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まだ五線使ってるの?新しいノーテーション 【2019年4月】

(1)序章

今月のテーマはノーテーション。わたなべと森下の共同執筆です。構成は森下が担当しています。

さてこのテーマで思い出すのが、昨年8月に開催された「中堅女性作曲家サミット」での小出稚子さんの発言。五線譜(staff notation/standard Western notation)は現在もっとも市民権を得ている記譜ですが、一方ではツールとしてある種の不自由さを感じている人も多いよう。小出さんはこのように言い表していました。

...楽譜に書けない部分に音楽の面白さがある気がしていて。楽譜に書く段階でこぼれ落ちていきます、私の音楽の旨味成分は。(中略)私はその「根っこの部分」が一番面白いと思うんです。発想力や、その人にしかできない形で、何もないゼロからイチを生み出そうとする力や姿勢みたいなもの。

この「五線譜からこぼれ落ちるもの」を見定めることが、ノーテーションの追求において大切だと思いませんか?五線譜で表現し切れるのであれば他の記譜をつかう必要はない。それは遊びでありファッションでしかないのだから。言い換えると「記譜と(音楽的)発想が乖離していない」「記譜法が音楽的な必然性と結びついている」状態をつくることがノーテーションの開発において必須。

そういえば今堀さんが3月エッセイで、このように書かれていましたね。

学生たちに例示したサンプルプログラムというのが、まあいわゆるエフェクト集のようなもので、それを組み合わせればとりあえず元の音に何を入れてもライブエレクトロニクスっぽくなるよ、というようなサンプルです。しかしそれでなんとなく面白い音が出たところで、それは創作に全く意味をなさない、ただのファッションでエレクトロニクスを扱っているよというだけでしかないわけです。それは単に珍しい打楽器(例えばシェルツリーとかウォーターフォンとか)を取り込んで、それがあってもなくてもとりあえず成り立つ音楽、と言っているのとあまり変わりません。(以下、略)

さて今月は、上記を踏まえ「記譜」と「音楽の発想」の結びつきにを考察していきます。

と、その前に、そもそも現在もっとも多く使われている「五線譜」とは何なのでしょう。わたなべさんはその発展の経緯をこのように解釈しているとのことでした。

実は私たちがよく見る五線譜は、活版技術の発展によって段々と形を変えながら、今の形に定着しました。活版っていうのは、今はなじみがないんですが、文字をハンコのように押す方法です。それまでは手書きだった訳ですから、割と色んな形の楽譜があったわけですけど、ハンコの形が決まっているので、それ以外のものは出来ない。上下反対にしても使えるっていう意味で、符頭の形や大きさ、棒の位置なんかも定まっていったんじゃないかと思います。要は活版技術によって、大量印刷の方向に向かっていった。大量印刷に伴って、情報速度が上がり、それによって産業革命が進行したことを考えると、その背景には資本主義社会の流れが大きく関係しているんじゃないかと思うんです。何も線は5じゃなくても良かった、13の時代もあったんですから。ただ利便性が良かったのは、この五線なんですよね、素早く読めて、システム化しやすい=大量生産。まさに資本主義!今はFinaleやSibeliusなんていうノーテーションソフトがありますから、更に楽譜は画一化しています。世界中で誰でもわかる、誰でも読める!
要は、この五線は画期的で使い勝手は良いけれど、非常に凡庸なノーテーションの方法だということが言えると思います。黒や白い丸に棒を上につけたり、下につけたりすることや、私たちが散々悩んで使っているこの形には、実は音楽的な理由より先に印刷上の理由があったと。

さて、それぞれの記譜法はどのような音楽表現を導くのでしょうか。
まだ五線使ってるの?新しいノーテーション(2)に続きます。

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