木鶏の話

「我未だ木鶏足り得ず」という言葉は、双葉山の69連勝が破られたときに本人が使った言葉とされていますが、この木鶏とは中国の故事に由来するそうです。

参照:Wikipedia
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故事では紀悄子という鶏を育てる名人が登場し、王からの下問に答える形式で最強の鶏について説明する。
紀悄子に鶏を預けた王は、10日ほど経過した時点で仕上がり具合について下問する。すると紀悄子は、「まだ空威張りして闘争心があるからいけません」と答える。
更に10日ほど経過して再度王が下問すると「まだいけません。他の闘鶏の声や姿を見ただけでいきり立ってしまいます」と答える。
更に10日経過したが、「目を怒らせて己の強さを誇示しているから話になりません」と答える。
さらに10日経過して王が下問すると、「もう良いでしょう。他の闘鶏が鳴いても、全く相手にしません。まるで木鶏のように泰然自若としています。その徳の前にかなう闘鶏はいないでしょう」と答えた。
上記の故事で荘子は道に則した人物の隠喩として木鶏を描いており、真人(道を体得した人物)は他者に惑わされること無く、鎮座しているだけで衆人の範となるとしている。
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おそらく、見栄を張るときとか、欲を出すときというのは、入ってくる情報に対して自分が非力なときなのだと思います。情報を取捨選択しながら、取り込んだ情報に対して自分の力量を合致させていくような過程を踏んで初めて強くなれ、自然と見栄や欲も消えていき、だんだんと所作や立ち居振る舞い、人間性も変わっていくものだと思います。

理想の木鶏には一生かかってもなれるものではありませんが、例えば、結果が出て悔しいと思う時、結果よりも「悔しいと思ったこと」や「悔しいと思った自分」に、まだまだ”過程”が足りないと認識して、また稽古ができるような、そういう精神を創っていきたい。