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夜と蒼いダイヤ

 少し肌寒くなってきた最寄り駅のホームを進む。仕事で遅くなったのであたりはすっかり暗くなってしまった。
「…寒っ」
 薄手のコートを羽織ってはきたが、そろそろ夜は冷える。かじかむ手を片方のポケットに突っ込んで、改札を通り抜けた。ふと、軽やかな音が風にのって聴こえてきた。
「路上ライブ…?珍しいな。」
 俺は足を止める。体が自然と音の聴こえる方へと進み始めた。不思議なことに、その行動に一切の疑問はなかった。別に音楽は嫌いではないが、それこそ路上ライブなんて今まで一度も観た事なんてなかったのだが。少し近づくと、女性の歌声も耳に届いてきた。駅前近くの大きな交差点。その一角に見慣れぬ人だかりができていた。

 そこに、彼女はいた。路上に置かれた小さな椅子に座り、帽子の下から薄紫の長い髪をなびかせ、軽やかに指を跳ねさせてギターを奏でながら、圧倒的な表現力を持った歌声を響かせている。取り囲む観衆も誰一人言葉を発することなく聴き入っていた。
(………なんて綺麗なんだ)
 思わず息を呑んだ。その光景の、歌声の美しさに。夜だというのに、彼女の周りだけ光に覆われているような。そんな感覚さえ覚えた。


『ありがとうございました。』
 ぺこりと彼女が頭を下げる。自然と体で拍手を贈りながら、そこでようやくはっとした。気づけばかなりの時間が経っていたようだ。いつの間にか観衆は倍以上になっていた事にも気づかなかった。彼女に声をかける者。チップをギターケースに入れて場を後にする者。各々がとても明るい表情をしていた。観衆の心をつかみ、感情までコントロールしていたのか。観衆がほとんどいなくなるまで、俺はその場から動けなかった。やがて彼女と話をしていた観衆も去り、俺だけがその場に残ってしまった。
 彼女がちらりと俺のほうを向くと、少し驚いた表情をした。そのあと優しく微笑んでこう言った。
『…泣くほど感動してくれたの?』
 どきりとした。頬に触れると、両目から自然に涙が溢れていたのだ。
「あれっ…?俺、いつの間に…?」
 焦って涙を拭いた。人前で涙を流すなど何年ぶりだろう。ばつの悪い気持ちで彼女を見ると、とても嬉しそうにしている。
『それって、あたしの歌で泣いちゃったんだよね。えへへ。』
 そう言って、屈託のない笑顔を見せる。よく見れば、とても可愛い顔立ちをしている。右目の下の泣きぼくろがとても似合っていて、どこか大人っぽい印象を受けるが、おそらく俺よりもかなり歳下だろう。なおさら恥ずかしくなってきた。
「や、あの……」
 何とか取り繕おうとしたが、言葉に詰まってしまった。もう泣き顔も見られているのだ。今更格好をつけたところでもはや逆効果だ。
「…うん、良かった……勝手に涙が出てたんだ。」
 素直に負けを認める。彼女はにやりとした。
『ありがと。お兄さん、初めて見るね。この辺の人?』
「ああ。もう長いこと住んでるけど、路上ライブなんて初めて見たよ」
『あたしもここでやるのは今日が初めて。慣れてる場所じゃないとやっぱりドキドキしちゃって…歌声ヘンじゃなかった?』
「ヘンなもんか!めちゃくちゃ良かったよ!」
 思わず声が大きくなって、少し彼女を驚かせてしまった。
「あ…ごめん。」
『…いいの。嬉しいから。』
 また彼女がにやりと笑う。何なんだろう。泣き顔を見られたせいか、もう彼女に逆らえる気がしない。

『…あたし、2年前までこの街で働いてたんだ。今日は何だかここで歌いたくなって、久しぶりに帰ってきたの。』
 そう言って彼女はあたりを見渡す。その表情はどこか憂いを帯びていた。
『少し見ない間に色々変わっちゃってるなぁ…』
「そうかな?ずっと見てるとわからないな」
『………』
 彼女は少し悩み、意を決したような顔つきで俺の方を見た。
『ねえ、俺くん。このあと時間ある?ちょっと付き合って欲しいんだけど』
「…あぁ、いいよ」
 あまりに真剣な顔をする彼女の頼みを俺は断れなかった。どこかほっとした顔をして、彼女は後片付けを始めた。アンプとギターケースを背負い、マイクとスタンド、折りたたみの椅子はキャリーケースへしまう。路上ライブをやるにはこんな荷物が必要なのか。
「何か持つよ。大変だろ?」
『いいよ。慣れてるから。』
「さすがにそうはいかないよ。ホラ」
 そう言って手を伸ばす。
『…じゃあ、甘えちゃおっかな?これ、あたしが持ってるとすぐバレちゃうから。』
 彼女はそう言って背負っていたギターを肩から外し、俺に手渡してくる。ずしりと重さが加わる。意外と重たかった。
(…すぐバレる?誰にだろう?)
 彼女の言った事が少し引っかかったが、何も聞かない事にした。
『じゃあ、行こっか。着いてきて。』
 彼女は歩き始めた。いったいどこへ行くのだろう。斜め前を歩く彼女を横目でちらりと見てはっとした。とてもではないが、少し寄り道をするような顔ではなかった。悲しみや苦しみが混じったような、只ならぬ真剣な顔つきだったのだ。
(あたし、2年前までこの街で働いてたんだ)
 ふと彼女の言った台詞を思い出す。ひょっとしてそういう事なのかもしれない。

 駅を通り抜け、先程路上ライブをしていた方とは反対側まで来た。こちらは住宅街ではなく繁華街。この時間でもたくさんの店が営業しており活気に溢れている。その一角に向かって彼女は歩いていく。
(…こんな所もあったのか)
 俺は内心そう思っていた。長年住んだ街とはいえ、仕事が終われば真っ直ぐ家に帰る日々が続いていた。たまに飲みに行くとしても、駅前の居酒屋で事足りていたのだ。
『………』
 ふと、彼女の歩みが止まった。前方には、一件のお洒落な喫茶店が見える。看板に明かりが灯っていた。【Honey Strap】とある。

「…ここかい?以前働いてたお店」
『…!?』
 彼女は驚いてこちらを振り返った。
『…うん。ハニーストラップっていう夜の喫茶店なの。あたしの知る限り最高のお店。』
 店に背を向けたまま彼女は続ける。
『実はね、あたしは悪魔なのよ。悪魔の女王。』
 そう言って彼女は帽子を脱ぐ。
「…え?何それ…」
 彼女の頭には、明らかに角が生えていた。耳の後ろから左右対称に、美しい弧を描いて。
『ハニーストラップは悪魔の女王が集まった喫茶店。周防パトラ、西園寺メアリ、島村シャルロット、堰代ミコ…』
 少しばつが悪そうに、言う。

 ──あぁ、そうか。
 彼女は袂を分ったのだ。おそらくはやむを得ない事情で。彼女の表情が、それを物語っていた。


「入らないのか?」
『…うん。俺くん…行ってきてくれる?みんなが元気かどうか、見てきて欲しいの。それだけであたしは満足だから。』
「…わかった。」
 彼女は店がぎりぎり見える路地の角に隠れてしまった。俺はそのまま、灯りの方へと足を進める。


「いらっしゃいませ〜!!」
 入店したと同時に、明るい声が響いた。赤色の悪魔が近づいてくる。人懐っこい印象の笑顔が映える。
「お帰りなさい。このお店は初めて?」
 カウンターの裏には紫色の悪魔がドリンクを作っている。お帰りと言われて思わず実家のような安心感を覚えた。
「さぁさ、そこに座って下さいな。メニューはそこにありますよ。」
 青色の悪魔が席を勧めてくれた。屈託のない笑顔で迎えてくれる。その姿を見ているだけで癒されるようだ。
「…注文が決まったら教えてね、人間。」
 奥からそう声がして目をやると、カウンターの端に緑色の悪魔がいた。少し恥ずかしそうにこちらを見ている。
(…なるほど、良いお店だな)
 入店して間もないが、不思議と居心地の良い空間だった。彼女が絶賛するのも納得だ。
「じゃあ、パフェをひとつ」
「おっ!堰代〜!仕事だぞ!」
「よっしゃ〜まかしとけ〜」
 青色の悪魔がそう言って、緑色の悪魔と奥へ消えていった。パフェ作りで彼女に何か重要な役割があるのだろうか。
「お兄さんはお仕事帰り?遅くまでご苦労さま。」
「あ、そうです…ありがとう。」
 紫色の悪魔が労ってくれた。素晴らしい母性だ。思わずリラックスしてしまう。
「今日はどうしてハニストに来てくれたの?」
 赤色の悪魔が何気なく聞いてきた。
「知り合いに聞いてね。最高のお店だから一度行った方がいいって。」
「やった〜!嬉しいね!どうかな?」
「気に入ったよ。雰囲気も良いし、店員さんは可愛いしね。」
「あら、お上手ね。サービスしちゃおっかな?」
 赤色と紫色の悪魔が喜んでくれた。すると、カウンターの奥から青色の悪魔がパフェを持って出てくる。その後ろに緑色の悪魔が続く。何やら神妙な面持ちだ。
「ハニーパフェです〜。さぁ堰代!仕上げだ!」
 パフェをテーブルに置くと、青色の悪魔は後ろに下がる。緑色の悪魔が近づく。手にはさくらんぼを持っていた。
「…おいしくなぁれ」
 少し恥ずかしそうに、緑色の悪魔がそっとパフェの上にさくらんぼを乗せた。にっと笑顔になる。何だこれ。めちゃくちゃ可愛いぞ。
「ありがとう。いただきます。」
 パフェを一口頬張る。…うん、味は普通に美味しい。
「ここの皆は悪魔なんだって?しかも女王様らしいじゃないか。」
「おっ、お兄さん詳しいねぇ。そうなのよ!人間界に来てもう4年目になるわね。」
「悪魔がいた事にも驚いたけど…もうそんな長いことやってるんだね。」
 彼女たちには尻尾が生えており、その先端はそれぞれ形が違っていた。店内を見回すと、壁にシンボルマークのようなものが飾ってある。トランプのハート、スペード、クラブ、ジョーカー。それぞれの尻尾の形と同じもの。そしてもう一つ、ダイヤ。
「もう一人、いたんだね。」
「……よくわかったね、お兄さん。」
「…エリちゃんっていうの。蒼月エリ。ぼくの誇りだよ。」
 緑色の悪魔がそう言った。先程までとは違う真剣な表情にどきりとした。
「すごい歌が上手い子でね。あたしたちもつられていっぱい歌ったんだ。おかけで上手になったんだよ!」
「パトラは自分で曲も作れるしね〜」
「そうそう!あの子に作った曲もあるの!」
 赤色の悪魔がそう言って、何やら端末を操作する。店内のBGMが切り替わる。

「…!!」
 ギターをかき鳴らし、アップテンポな曲が流れ始める。すぐに気が付いた。さっきまで路上で聴いていた、彼女が歌っていたあの曲だった。
「はじめて仲間に作った曲なの」
 赤色の悪魔がどこか懐かしそうにそう言った。
「……人間?泣いてるの?」
 感情が抑えきれなかった。心配する彼女たちになんでもないと言ってごまかしたが、店を出るまで心配された。悪い事をした。

 4人の悪魔たちに見送られ、路地を歩く。少し進んだところに彼女が立っていた。
「…お待たせ。」
『どうだった?』
「みんないい子ばっかりだね。みんな元気だよ。」
『…そっか。よかったあ。』
 緊張が解れたのか、ほっとした表情を浮かべた。
「君の話もしてくれたよ。蒼月エリちゃん。」
『えっ…!?』
 今度は一変し、顔が真っ赤になる。
「緑色の子が言ってたよ。ぼくの誇りだって。」
『………!!』
 そう聞いた彼女は思わず顔を手で覆う。彼女の目に光が見える。
『…ミコちゃん…みんな……』
「…本当に、行かなくていいのか?」
『……うん。もう決めた事だから。』
 涙を拭い、彼女は俺を見つめた。力強い意志を感じる。
『あたしはね、自由に歌を歌いたいの。それが叶わないなら、あたしの生きてる意味が無くなっちゃう。それほど大きなことなの。たまに寂しくなっちゃうけど…』
「だからこの街に?」
『うん。色々不安な事があって、どうしようもなくなったら、ここに戻ってきたくなっちゃうの。でも絶対お店が見える所まで来れなかった…』
「それで俺を誘ったんだね。」
『そう。あたしの歌を最後まで聴いてくれて、涙まで流してくれた。俺くんなら、あたしのお願いを聞いてくれるかなって。』
「涙は忘れてくれ…」
 そう言って頭をかくと、彼女は嬉しそうに笑った。
『ありがとう、俺くん。元気出た!よ〜し!頑張るぞ〜!!』
 彼女はぐっと背伸びをして振り返った。用事は済んだのだ。俺もギターケースを担いで彼女を追いかけようとした。その時、ふと後ろに気配を感じた。

「…エリちゃん?」
『!!!』
 緑色の悪魔が、そこにいた。
『…ミコちゃん……』
「ごめんね、人間。尾行したの」
 なんと。俺のあの涙に疑問を持ったのだろう。何と勘のいい悪魔なんだ。
「…久しぶりだね。元気してた?」
『うん。ミコちゃんも、変わらないね』
「そりゃそうだよ。ぼくは悪魔だもん」
『あたしもだよ?』
「ふふっ」
『あはは』
 他愛のない会話も、どこかぎこちない。

『ミコちゃん…あたし、歌ってるよ』
「うん。人間がさ、蒼い蝶聴いただけで泣いちゃってさ。ぼくすぐにわかったよ。人間の知り合いってエリちゃんなんだって」
 ぱっと彼女が俺の方をみる。ばつが悪い俺は目を逸らした。どうやら少し怒っているようだ。
『もう、俺くんったら…泣き虫だなあ』
 どこか呆れた声でそう言った。ぐうの音も出ない。
「でもね、ぼく安心したんだ。エリちゃんの歌でこんなに感動してくれる人間がまだいるんだって。それってさ、エリちゃんがまだちゃんと頑張ってる証拠だもんね」
『…ありがとう。まだまだ頑張るよ、あたし。頑張るから。』
「うん。ずっと、ずーっと応援してるからね。ぼくだけあの日は言えなかったからさ…」
 緑色の悪魔はそう言って、眼帯に手をかける。
『ミ、ミコちゃん!?それは──』
「ごめんね、エリちゃん、人間」
 そして、眼帯を外した。


「……あれ?俺、何してたんだっけ…」
 最寄り駅の裏側のとある路地に、ぼーっと立っている自分に気づいた。目の前には、先程まで路上ライブをしていた彼女が、同じようにぽかんとした表情で佇んでいた。
『あれ、俺くん…?あたしたち、何してたんだっけ?』
「…うーん…思い出せない。」
 頭の中にもやがかかっている感じだ。さっきまで何か大事なことを話していたような…。誰と?思い出せない。
『ま、いっか。何か知らないけどスッキリした感じだし。今日はありがとね、俺くん。』
「あ、ああ…こちらこそ、ありがとう。」
 ギターケースを彼女に返す。どうやら電車で帰るようだ。駅の改札を通る彼女を見送る。
『また近いうちにここで路上ライブやるからさ!ちゃんと見つけてね!』
「わかった!」
 大きく彼女に手を振る。階段をのぼり彼女が見えなくなり、俺も帰路についた。

「…あれ?ミコ、どこ行ってたの?」
「……ふふ。内緒。」
「なーんかいい事あったのぉ?にやにやしちゃって〜。」
「何だよ〜!教えろよ〜!」
 緑色の悪魔がにやりと笑った。

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