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間ってなあに?日本の感覚を現代音楽でつかう?【2019年5月】

(1)序章

伝統芸能と現代音楽の融合を目指す、あるいはそれらについて発言をされる日本人あるいは日本拠点の作曲家の方は数多くいらっしゃいます。同世代だと桑原ゆうさん、ゼミソン・ダリルさん(通常の英名だとDaryl Jamiesonなので、日本式に姓名を入れ替えた表記を好まれて使われているようですね)などがよく知られているでしょうか。

最近では細川俊夫さんの《二人静》が海外で話題です。能パフォーマーの青木涼子さんにより世界中で演奏されている室内オペラで、下記のビデオはアンテルコンタンポランのもの。

能楽堂に勤める知人曰く、青木さんは伝統とは違う文脈での活動を主軸に置いていらして、日本各地の能楽堂で行われる所謂古典演目の舞台には立たれないのですってね。つまり「現代音楽」の文脈で「能パフォーマー(能楽師とは異なるそう)」として演じることが彼女の本分であり、ある種の棲み分けがきっちりある。
(逆に「お豆腐狂言」の茂山千五郎家など、古典の型を崩して現代に合わせた「古典」狂言の表現をされる方もいらっしゃるというのも聞きました。)

このことだけで、いくつもの考えが浮かんできます。

古典芸能とコラボするにはどのアプローチが正しいんだろう?
きっちりと勉強して全てを理解してからじゃないといけない?
じゃあ情報や資料が限られる外国人はどうしたら良いんだろう?
それともこのようなコラボはやはり日本人だけの特権?
技術や知識は得られても「肌感覚」で理解できるようになるには時間がかかるから?
でも国外の人が確立して今日では「伝統芸能」とみなされているものもあるよね?たとえばオランダ人演出家によって確立されたバリ島のケチャ...。
ということはコロニゼーションの歴史を語らずに文化を語るべからず?
西洋化=グローバリゼーション?
そもそも私たち日本人がいわゆる現代音楽を作曲する意味は?
そもそも文化境界というのは今でも存在する?
エキゾチシズムって何?

それぞれの視点や答え。たとえば「日本語を用いた作品をつくるのであれば、歌い手は絶対に日本人でなければ駄目だ」と友人作曲家が言っていたことがありました。5年くらい前のことだったかな?わたしはそのような風には考えないので、ずいぶん驚いたことを覚えています。なんせ「外国人」として「母国語以外」を用いて長い間生活しているので、「文化的オーセンティシティ」はそもそも手に入らない、求めること自体をしない、というのが基本のスタンスになっているのです。

とはいえその友人の言っていたことも分かる気もします。発音も音に対するセンシビリティも違うし、何より歌詞の意味をどこまで理解できるのかっていうこととかね。

小出稚子さんもオランダ留学のほかインドネシアでガムランの研鑽を積まれていたり、また逆に、ずっと日本で活動されている山根明季子さんの見地などもわたしにはとても新鮮。ちなみに、わたなべさんはカイロ探訪記にてこのように述べていました。

この委嘱をもらってから、ずっと考えていたのは、この楽器(注*カノーンというエジプトの楽器のこと)の所在だった。どういう位置づけで、このエジプトの美しい楽器を西洋楽器アンサンブルに入れるかどうか。下手をするとその良さを消しかねない。もしくは、食われる。こういった試みで最も避けなければいけないのが、全てを平均律か、もしくはアラビア音楽のルールに当てはめてしまうことだと思う。彼らは彼らのルールがある。それをどちらも尊重しつつ、使いたい。

なるほど、わたなべさんらしいなあ。(太字はわたしがつけました。)

***

さて今回のタイトル「間ってなあに?日本の感覚を現代音楽でつかう?」。これは数ヶ月前にわたなべさんから私に与えられたタスクでした。わたしの修士・博士研究はこの辺(文化越境)がテーマだったからです。

いろいろ考えたのですが、今回は「間」や「日本の美学」そのものというよりは、日本をはじめとした固有文化的概念や現象への海外アーティストのアプローチをいくつか取り上げてみようと思います。(論文の内容をこの時点で詳述することができないという実際的な問題もありました。)

それでは明日からはじめていきます。

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