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QUANTA年間リトリート3期 卒業!!

2023年8月~2024年7月で参加していた年間リトリート。通称:年リト。
無事に完走いたしました。

最初に大きな課題と1年間のエネルギー予報を啓示してくださったyujiさん
毎月一緒に伴走してくださったMOTOKOさん、SAYAKAさん
1年間の気付きを共有してくださった3期の皆さん
神宮前の安全安心のフィールドを整えてくださったQUANTAの皆さん
本当にありがとうございました。

3か月ごとに振り返りでも毎回言ってますが1年あっという間だったなという感覚。そして、私の中の何かが劇的に爆発したわけでもなく、容姿が大きく変わったわけでもないのですが、手放せた何かは確実にありました。

私の中で、これまでの自分から何か変えたい、変わりたい、という想いが年リト参加を推し進めたわけですが、何か変わりたい と 何かになりたい とは違うと思うんですね。

スタート当初の私は、何かになりたいという明確なビジョンはありませんでした。ただ、何か変わる・変わりたいタイミングなのであろうということは感覚でわかっていたし、どうなるのかはわからないけど、動かないよりは動いてみたら見えてくる世界はあるだろうというところからはじまりました。

『変容』というのは、芋虫がただ成長して大きくなるのではなく、さなぎに形を変え、蝶として美しく飛び立つこと。

自分が1年後どうなっているのか、どうなっていたいのか。まずはそこをみるところからでした。

”いろんなとこから吹き矢が飛んでくる”

とは聞いてましたが笑、他の人の気づきのシェアなのに「同じやん」「そうそうそう!」が飛び交う時間。そして私が何気なくシェアしてたことが、他の人にも刺さってた。

本当にそんなことの繰り返し。ひとりでただ悶々と考えてても、それは自分の知り得る経験や知識の中からでしか答えはでなくて、なんなら答えなんてでてきやしない。

ぐるぐると永遠と堂々巡りしてしまうだけ。そんなことをするために1年費やすのか?と何度も何度も何度も初心に立ち返った日々でした。

安心だから、安全だから、自分をどのフィールドに置くのかが本当に大事だなと感じます。

いきなりスピードダッシュする人もいるし、行ったり来たりしてる人もいるし、あんな風に解放したいなとか、あんな風に変化してうらやましいなとか
まだ周りに振り回されている自分がいました。

よそはよそ。うちはうち。
とよく言われますが、実際はそうも簡単にはいかず。長年周りを気にして生きてきたわけですから、どうやったって気になってしまうもの。

そういうことからの脱却だったり、本来の自分を取り戻すためにどうする?の時間。行ったり来たりの繰り返し、ちょっと諦めたり、ちょっとすねたり、ちょっと進んで嬉しかったり、またちょっと後退したり。

この成長?はたぶん自分だけでは辿り着かない。
日々の気づきは結構あるものです。だからこっちの道に(どっちの道?)に進んできているわけなので、気づきが全くないっていう場合は、おそらく年リトに参加すらしていない。

ただ、気づいていたとしても、それをどうしたらいいかの術がわからなかった。手放すってどういうこと?そもそも何を私は大事に抱えていたの?それをちょっぴり教えてもらうだけでも、進み方がまったく違う。

でも、答えはくれない。
ここ大事。本当そう、答えはくれないの。
欲しがりさんって多いですよね。私も含めて。

答えは自分の中にあるものだから。それはよくわかってるけど、欲しがりさんなのでどうしても、答えがほしいし、すぐ答え合わせがしたくなる。ここからも脱却が必要でした。

半分諦めも必要というか。。。自分と向き合う、自分を観察する、もう本当にそれしかないのです。
ただ、これって自分ひとりでは限界があるし、自分ひとりではこれまで生きてきた範囲の中からでしか答えはでてこないし、だから悶々とする。

そこで、ただそこに安心のフィールドがあって、そこに委ねるだけ。何かを得なくちゃ、何かを持って帰らなくちゃ、というような躍起になるのではなく、ただ委ねる。それだけでいい。

ということが、だんだんと体感できてくると思います。年リトはまさにそれを教えてくれるそんな場所でした。

とはいえ、、、、
なかなか変化が感じられなかったら焦りもするし、過去にまた戻ったり、手放したものをまた探してしまったり、もう行ったり来たりした1年。

せっかく生きているならば、自分の使命を探したい。何をすればいいのかを見つけたくて彷徨っているここ数年。だけど、これって探すものではないようだと最近知る。

もちろん、星にしてもエネルギーにしても、自分の向かうべく方向はあるのはわかっているけれど、それに無理やり合わせにいくんだと躍起になるのではなく、そればかりだとそれは執着でしかないわけで。

あくまでもアドバイスを参考にしながら自分の内側を見ていく。
そうすれば、自ずと見えてくる。。。はず。。

じゃあ何をすればいいのか。ってところで辿り着いたのが年リト卒業と同時にやってきた「瞑想」。
ただ、ここでも私は誤った認識を持ってました。ただ、目を瞑って何も考えないことが「瞑想」ではありませんでした笑

ちゃんとプロセスがあって、そのプロセスが自分が心地よいかどうかも必要で、誰に伴走してもらうのか、そこに安心があるのか。

なんでもやってみて、あ、違ったと気づくには動いていないとわからない。知識だけでは頭でっかちになる。自分にマッチした方法で、体感ができるまで続ける。

筋トレだそうです、瞑想って。

年リトの1年間で得られたことは、自分の鎧を脱げたこと。そしてそれが着脱可能でいいということ。鎧は決して悪ではなかったということ。

脱ぎ捨てる必要はない。鎧はクローゼットに飾っておけばいい。必要な時に”経験”としてまた羽織ってもいい。これを聞いてちょっと安心しました。

だって、40年以上自分がデフォルトと思って、愛着をもってきていた鎧ですからね。今更嫌いにはなれません笑

鎧を着てても、着ていなくても、私はワタシなのです。
それを知っているかどうか、気づいているかどうか。そこが大事なことなんだと。

何も生んでなかった、卑屈癖強族なワタシ
なんでもできる人っていうのは、
自己満足で誰得でもない。
要は、器用でもなんでもない。
周りからよく思われたいだけ。
努力して器用貧乏をやってただけ。
自分の安全のためだけにやってた。
そこにすごいエネルギーを出してた。

卑屈だなんてこれまでの人生で考えたこともなかったけど、言われてみたらなぜか納得してしまう。

自分自身が好きなこと興味があることが一緒の人とだけ繋がっていける
そういう自分が最強。
でも趣味趣向が変われば、その関係性はまた崩れる。
ひとつの同じテーマがあるから仲良くなれるけど、しょうもない雑談はできない。
効率よくするって考えなくてよい。

ただ気づけばいい
意図すれば潜在意識で動いていく

そう!!意図を持つこと

何気なくやっていた、息するようにやってきたこと
それを観察して、改めて意図をもって動いてみる。
そうすれば、自然と自分の使命なんてものは内から出てくる。
と信じて、無事卒業を迎えました。

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外に意識を向けていて
外に答えを求めていて
だけど
外から得られるものは
本物ではないのだと

ということであらたな気づきに繋がるMOTOKOさんの対談↓

こちらのアーカイブを見て、2日後に開催される東京での瞑想の学びの時間にスライディングジョインして知ったEKAMの教え

新しく瞑想への学びと体験が始まりました。

京都リトリートに参加してから早2年
そして年リト3期の1年間
現在の私からまた1年後どのような変化を迎えることができるのか

さなぎから蝶に変わることを夢見て、意図をもって過ごしていきたいと思います。

関わってくださった皆さん 
本当にありがとうございました

そしてこれからもどうぞよろしくお願いします。

さらになんとYouTubeでお話しさせていただく機会のギフトが!!!感動と感謝で胸いっぱいです。

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