ミ來週報7/16-7/22

5月から引越し先候補にしていた部屋がやっと見られるようになったので内見に行き、まぁ大丈夫そうだったからそのまま申し込んだ。暑くなる前にと思っていたのに結局引越しは8月になるのが予定外だけど、それ以外はおおむね希望通りにできたかなとは思う。今回は契約前に書類を送ってくれるスタイルで自宅で落ち着いて内容を確認できるのがよい。担当の方も細かく連絡を入れてくれるなど、多分いままでで一番しっかりしていて助かる。

このまえ読み終わったねむらない樹2号のうしろの方に、小学校で短歌の授業をしたという染野さんの記事があって、読んで色々思うことがあった。といっても別に記事や授業を否定したいわけじゃなく、自分の嗜好を改めて自覚したということ。

まず、"どんな短歌もきっと、一人ひとりが一生懸命に作ったのは確かだと思うから、読者としてみんなも、一生懸命大切に読めたらいいよね"と子どもたちに話すというのがあるんだけど、短歌って何の努力もなしに数分でできることもあれば数時間かけてやっと形になることもあるよなあというのが自分の実感で、しかも作品の出来はかけた時間に比例するわけではない。がんばっても必ずしも報われるわけではない。これは短歌というよりアート全般に言えることだと思う。才能にもよるだろうけど、がんばっても報われないことの方が圧倒的に多いのがアートで、よいと思えない作品を「でも努力しているから」という基準で評価を上げたりはできないのでは? と思ってしまう。作者がどんな態度で作っているかはあんまり関係なく作品自体を見たいし、適当に読んでもよいものはよい、というのが自分の好み。

そのあと記事内の授業では例として挙げられたいくつかの作品を細かく読み解いていく。短詩の限られた情報を元にして具体的な(一番もっともらしい)情景をあぶり出すことになる。推理小説の探偵みたいでこれはこれで面白さがあるんだけど、自分にはそこまでこの作業に興味がない。ぼくが好きなのは短詩を読んだとき想起されたイメージが素晴らしいものだったときの体感で、そのイメージは自分の中にしかないけど、自分にとってはそれが作品に関して最重要なものになる。でもイメージは「一番もっともらしい」解釈ではない可能性がある。その場合、コナンくんが一つの真実に近付こうとする過程では捨て去られてしまう。そうするとその作品はイメージを失うがために素晴らしく感じられなくなってしまうかもしれない。それがなんだかもどかしい。あるいは自分がコナンくんになると、他の人のイメージを捨てさせることにもなる。それもどうも性に合わない。解釈は別に正解ではないし正義でもない。一番もっともらしい情景より、各々の素晴らしいイメージのほうが大切な気がしてしまう。

そんな感じで自分は作品の解釈を周りの人とぶつけ合うことにあまり価値を見い出せないからそういう会にも行きたいと思わないのかなあとは思う。友だちがほしくないわけではない。ただ、どうせ書くときは一人だし、という気持ちはあったりする。


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先生は教師というよりチューバーで「はい、というわけでね」の演習


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