誤解は解かない、言葉を尽くさない。
誤解されることがとても嫌いだった。我慢ならない、そのままにしておくことが許せないという気持ちが強かった。
誤解されたと感じたら、まずは言葉を尽くして「そうではない」と伝えようとした。それでも駄目なら、できる限りの証拠を揃えて、相手の前に並べてみせた。まだうまくいかないようなら、とにかく相手と会うたびに「あのときのことは誤解なんです」と繰り返し伝えた。
大抵、相手は誤解を認めなかった。一方、認める場合も、まれにはあった。しかし、いずれにしても起こっていることはほとんど変わらなかった。相手はうんざりしているか、怒っているかで、不機嫌だった。こちらはただただ疲れていて、相手の態度もそんなふうだから、自分の主張が通ったとしても気持ち良さは全くなかった。
子供の頃から10年も20年もこれを繰り返して、近頃の僕は誤解されたと感じても、心の中で「まあ、いいですけども」と言って、なるべく忘れるようにしている。どうしても譲れないというラインを、なるべくなるべく下げるようにした。
今となっては、それを越える誤解というのはほぼないし、誤解を放っておいたことで受けた有形の不利益はゼロだ。これは、僕の場合は本当に一つもなかったと言っていいと思う。僕がこだわる誤解というのは、実のところ大したことのないささいなものなのだ。
誤解を解くために力を尽くしても、いいことはない。決して口には出さない「まあ、いいですけども」で済ませるのは、人と関わりながら生きていく上で、それほど見当外れな方法ではないと思う。ただ、あらためてそのことについて考えるたびに、「ウッ」と喉に込み上げてくるものがある。
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