22.7.29の読書

エリック・ホッファー著、中本義彦訳『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』作品社、2003年
p.176-巻末

7月中に読み終えたかった本で、2日ほどの余裕を持って読了。終わったら終わったでほんの少しさびしさもあるものだ。

われわれは、おそらく生まれながらに目的に対して恐れを抱いている。われわれは目的の達成よりも、つねにその途上にあることを好む。手段を与えられると、それにしがみつき、しばしば目的を忘れてしまう。

(p.180)

目的を達成し続けても、誰でも、最終的に迎えるものは死だからだろうか。ずっと読み続けていたかったという気持ちは、次の本を手にすることで抑え込まれ、また途上へと戻る。ただそのわずかな隙間にこの日記を書いている。

自分自身との対話をやめるとき、終わりが訪れる。それは純粋な思考の終わりであり、最終的な孤独の始まりである。注目すべきは、自己内対話の放棄がまわりの世界への関心にも終止符を打つということだ。われわれは、自分自身に報告しなければならないときだけ、世界を観察し考察するようである。

(p.191)

そして現代ではこの「自分自身」を「SNS」に置き換えても成立する人たちが多いのかもしれない。"われわれは、Twitterに報告しなければならないときだけ、世界を観察し考察するようである"。それだけ自分というものがネットワークにしばられているし、逆に言えばSNSは自分自身の一部として存在する。

たとえどんな業績があろうと、われわれが自分自身をよく思うことはめったにない。われわれは、自分の欠点と罪を記録しつづける心の裁判官に対して、証言してくれる人びとを必要とする。自分で思っているほど自分が悪い存在ではないということを確信させてくれる人びとを必要としているのだ。

(p.189)

これをフォロワーの話をしていると思ってもよいのだが、SNSどころかパソコンすらなかったころにも人の心の動きはさして変わらないという証拠にもなっている。だからといってSNSを正当化するというわけでもない。なくても済む人たちだってたくさんいる。やってもやらなくてもいいものをやっているというだけだろう。

人間の創作力や洞察のひらめきは必要に迫られているときにではなく、不必要なものや贅沢なものに手を出すときに訪れる。遊びは労働よりも古く、芸術は実用品の製作よりも古い。人間は必要に迫られてしたことよりも、むしろ遊びながらしたことによって形作られた。

(p.204)

結果として、そのようなもののひとつになればよい。


『kiitos.』Vol.24、三栄書房、2022年
p.100-巻末

YASIORIというフレグランス付きの除菌スプレーが気になった。エタノールが強いと指が痛んでくるような気がするんだけど、乾燥させないようにすれば使ってみても大丈夫だろうか。


『ダ・ヴィンチ』2022年8月号、KADOKAWA
p.174-巻末

「ビールの美味しくなる季節! 飲みたくなる本」の記事を見るだけでビールが飲みたくなる。いまは体にできているにきびが気になって控えているところ。最近ヤッホーブルーイングが低アルコールのクラフトビールを出すと聞いて、そういうのならいいかなと思っている。ピザか寿司か。いたずらかお菓子か。


池辺葵『ブランチライン』4、祥伝社、2022年
巻頭-p.142

うれしい

宝ものって言われた

(p.37-38)

うれしいね、山田君。

あと、キミちゃんがかわいかった(だいたいの人たちがかわいいのだが)。


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