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悼む、とか偲ぶとか。そしてあわいとか。

母が他界して今年の7月で丸2年が経つ。仏教では三回忌。
去年他界したのか、一昨年なのか一瞬考えないとわからなくなる。

母が他界した時間軸と記憶は過去と現在が入り混じったまま。
コロナのおかげでその辺りの自分の時間軸の感覚は
いつまで経ってもごちゃごちゃになったままである。
ものすごく昔のようでもあり、昨日のことのよう。

母が亡くなったと同時に、家族運営していた会社の譲渡、
新しい経営者への引き継ぎ、そして私自身も退職。
現在、新しい人生に向けて準備中。
言葉にこうやって置くと清々しい気もする。

でもずっとやれてなかったことがある。
そして今していること。

「悼む」。

母を、彼女の死を悼む。私の、置いてけぼりにしたままの気持ちの為に。

「偲ぶ」。

これはまだまだ先のことだ。頭でしか理解していない。

母を失う前数年前から何故か「死」というものが私にとってどういうことなのか、ずっと考えていた。何故ならばやがて私も死ぬから。
同時に朽ちる儚さに私がどうしてこんなに美しさを見出しているのかも
考えていた。
能の世界観、ボルタルンスキーの世界観が当時のその答えを
見せてくれていた。
その時はそこで自分の中での問いかけは完結されていた。
でも実際に大切な大好きな人を失ったとき、私の朽ちる儚さの美しさと感じていたことはただのイミテーションに過ぎないと理解した。
人の命の本当の尊さ、美しさがわからなかったから。

大切な大好きな人を失った後の私の感情は、美しくもないし、簡単に受け入れられるわけでもない。どんなに後悔しない行動を選んでも
後で後悔は押し寄せてくる。
人が死ぬ瞬間を目の当たりにした時、その人の死を美化した、
ありきたりの文章や動画でイメージされるように
人が死ぬことをすぐになんて受け入れられないのだ。
受け入れようとする試みをしているだけだ。
私は母が呼吸をしなくなる最後の瞬間まで彼女と一緒にいた。
彼女が息を引き取っても彼女の体は生きている時と同じように生暖かく
今にも起きてきそうだった。心臓が止まっただけ。心臓の音が聴こえない。それ以外は何も変わらない。でも彼女は今生での終わりの表現を、
新しい世界へ歩き出すことを表現してくれいた。そして残された私には命の尊さと美しさがより鮮明にそれと同時に心に深い悲しみが映し出された。

残された者としての死に向かう、滅びる中での生きる喜び。

混沌とした深い嘆きと悲しみの中での祝福。

生きることの尊さ。無条件の愛。

ボルタルンスキー、能が見せてくれていた本当の世界。

今でも私にとっては悼むも偲ぶも美しい世界では全くない。
簡単に気持ちは消化できない。
その過程に私はいる。でも無理に感情は抑え込まない。
あるがまま。
泣きたい時に泣く。
しょうがないのだ。
悲しいのだから。
その度に命の尊さに否応なく触れてまた涙が出るのだから。

時間。

時間が私を癒している。
そして伝えてくれていることがある。
想像できないくらい、言葉では書けないくらいの命の尊さとその美しさ。
私は死ぬことと生きることを知ったからこその実感。
私は死ぬことは体験してないけど。

それを一番伝えてくれているのはここにはいなくて
いつもいる彼女。母。

彼女はこう言ってると思う。

「尊くて幸せでいいんだよ。それが人の生まれながらにしての
特権なんだから。大丈夫!私もここで”新しい”を楽しんでいるから。」

私にとって今経験している悼むはこういうこと。

偲ぶ。それがわかったらどこかでまた書いておこう。

経験することが全て。

Art de Vivre, Viva la Vida.





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