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開き、晒す—小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」小島広之(音楽評論)(小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」展覧会レビュー)

2024年3月15〜17日に開催された小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」(Retramp Gallery, ベルリン)の展覧会レビューを音楽評論の小島広之さんに執筆していただきました。


開き、晒す——小宮知久個展「わたしに奇妙な歌を歌わせてください」

小島広之(音楽評論)

 独特の存在感をもつ石碑、セイキロスの墓碑銘と呼ばれている。ゴロッとした円柱に刻み込まれた文字譜は、およそ二千年前に作られた今日知られる最古の音楽である。小宮知久は、この石碑が収蔵されているデンマーク国立博物館に立ち寄ったようだ。感じるところがあったのだろう。かねてより小宮の作品は、音楽の根源を問うてきた。ただ心地よく響く音楽ではなく、テクノロジーを用いて音楽に強い負荷をかけることで、音楽が前提としてきたものを抉り出すような作品を創作してきた。そういう仕掛けを生み出してきたのだ。
 ベルリンの東南部ノイケルンに位置するリトランプ・ギャラリー(Retramp Gallery)の周りには、移民たちが経営する飲食店や、小規模な劇場やギャラリーが多く見られる——底知れぬ、ワクワクさせるような街。このギャラリーのドアは常に開かれており、小宮が生みだす音が絶え間なく街に流れ込み、融けこんでいた。通行人たちは気軽に立ち寄った。ドイツの日刊新聞『ターゲス・シュピーゲルTagesspiegel』(2024年3月14日号)には、個展開催の前日に以下の文章が掲載された。

SFの歴史上、オートポイエーシスはたいてい脅威として扱われてきた。人間によって作られたにすぎないものが、独立し、自身から発生し、この惑星の大地を支配する。この種の最古のディストピアは、100年前には作られていた。自然観察に由来するアイデア。日本の作曲家・芸術家である小宮知久は、このアイデアをメディア芸術および音楽に導入した。ここでは声、楽譜、歌が相互作用し、そこから新たなものが生み出されている。

加えて、同時期に開催されていた現代音楽祭「メルツムジークMärzMusik」の見ものの一つ、現代音楽の楽譜を蒐集・展示するライブラリーに、小宮の楽譜が展示されたことも付記しておきたい。
 3日にわたる会期中、計6回のパフォーマンスが行われた。筆者は初日のパフォーマンスを観た。
 ギャラリーは二つの空間に隔てられていた。外に面した空間には、幅数cmの細長い楽譜が天井から吊るされ、床の上で何重にも渦巻いている。異形の楽譜が窓から覗いていた。異常な跳躍とリズムからなる楽譜は、《VOX-AUTOPOIESIS》の過去の上演で生成されたもの。この作品では、歌手の声を分析するコンピューターによって楽譜が絶え間なく生成される。パフォーマーは、ソプラノ歌手の溝淵加奈枝。はじめ、中央の「ラ」の音を示す楽譜がスクリーンに映しだされる。それに応じて溝淵が歌うと、新しい楽譜がスクリーン上に投影される。コンピューターが、息継ぎや微かな声の震えを執拗に読み取り、それを楽譜に置き換えるのだ。歌手はその都度生成される楽譜に合わせて歌わなければならない。しかし、次第に楽譜上のリズムは再現不可能なほどに細分化され、音程は極度に高くなる。歌手の声帯は、自分の声に由来する楽譜の氾濫に押し潰される。数百年にわたって演奏者に仕えてきた楽譜が、ここでは音楽家たちの意図を超えて自己繁殖する。このようにして小宮は、音楽文化の前提をなす「主従関係」を転覆させ、新たな関係性を観衆の前にまざまざと開示した。「私たちが親しんできた楽譜とは、何だったのだろう」という問いを誘う。この作品は、小宮のスタイルの一つを象徴していると言っていいだろう。
 奥の空間では、人工音声が反響しつづけていた。新作《そして、O-renはそれが歌であることを知った》は、周囲の音を読み取り、それを分析して新しい言葉を生成する装置によるメディア・インスタレーションである。隣の空間から聞こえてくる音、訪問者らの会話、そしてこの作品自らが発している人工音声を読み取り、それらのアマルガムのような文章を生成し、それを人工音声で読み上げる。情報が乱反射していた。また、この作品のパフォーマンス・バージョンでは、歌手の溝淵が、セイキロスの墓碑銘に刻まれた古の旋律と歌詞を歌う。インスタレーション・バージョンと同様に、コンピューターがその歌詞を分析し、人工音声によって発話する。その歌詞に合わせて再び溝淵が歌う。これをひたすら繰り返す。この過程で、歌詞は歪曲され、次第にセイキロスの旋律に当てはまらない歪なものになる。それに合わせて溝淵が旋律を即興的に変形させていく。溝淵は、類い稀な技術によって情報の濁流を巧みに乗り切っていた。途中、メディア・アーティスト永田風薫がおもむろにスマートフォンを構えると、パフォーマンスの様子がYouTube上でライブ放送される。このライブ・ストリーミングの音がコンピューターによる読み取りに干渉し、アウトプットされる歌詞はいよいよ混沌とする。歌手はコンピューターが生成する歌詞だけでなく、YouTubeブラウザ上の文字も歌いはじめる。情報がオーバーフローし、歌詞は「doo, doo」や「da, da」といった無意味な音へと解消する。いよいよ溝淵も、そして彼女が歌う旋律も情報の混沌に屈した。
 堅牢な石に黙々と文字を打ちつけた古代ギリシャの石工は、この作品を観て何を思うだろうか。セイキロスの墓碑銘において、歌と歌詞は、二千年のあいだ物言わぬ石の上で隣り合ってきた。不安定な媒体上を生きることを余儀なくされている今日のテキストとは対照的だ。小宮は、この対照を際立たせるように、セイキロスの歌を始点にパフォーマンスを立ち上げた。放流されるやいなや、多様な「読み」に晒され、ぬかるんだ諸媒体の上で乱反射する、現代のテキスト。《そして、O-renはそれが歌であることを知った》では、旋律とテキストがコンピューターとライブ・ストリーミングという迅速で不安定な媒体の上で、早々に分断され、癌細胞のごとく異常成長を遂げながら、しかし一つのパフォーマンス上に定位されているため、完全に分断されることはなくとどまりつづけ、相互に汚染しあう。現代のテキストの不幸を煮詰めたような状況が展示されたのだ。本来、音楽だけは特別なはずだった。音楽という領域では、テキストと旋律は一双のものとして、歪曲されないままでありえた。旋律は、テキストを現象化させ、人に届けるための媒体であったはずだ。両者の関係は綻びることを知らない。だからこそ小宮は解体する。それも、単に崩壊の結果を展示するのではなく、その過程を見せることで、問いをゆっくりと投げかける。リアルタイムで立ちあらわれる不気味さを通して、現代社会が抱える、あまりに日常的であるがゆえに意識に登らないような現実が、小宮作品では暴露され、ありありと認識される。危うい傷が外気に触れた。



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