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〈総体としての美〉


あるとても祝福された日の話。

その日はとっても気持ちよく晴れて、心許せる友の特別な日に、桜の下でお腹と心を心底満たしました。ピクニックとはこんなにも美味しいものか、と人生で初めてピクニックに来た人のようでした。

花びら舞う風と共に音を奏でて楽しく過ごしたあとは、デザートのような静かなひと時を、川辺のような海辺で過ごしました。

その時間に、ふと左を見上げると木があって、枝が暗くなる前の空に映えてとてもきれいでした。

僕は美しいや愛おしいを写真に収める時、何にそれを感じたのか特定する事で、よりそれが伝わる写真になる気がして、結果アップになります笑
(というか自分が何に反応していたのかをハッキリさせるのが楽しいのです)

でもその時出会った美は、その対象をいつものように特定出来ず、特定しようとすると美が逃げる感じでした。

そこでもう一度、美を感じていた距離というのか見方、というのか、美に意識を戻そうとすると、やはりそこに美はあったので、じゃあその時僕は何を見ているのか、と問うてみた時、

その木の全体というのかな、
雰囲気というのか、
総体を見ていることに気が付きました。

考えたらよくありそうな話ですが、
そうか、美というのはこういう在り方、宿り方とするんだなあ、と体験的に学んだ瞬間でした。

そして、その気付きが訪れた瞬間、目の前の川のような海で、魚がこれでもかってくらい跳ねまくって、なんていうか、ちょっと邪魔でした笑

まあ、一緒に美を喜んだり、気付きを讃えてくれたのかな。間違いなくあの時僕は美のそばにいましたし。

そんなデザートも込みのとてもとても素敵な1日が、僕の人生にもありました。

自分が自分のそばで生きることによる祝福をご馳走様でした

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