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ガクヅケという芸人さんが、パンドラの箱を開けてくれた話

学生時代、お笑いも好きだったけど音楽はもっと好きだった。
GO!GO!7188のアッコに憧れて、軽音楽部に入って赤いベースを弾いていた。

GO!GO!7188以外にも、
チャットモンチー
斉藤和義
東京事変
POLYSICS
フラワーカンパニーズ
銀杏BOYZ(GOING STEADY)
YUKI
ミドリ
相対性理論 …など色んなアーティストのライブや音楽フェスに行っていたが、中でもフジファブリックがめちゃくちゃ好きだった。

私の中で、別格だった。

フロントマンの志村正彦はお世辞にも歌が上手いとはいえないけど、何ともクセになる声だった。

フジファブリックのほとんどの曲は彼が作詞作曲していたが、ちょっと面白いポップな曲からしっとり切ないバラードまで振り幅が広く、聴けば聴くほど新しい発見がある。
MVもめちゃくちゃユニークで面白い。

「ダンス2000のイントロのベースラインがカッコ良すぎる」とか
「TAIFUの『虹色、赤色、黒色、白!』のとこのキーボード、1番と2番で違うの気づいた!?!?」とか
「B.O.I.Pってどういう意味かな!?」とか
毎日部室でそんな話をしていた。

そして歌詞には、とても繊細で、でも少し狂気的な彼の性格が表れていた。

私は、フジファブリックを知った後に開催された東京でのライブは、ほぼ全てと言っていいほど足を運んだ。

その時期ごとに楽曲の色彩も変わり、新作が発表されるのが楽しみで仕方なかった。
私がライブに行き出した頃の志村は、ただ朴訥とした姿でギターを弾き歌を歌っていたが、
徐々に観客からの「志村ー!」という呼びかけに「呼び捨てにするなよ〜多分俺の方が年上〜」と答えたり、
観客を煽ったり、
MCで冗談を言ったりするようになった。

そんな彼を、
ギターのそうくん、
ベースの加藤さん、
キーボードのだいちゃんがあたたかく見守っていた。

その4人の姿がとても好きだった。

5年後も、
10年後も、
そんなフジファブリックを見られると思っていた。


それなのに、2009年12月24日、志村は突然この世を去った。
29歳だった。

私はその数日後のカウントダウンジャパンでフジファブリックを見るのを、とても楽しみにしていた。
結果として志村の生前最後となってしまったツアーの東京公演は、旅行と日程が重なってしまい見送ったからだ。

久しぶりにフジファブリックが見られる〜!とわくわくして冬休みを過ごしていた私は、本当に目の前が真っ暗になった。

解散だったら、再結成してまた観られる可能性はゼロじゃない。
でも死んじゃったら、また観られる可能性はゼロじゃん。

ほぼ全ての東京公演には行っていたのに、何であの日に限って見送ったんだろう。
旅行なんて行かなきゃよかった。
悔やんでも悔やみきれない、とはこういうことかと思った。

バイトも休んで、
彼氏とのデートもドタキャンして、
ろくに食事もできず、
私はただただ布団を被って泣いていた。
そんな風に過ごしていたら、いつの間にかカウントダウンジャパンの当日になっていた。

フジファブリックは予定通りのステージでいつものバンドのセットを組み、過去の映像を流すという対応がされた。
立てかけられたギターには、よく志村がかぶっていたハットが引っ掛けられていた。

彼はもうこの世にはいないという現実を、痛いほど突きつけられた。
私は過去のツアーの物販で買ったタオルで涙を拭きながら、モニターに映るフジファブリックをぼんやりと観ることしかできなかった。

翌年の夏に富士急ハイランドで行われた、たくさんのアーティストがフジファブリックのカバーを披露する「FUJI FUJI FUJIQ」というイベントにも行ったものの、やっぱりこの悲しみを昇華できなかった。

それから、フジファブリックの曲を聴けなくなってしまった。

私は口が裂けても繊細なんて言えない性格で、むしろ鈍感ゆえに誰かを傷つけてしまっていないか心配になることもある。
上司に怒られたって、会社を出れば全部忘れてしまう。

だけどフジファブリックだけはダメだった。
どうしても、どうしても、ダメだった。

29歳の一年は、「志村の歳に並んじゃったな」と思いながら過ごした。
30歳になったら、「志村を追い越しちゃったな」と思った。

志村が亡くなってから10年経っても、私はまだフジファブリックを聴けなかった。


2021年6月、久しぶりに高円寺を訪れた。
朝から夜までお笑いライブをやる、というお笑いフェスのようなイベントに行くためだった。
高円寺は、山梨から上京した志村が過ごした街で、フジファブリックの代表曲のうちのひとつである「茜色の夕日」のCDジャケットには高円寺陸橋の写真が使われている。

高円寺駅に降りた時、やっぱり少し心がざわざわした。

そのイベントの朝一番のライブで、「ガクヅケ」という芸人さんを知った。
声はほぼ発さず音楽を使った独特のコントで、めちゃくちゃ面白かった。

「ハマってしまうかもしれない」と思った。

それからYouTubeでガクヅケのコントをいくつか観た。
やっぱり面白かった。

「ハマってしまうかもしれない」と思った。


2021年9月、ガクヅケのソロライブを観に行った。
ガクヅケ単独のライブは初めてで、とても楽しみだった。

1本目から、マスクの下が酸欠になるくらい笑った。
やっぱりめちゃくちゃ面白かった。
途中、音響のミスがありながらも、それも逆手にとって観客を笑わせていた。

「ハマってしまった」と思った。

ネタとネタの合間には「僕達、幕間の映像とか作ってなくて~サボっちゃいました」など笑顔で気さくに話しながら舞台上で衣装を着替えていて、そんなふたりのキャラクターにも癒された。

「ハマってしまった」と思った。

あー本当に来てよかったなあ、
これからもっとガクヅケを見に行こう!なんて思いながらニコニコしていたら、
あっという間に最後のネタになった。

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ

ネタが始まると、フジファブリックの「陽炎」が流れてきた。

鳥肌が立って、背筋が震えた。

どうしよう、
志村の声がする、
泣いてしまうかもしれない、
どうしよう、
いっそのこと会場を出てしまおうか、
どうしよう、
どうしよう!

パニック寸前だった。

でも、陽炎に乗せた二人のコントを見ていたら、そんな気持ちはどっかへ消えていった。

とにかく面白かった。
気づいたら大爆笑していた。

ガクヅケのコントの楽しさが、私が10年抱え続けた悲しみや苦しみを、数十秒の間に軽く飛び越えていった。
あんなに、あんなに、苦しかったのに。

最後のネタが終わったあとのガクヅケ

ライブが終わった後の舞台の上はめちゃくちゃで、それを見てまた笑ってしまった。

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ふたりがはけた後の舞台。
めちゃくちゃになった小道具が散乱してた


ライブ会場から駅までの帰り道で、はっとした。

あの街並 思い出したときに何故だか浮かんだ
英雄気取った路地裏の僕がぼんやり見えたよ

気がついたら、歩きながら「陽炎」を口ずさんでいた。
フジファブリックの歌を口ずさんだのは、きっとあの日以来、10年以上ぶりだったと思う。

もう死ぬまでフジファブリックを聴けない気がしたけど、何だか今なら聴ける気がして、「陽炎」が収録されているアルバム「フジファブリック」をApple Musicで聴いてみた。

あの頃と同じ「桜の季節」が流れた。
当たり前だけど、あの頃と同じだった。

約11年ぶりに聴いたフジファブリックは、やっぱり心に刺さるものがあった。

その翌月のライブでも、ガクヅケはフジファブリックの曲を使ったコントをしていた。
前回とは違って、イントロが聴こえた時にはわくわくが止まらなかった。

「この曲で、どんなコントをするんだろう!?」

そしてやっぱり、めちゃくちゃ面白くて涙が出るほど笑った。

ガクヅケのおかげで、私はまたフジファブリックの曲を楽しめるようになった。

どうせ読めないくせに、
どうせ観られないくせに、
でも実家に置いておく気にもなれず、
引越しの度にちゃんと新居に持ってきて、
クローゼットに仕舞い込んでいたフジファブリックの本やDVDも、少しずつ見返してみようと思う。

右下の詩集は没後10年を機に発売されたもので、
買ったもののまだ1ページも開けてなかった


私はもう同じ後悔はしたくないから、明日もガクヅケを観に劇場へ行きます。

(もちろんガクヅケのおふたりは元気で長生きしてください!)

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