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人差し指

人差し指を失った。

4月の終わりに手術してから、もう4ヶ月経とうとしている。

大学生の時、左手の人差し指の第二関節に筋が浮き出てきているようで、何かがそこに当たると少し痛みがあった。当時は、大してお金もなく、親からの仕送りを増やさせるのも申し訳なかったから病院には行かなかった。

社会人2年目になって、病院に行くくらいの出費ならそこまで重たくなく感じるようになってから、初めて指について近所の病院に行った。
MRIの画像を見た中年を過ぎた男の先生には、指の腱が少し飛び出て硬化しているだけなので村上さんが暇な時に手術しに来て下さいと言った。ヤブ医者だったと思う。

少し忙しかったのもあって、半年空けて去年の12月に同じ病院に行った。
手術前の検診の先生は前とは違う若い先生で、僕の指を見て大きい都立病院への紹介状を書いてくれた。
少し嫌な予感がした。

都立病院の先生からは、皮膚の硬化であるデュピュイトラン拘縮か、類上皮肉腫という癌のどちらかでしょう。おそらく拘縮の方だと思いますけど、指のしこりの組織を一部取って、検査しますと言われた。

病院からの帰り道。癌という言葉が自分に向けられてしまった恐怖を紛らわしたかった僕は、この検査が終わってなんともない事がわかったら癌関連の募金機関に毎月募金しよう、この恐怖を知ることができてよかったと、半分他人事のような気持ちで考えていたのをよく覚えている。

生検の結果、類上皮肉腫と診断された。

そう告げられた時の、周りの音が遠くなっていく感覚は、半年経った今でも忘れていない。
自分の指が急に異物に見えた。
基本的には、病気の進行具合に合わせて切断手術になると言われた。死ぬ病気だと、そう言われた。

帰り道、電車に乗っていた。満員電車だった。普通の顔をしていたと思う。
泣きたい気持ちでいっぱいだった。
この車両に乗っている人達の中で、この絶望を知っている人はいなかった。
ここで泣いたり、なにかにキレて当たり散らかせば変人として扱われるのだろう。
今までそういう人を見た時に、その人の背景なんて知ったこっちゃなかった。人それぞれ、その顔の下になにかを抱えているのだと知った。

帰って家族に電話して、明るく話して、電話が切れた後に泣いた。
よく早めに死にたいと言っている人がいる。
僕は真逆だ。
できるだけ長生きして、自分の周りの変化を見ていたいと思っていた。

病気の進行度を調べる為のPET検査という画像検査をして、首元に反応が出た。首まで病気が進行していると診断された。

都立病院の先生は、肩甲帯離断手術の提案をしてきた。左肩からごっそり無くなる手術で、完治を目指すならそれしか方法は無いと言われた。
大きい手術だから、やる人もやらない人もいる、今後の人生と向き合ってくれと言われ、セカンドオピニオンで他病院の先生の意見も聞くことを勧められた。

一緒に診断を聞きにきてくれていた母親と弟には、なんて言ったらいいかわからなかった。
とりあえず、今すぐには死なない位には元気だと、そう言ったけれど、2人の目をまともには見れなかった。

そのまま実家に帰った。両親と話している途中で涙が止まらなくなってしまった。それまで人前で泣く事を我慢していたからなのか、しばらくずっと泣いていた。
首まで飛んでいたら正直どこまで行っているかわからない。肩から切断しても再発の可能性は高い。どうせ死ぬなら、死んだ後、身内にあまり僕が泣いていた姿を思い出してほしくない。
そう思って、この日から泣く事をやめた。笑っていようと思った。

セカンドオピニオンで癌研究センターの先生と話した。K先生と言う。
K先生は、首の腫瘍はPET検査だけでは断定できない、手術前に首も生検するべきだと言った。

患者が希望すれば、セカンドオピニオンから病院を移して主治医を変更する事は可能だ。
少しでもプラスの可能性について話してくれて、なにより明るく話すK先生に人生を任せよう。そう思って主治医の変更を申し出た。

その頃には直接会った友人には癌について話すようになっていた。そもそも人と会う生活ではないから数は少なかったけれど。
話を聞くとみんな困惑する。
どういう反応をするかを見て、自分の友人として相応しいのかどうかを見定めるような所もあった気がする。良い人間でいたかったのに、やっぱり自分本位な人間だった。

余裕が無くなってしまった時に、人の本性が出るのだと思う。やっぱり自分は、表面上は取り繕えていても根っこの部分で意地が悪い。
良い人間に見られたい。そういう打算で動いている。このしようもない自分の底を、残りの時間で叩き直せる気はしなかった。

3月、首の生検をする為に親戚から貰った沢山の御守りを持って入院した。癌研究センターは築地市場の向かいに建っていて、夜は灯りのついたビルや高層マンションが目に映える。
消灯時間の9時を過ぎても、窓際に座ってずっと外を眺めていた。寝られなかった。
外の綺麗な景色、観光客で賑わう市場とは真逆の環境が一本の道路を挟んで存在していて、僕はそこにいた。
病院は多くの人にとっての死に場所で、いるだけで息が詰まる。ずっといると寿命が縮まりそうな気がして、1秒でも早くその場から飛び出したかった。

肩から切断すると言われてから、2ヶ月以上は経っていた。

生検の結果、首は陰性だった。

K先生は、左手人差し指の切断、転移の予防ということで左脇下のリンパ節全摘出、陰性だった首のリンパも保険として摘出すると言った。
拒否はしなかった。肩から切り落とすと言われていたのだから当然だ。
完治が確定するわけではないが、少しだけ救われたと、そう感じた。

4月の終わり、手術の前日から入院した。
M先生という若い手術の担当医から説明を受けた。K先生の下についているからか、よく笑う人で似たものを感じた。
M先生は、マジックペンで僕の指に切断する為の目印になる線を入れた。

夕方頃、病室にK先生が来た。少し話をしたけれど内容はよく覚えていない。
別れ際に手を差し出して、強めの握手をした。

当日、手術は朝一だった。
両親も来ていて、少し話してから手術室に連れて行かれた。

手術台の上で寝かされて、麻酔をかけられはじめた。
人差し指とお別れしようと思って、おでこに付けてみたり、キスしてみたり、左手を上に挙げて見ていたら、看護師が邪魔ですと言って僕の手を抑えた。
その状況が少し面白いなと思っているうちに、麻酔が効いて眠ってしまった。

K先生のうまくいったよという声で起きた。
ボーッとする中で、とりあえず右手を出してまた握手した。

その後は最悪だった。
息苦しい酸素吸入マスク、尿道に通っている管、右腕の点滴、包帯でぐるぐる巻きにされた左手、リンパを取ったところに液が溜まってしまうからそれを出す為に脇と首に突き刺さっている2本の生臭いドレーンチューブ。
その日は水も飲めなければ、トイレにも行けなかった。

1日空けて、リハビリの先生が来た。
ベッドから起きて、歩き始めた。
一昨日までスタスタ歩けていた廊下を、ふらつきながら歩いた。

やっぱり病院は嫌いだった。
癌の病院だから若い人は珍しかったし、自分が浮いて見えた。コロナもあって交流もなかった。
こんな所早く出て行きたい、二度と来たくないと思い続けた。
家族や友人からの励ましの連絡だけが希望で、僕を救ってくれていた。

1週間くらい入院していた。
ドレーンに体液が貯まらなくなって、チューブが体から抜けたタイミングで、退院した。
退院の日は両親が車で迎えに来てくれていた。
涙が出そうだったからハグしてごまかした。

病院を出た。

換気扇越しではない外の空気を久しぶりに吸った。
ガラス越しではない日の光が肌に当たるのを感じた。

こんなの些細なことで、生きているなら当たり前だ。
それがどれだけ特別なことなのか、今まで知らずに生きてきた。

人差し指を失った。

今はそこまで気にしていない。
何かが欠けてしまったとして、等しく自分だ。
前より人に優しくできる気がしているけれど、きっとクソみたいなところはそのままだ。

運によって、簡単に人生は左右される。
前よりもはっきりとそう思うようになった。
僕は運の悪い中では運の良い部類だったと思う。
生きていればそれでいいという言葉は、その通りだけれど、少し軽くて無責任だ。
人は運が悪ければ、ポックリ逝く。

生きるか死ぬかの話でなくても、運によって左右されるシーンがほとんどだ。
だから自分が面白くなかったり無駄だと思うことをする必要はない。それが一般的にする必要があると言われていても、それがあってもなくても、うまくいく時はうまくいくし、うまくいかない時はうまくいかない。
ただそれでも人生をより良く、楽しくする為に、少なからず努力したり、考えたりすることは大事なことだと思っている。
そういう行動をした結果死ぬのと、何もせずに死ぬのとでは結果は同じだけれど、人生としては少しずつ違ってくる。

どうしたって先のことなんてわからないし、
もしかしたら明日死ぬのかもしれない。
死に方だって選ぶことはできない、悔いは必ず残る。
だからこそ、その日その日を生きれることに感謝しよう。
外に出て、陽の光を浴びて、いろんな所に行こう。会う人といろんな話をしよう。
人生がより良い方向に転ぶように考えよう。
周りに居てくれる人にも感謝して、その人たちの幸せを願おう。
死ぬまでは、しっかり生きていよう。

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