こがねのなさけ

※誤植を訂正しました(8/12)
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 「一生に一度は、映画館でジブリを。」というコピーを添えてリバイバル上映されているスタジオジブリ作品『もののけ姫』(1997年・宮崎駿監督)を観ました。先日ふらっと観に行った『風の谷のナウシカ』も同じく、何度も目にする機会はあったけど、レンタルのVHSやテレビ放送ばかり。「知っている」作品だから、映画館でしばらく映画を観ていなかった身にもやさしかろうと思ったら、スクリーンのサイズ感と音響にしっかりやられてしまいました。たしかにストーリーの流れや台詞は記憶にあったものの、映画館ならではの体験はほかでは得がたいとあらためて思い、『もののけ姫』を観ねばと心に決めました。
 予約しておいたチケットを出力して、体温を測る機械の前で〈正常です〉という音声を待ち、両手にアルコールをまぶしてから係員の持つトレイにチケットを載せてマルをつけてもらう。エレベーターに乗り、テープでふさがれていない席につく。本編の前に流れる映像の言うことには、映画館には窓がないけど換気のよい作りになっているらしい……。

 リバイバルされている4作品のなかでは『もののけ姫』がいちばん自分の心に残っています。とはいえ最後に目にしたのは10年以上前だったはずで、自分の考えや感じかたがどのように変わっているだろうというのを楽しみにしていました。そしてなにより、劇中曲「タタラ踏む女達 〜エボシ タタラうた〜」を聴くことがいちばんの楽しみでした。この曲は、山間に築かれた鉄づくりの集落「タタラ場」を訪れた主人公アシタカが、集落の長・エボシ御前との対話を経て、製鉄の施設に立ち寄るシーンで流れます。
 集落に夜が訪れ、製鉄の建物からは鉄火のひかりがこぼれている。アシタカはいちど通り過ぎようとするも立ち止まり、足を踏み入れます。きっとすごい熱気でしょう。数人の声が重なる「タタラうた」が流れはじめます。働いている人がうたっているていではなく、場の空気そのもののようなBGMとして。たたらを踏んでいた人たちは客人に気付いてあかるく出迎え、曲に重なるように会話がはじまります。そしてかれらのやりとりの盛り上がりに寄り添うように、はじめは歌声と素朴な和音だけだった「タタラうた」にも打楽器による軽快なリズムが加わっていきます――。
 「タタラうた」は、いわゆる労働歌【ワークソング】だといえます。苛酷な仕事をともにする者たちが、その気持ちをはげますためにうたう歌。日本にも、たたら製鉄の場でうたわれていた歌が残っています。曲名にもあるように「タタラ場」において製鉄に従事しているのは女性たちです。劇中では、鉄をけがすとして女性が製鉄に関わることを忌避するならわしがあるということが語られます。しかし「タタラ場」はそうではありません。長であるエボシ御前のはからいです。身内に捨てられ、あるいは売られそうになっていた女性たちを「タタラ場」に連れて帰り、住むところと仕事を、暮らしの糧を、そして男たちと対等に渡りあうことができるほどの立場を約束しています。鉄砲という強力な武器の扱いさえも手ずから教えて……。もしかしたら、エボシ御前は『もののけ姫』において、現実ばなれしているという意味でのファンタジーをもっとも感じさせる存在かもしれません。
 エボシ御前がこの地にあらわれ、鉄と火薬の力をもって「神の森」を切り拓いて「タタラ場」をおこし、いまの姿にまで育てあげたのは、おそらくここ数年ほどの、長くはない期間のようです。集落と、製鉄の施設、それを取り囲む城砦のような丸太の塀と堅固な門が築かれています。「神の森」を荒らされて怒るけものの姿の神たち、製鉄の利益をねらう侍たち。かれらから「タタラ場」を守りながら、人々を束ねあげ、育んでいったエボシ御前の姿には、やはり圧倒されます。
 そんな戦さ場のような「タタラ場」の日々のなかに「タタラうた」が生まれて、うたい継がれている――先に書いたように映画には登場人物がうたっているシーンはありませんが、その様子をありありと想像することができる――ということが、なによりわたしの心を打つのです。
 「タタラおんなは こがねのなさけ」という歌詞がありますが、「タタラ場」で生きる人々のたくましい姿はもちろんのこと、みずから製鉄に励むわけではないながらも人々を力づけ、見守っているエボシ御前のまなざしを思わせる一節でもあります。曲名にエボシの名があるのもうなずけます。

 ひさびさに観た『もののけ姫』でしたが、主題歌が劇中で流れることを完全に忘れていて、静謐なシーンなのに驚いてちょっと笑いそうになってしまいました。見かたがぜんぜん変わったところとして、意見がはっきりしない人だなと思っていたアシタカは、そもそも14や15で(里の成人に達していないのはたしかだけどいくつなんだろう)いつかはわからんが確実に死ぬと宣告された身だということを思い直すと、自分の命がわからないなかで(わからないからこそ?)今、今……と動くしかなく、会う人会う人の立場や考えにふれるたび、ひとりひとりの願いを叶えてやりたいと思ってしまうのかなと思いあたり、なんとなく納得がいくようでした。もうひとりの主人公・サンは、意志の強さでいうとアシタカとは対照的でとても魅力的なのですが、終盤のほうで急激にアシタカに絆され、かれの「ともに生きよう」みたいな言葉に即答してしまいます。一度しっかり考えなおしてみてほしい。「黙れ小僧」の印象をこれでもかと上塗りされてよくわからなくなっていましたが、山犬モロは(娘であるサンへの深い愛情ゆえに)アシタカに対してけっこう優しかったですね。顚末を知ってしまっているので、乙事主【おっことぬし】さまが語るあらゆるシーンで涙ぐんでいました……。
 そしてやはり「タタラ場」の人々とエボシ御前の姿にどうしても惹かれてしまうというのは何度観ても変わらないのでした。


・タタラ踏む女達 ~エボシ タタラうた~

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