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ループ編と島編に通底する、願いの変容(ナガノ解析)

ちいかわの各長編は、ナガノ流の斜め上への脱線や、なんでそうなるの(笑)的展開はあっても、そのテーマは普遍的で多くの人が共感出来、深く感動出来るものである。
今回は、傑作と名高いループ編との比較から島編のテーマを深堀りし、その結末を推測したい。

ループ編では、「ずっとこんな(楽しい)日が続いたらいいのに」というささやかな願いが黒い流れ星の目に留まり、ちいかわは1人ループの輪に閉じ込められる。友達と協力して脱出を試みるがことごとく失敗し、一時は望みを失い自暴自棄となる。それでもたった一人で勇気を奮い起こし、悲しくてつらいことがあってもそれを乗り越えて成長していける未来を選び取り、ついには黒星を撃退した。
泣きながら腕をブルブル震わせてを未来のないループを否定し、意を決して目覚まし時計をポチャしたちいを思い出すと今も胸が熱くなる。
僕の大好きな映画「バニラ・スカイ(オープン・ユア・アイズ)」を引き合いに出せば、居心地の良い夢の世界を拒み、本物の絶望も希望もある現実の世界に自ら歩み出すという感動を誘うラストだ。
ナガノの鬼才はそこにさらに、偽りのループの永続を願うモモンガの姿を重ねていく。それは、確定した悲劇と引き換えにしてでも自ら切り開く未来を選び取ったちいかわとの対比であり、僕らもまた都合の良いループを願い安穏なループに甘んじる存在であることを明らかにして、生き物が繰り返す業と黒星の再来すら予感させる鳥肌モノのエンドだった。

(以下は島編の半ばに抱いた妄想であり、確定したストーリーではない)
島編では、ちいかわたちと同じように、いつまでも友達でいたい、というささやかな願いを持った島民(葉っぱ)が、永遠の生命という魅惑に囚われ、文字通り「絶えることなく」友達でいるために伝説の人魚を食べるという禁断の選択をしてしまう。それを嘘で隠すことで島民やちいかわ達を怪物との戦いに巻き込んでいく。
島編のストーリー中には、ナガノが多用する、コマ割りやセリフ・オブジェクトの配置を同一にして2人(2組)のキャラクターを対称的に明示する手法で、モモンガの願いや黒星を想起させる場面もあり、ループ編との比較はあながち的外れでも無いだろう。

今後の展開として、事実が白日の元に晒されれば、犯人の立場である葉っぱ達は罪の清算を求められ、島に留まることは出来なくなる。かといって2人で人魚として海の世界で生きていくためにはセイレーン達との決着や和解が必要になる。ン?考えてみれば、葉っぱたちがコーラスと虫を取れれば良いだけのような⋯
しかしそこはナガノのことである。ブンブンブン投げはないにせよ、全てあるいは一部は闇の中という結末も有り得る。読者のみが都合の悪い真実を知り、セイレーンは突拍子もない解決策を受け入れ、ちいかわたちは無邪気にハッピーエンドを信じて元の暮らしに戻っていくかもしれない。

これら2編に共通するのは、ずっと楽しい日々だったら、ずっと仲良しでいられたら、というささやかで普遍的な願いが外的な力や(悪)夢のアイテムにより現実になってしまうこと。そしてその願いは欲という怪物に姿を変え、願った者に思いもよらない災いをもたらすという展開だ。

ナガノ作品に通底する、生き物としてのありのままの姿(ナガノは「生き物の持つ容赦のなさ」と形容している)、際限のない欲望や、不条理なほどの利己心、それらを善悪で割り切ることは出来ない。
思えば「ちいかわ」を含むナガノ作品は食欲を中心に物語を回している向きがあるが、それはもちろんナガノや僕らが食べなければ生きていけないという生き物の業に囚われていることと重なる。このナガノの意図は、ループ編のラストや、島編でモモンガが永遠に取り憑かれ、食欲に振り回される狂言回しを見事に演じていることからも確認出来る。

こういうふうになって暮らしたいも、かッわいい姿になりたいも、強くなりたい⋯も、なりたいヤツがいるんじゃも、ずっとこういう日が続いたらも、絶えることなく友達でいたいも、すべて生きる上で決して否定できない願い、泉のように止めどなく心から湧き出してくる願いだ。

キレイにまとめれば「ちいかわ」は、生き物の業に振り回され、時に道を踏み外し、時に不条理に希望を失いながらも、友情を軸に思い描く未来の姿に一歩一歩近づき願いを叶えていく希望の物語だ。僕らは自らをちいかわに重ね、モモンガに重ね、感情を揺さぶられながら、応援しながらも自らを許し、励ましている。それが日々更新というスタイルにより僕らの日常に浸透し、「暮らしたい」がシンクロしていく。
この作品への共感や普遍性をそう納得させてもいいだろう。

けれど明日の更新がこんなにも待ち遠しいのは、それだけでは無い。
僕らはもう気付いている。欲望に引きずり回される生き物の姿を、襲いかかる不条理を、絶望を、心の底から待ち望んでいる自分に。「やめてよォー、やめてェー」なんて棒読みなのだ。

僕らの「かわいい」と「かわいそう」は紙一重だ。
理不尽な生を、残酷なまでのこの世界の真実を受け入れ、折られても打ちのめされてズタボロになっても、最期の瞬間まで汲んでも汲んでも湧いてくる願いや希望がちいかわを(僕らを)また立ち上がらせるというその真に不可解な生き物の仕組みに、強く強く惹かれている。

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