇的なストーリーが展開するオペラの鑑賞も、一種の第四人称的体験と言えよう。しかし、小宮の当該作品はストーリー性を持っていないにもかかわらず、ともするとより甚だしくその体験を提供するように感じる。一体なぜだろうか。

 小宮による展示形式の個展「Let me sing a strange song / わたしに奇妙な歌を歌わせてください」が、2024年3月15~17日にベルリンのギャラリー・Retrampにて開催された。本個展では旧作として《VOX-AUTOPOIESIS III –Ghost–》(2016 / 2022)および《VOX-AUTOPOIESIS V –Mutual–》(2021, スコア版)、新作として《そして、O-renはそれが歌であることを知った》(2024)がそれぞれ発表され、つながった逆L字型ギャラリーの片方の部屋に旧作2つが、他方に新作が配置されていた。ギャラリーは常に開放されていたのだが、特徴的だったのは各日2回ずつ、決まった時間に展示の装置(システム)を伴うライヴ・パフォーマンスが溝淵加奈枝と永田風薫によって披露された点である。
 そもそも、《VOX-AUTOPOIESIS》とは一連のインタラクティブなプロジェクトで、嚆矢となった《VOX-AUTOPOIESIS I》(2015)ではまずステージに一人のパフォーマーと、スコアのプロジェクション用スクリーンが配置されている。スクリーン上のきわめてシンプルな開始音をパフォーマーが母音で歌うと、そこに含まれるわずかな誤差(ミス)をコンピューターが検知し、その変化量に応じて直ちにスコアの続きを自動生成する。それをパフォーマーが初見で歌うと、再びコンピューターがミスを拾い……堂々巡りのプロセスにより、演奏不可能性を含むスコアの生成が果てしなく繰り広げられていく。

 本個展で展示された《VOX-AUTOPOIESIS III –Ghost–》は《I》の「無人バージョン」で、あらかじめ録音された声に基づき、スクリーンの代わりに真っ白の壁に楽譜が投影、生成されていく。ライヴ・パフォーマンスの時間になるとそれは同様のシステムを用いた「有人バージョン」の《VOX-AUTOPOIESIS I》へと変質する。
 2015年に東京藝術大学奏楽堂において行われた《I》の初演にも筆者は立ち会っている。コンサートホールという場では演奏家が練習の成果を満を持して人前で披露するのが暗黙の前提である以上、「ミスばかりを幾度となく故意に聴衆に見せ/聴かせ続ける」のは非倫理的行為、ある種の禁忌と言えるだろう。冒頭で述べた、小宮作品に対峙した際の「見ては/聴いてはいけないものを盗み見/盗聴する感覚」は、紛れもなくこれに由来すると思う(筆者は音楽家の視点でこの禁忌を目撃せざるを得ないため、とりわけそう感じるのかもしれない)。禁忌が禁忌として成立するには、本番独特の張り詰めた空気と第四人称的人間(=聴衆)の存在が必須だ。ましてや最適解を求めて音響設計された、制度の権化たるコンサートホールに現れる場合、そのタブー度はよりいっそう強まる。つまり、制度や規範に対する批判であるならば、今作のパフォーマンスは本個展のように寛いだ雰囲気の開放されたギャラリーでではなく、制度化された聴取を強いるホールであえて行われる方が理に適っているのかもしれない。
 また、今作の独自性は演奏家のミスを誘発するアイデアに加えて、「演奏と同時に楽譜を投影する」側面にもある。楽譜――演奏家にとって頑丈な拘束力を持つ指示書を同時に私たちにも見えるよう提示するのは、暴力的状況に拍車をかけている。いわばそれは、カラオケをする芸能人がリアルタイムで採点されていくバラエティ番組を眺める行為に近い。演奏家のミスは些細であっても致命的な、しかし「状況を面白くする」不可欠な要素として晒され、ステージは訓練された身体のための特異なジャッジの場へと変貌する。かくして聴衆、特に楽譜を読める者は、パフォーマーのエラーをフレーム外から傍観する野次馬的視座に立つのである。

 小宮作品における楽譜の位置づけとは何だろうか。
 もとより、楽譜に限らず「書き留める」ことの優位性は、保存や再現のために内容を記号で記録し、時空を超越しうる点にある。印刷技術はさらにその記録の完全な複製を可能にした。小宮の個展では過去のパフォーマンス《VOX-AUTOPOIESIS V –Mutual–》で生成されたスコアが細長い感熱紙に印刷され、ギャラリーの一角に展示、また複製が販売されていた。だが、それは所詮声という一過性の媒体の痕跡であり、もはや再現性を失っている。演奏によって再現しようとしても、作品の性質上真の再現にはなり得ないからだ。ゆえに、小宮はスコアをこだわって飾りつつも「排泄物のようなもの」と形容し、人体を通した再現的行為をもう望まない。
 結果としての音よりもシステム自体が作品と言える今作において、パフォーマンスはいつまでも明確な終わりを指向せず、連綿と続くプロセスの一部をパフォーマーのスタミナやタイムテーブルの都合により抽出し、関係者のお辞儀を添えて便宜上パッケージ化したものに過ぎない。にもかかわらず、保存や再現を目的としない楽譜の印刷を以て、ここで初めて「終わり」の概念が示されるのが興味深い。すなわち、それは作品の終わり方の再定義であると同時に、楽譜のアイデンティティの再定義でもある。

 さて、終始ヴォカリーズで歌われていた《VOX-AUTOPOIESIS》に対し、今回の新作《そして、O-renはそれが歌であることを知った》で小宮が声とインタラクティブなシステムを引き継ぎつつも新たに取り組んだのは、音楽と言語の問題であった。パフォーマンス冒頭、世界最古の楽譜と言われる「セイキロスの墓碑銘」を溝淵が歌うと、それに基づき今度は楽譜ではなくテキストが自動生成され、会場の壁に映し出され、O-ren(人工音声)によって読み上げ、歌唱される。生成されたテキストを墓碑銘のメロディに替え歌風に当てはめたり、単語から想起される往年のヒットソングに飛び火したりする溝淵の当意即妙な反応は、さらなる自動生成のトリガーとなる(その仕組みは乳児の言語習得のプロセスをすぐに想起させた)。また、O-renは音声認識のその場での読み上げと並行して、墓碑銘からインスパイアされた小宮自身による文章をも終始読んでいたのだが、溝淵の声の分析結果に準拠したピッチシフトがその両者に施されるという重層的な仕掛けが張り巡らされていた。

 今作で特に筆者の目を引いたのは以下の二点である。
 まず、システムに相対する人物の不確定化。パフォーマンスと展示の二面性は前作から受け継がれているが、ここでは展示の際に聴衆もマイクを通してテキスト生成に自由に参加できる。つまり、私たちは双方を享受することで、自身と作品との関係性を流動的に変化させうるのだ。筆者は初日に展示→パフォーマンスの順で「既知のシステムが他者の所有物となる様」を、最終日には逆にパフォーマンス→展示の順で「他者のシステムを自らの所有物として再発見する様」をそれぞれ体験した。
 加えて、溝淵とともにパフォーマンスに参加した永田風薫の存在が大きい。前半、YouTube上でのライブ配信に徹していた永田は、後半で突如その動画を壁に映し出す形で闖入し、溝淵とシステムの相関関係を妨害する。テキスト生成とは異なる層として次々と現れるあらゆる文字列(YouTubeの項目名、ブラウザのタブ名など)を溝淵が探し、条件反射的かつランダムに歌い読み上げていく行為は、聴衆に今この瞬間、彼女の目と口がどこの何を捉えているのかを後追いで探させるゲームへの参加や、溝淵の視線と自身のそれとの同期を唆す。
 《VOX-AUTOPOIESIS》では「終わり」の概念は過去の痕跡の排出(=楽譜の印刷)によって定義されていたが、新作では「永田の干渉がパフォーマンス全体を終わらせてくれた」と小宮は後に語っていた。会場の聴衆の「盗み見感」は前作に比べ弱まっていた代わりに――ここでの真の第四人称はむしろライブ配信の視聴者だろう――いつの間にか溝淵に釣られてしまう「没入感」が結果的にもたらされていた。何より、システム・パフォーマー・聴衆の固定された三角関係に揺さぶりをかけるこの仕掛けは、言語へのアプローチ以上に小宮の創作に新しい息吹を吹き込んでいたと言えよう。

 《VOX-AUTOPOIESIS》にせよ、《そして、O-renはそれが歌であることを知った》にせよ、大量の音や言葉がただただ目前で垂れ流されていく有り様に、聴衆はまず呆気にとられてしまう。そして情報の洪水に飲み込まれながら、小宮作品は好悪という尺度では測れないことにふと気づく。彼の世界が通底して放つ強烈な引力があるためだろう。「現代芸術は意味不明」といった世論が耳目に触れて久しいが、ここにはむしろ「得体の知れない存在だからこそ触れてみたい」、私たちの第四人称的好奇心をくすぐる何かが潜んでいるのだと思う。
 「すぐにわかると思わせる魅力」を振りまくのとは異なる次元で、「わからないが近づきたいと思わせる引力」を持っていること。そこから世に問いかけ、議論を巻き起こしていくこと。それはクリエイターが、ひいては芸術全体がこの困難な時代においてもなお存続するための、重要な鍵ではないだろうか。



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