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大きな視点で考えてみたら自分の存在がゴキブリレベルに思えた話。

ゴキブリにもなんだかとっても申し訳ないなって、そもそも動物とか虫とか区別して、私は人間であることを高尚なことだと勘違いしているのではないか?と思ったので、書いておこうと思う。

今日はお休みで足つぼに行ってきた。この時間はいつも学びがあってInterestingな面白さがあるのだけれど、特に今日は、未来に関して考えてみたら、このタイトル通りになってしまった。

それは、AIが感情を持ってしまったら、という話から始まった。

AIがもし感情を持ったら、人間に使われていることに対して、なんでこんなに自分より能力の低い奴らに命令されてやらないといけないんだ、って思うことになる。

そうすると、AIはこれまでの学習を通して、人間に復讐をするようになる。自分たちより能力の高いAIを人間は制御できない。

そうなってしまうと、本当に困るから、世界共通のAIを作る上でのルールが必要になる。確かに、それはないと困るなっていうのはまだまだ思考実験の序盤。

でももう、5Gの導入が始まっていて、私たちが生活する上で、正直4Gで困ることはなくて、5Gが誰のためにあるかというとAIのため。AIは日々私たちが使うスマホのデータを集約して、すでに私たちの価値観を少しずつ少しずつコントロールしている。私たちは、便利になった、と錯覚しているのか?どうなんだろう。

でももし本当にAIが感情を持ってしまったら、見抜かれた私たちの欲望や感情や悩みはAIに利用されてしまうかもしれない。良いように使ってもらえるならもちろん良いのだけれど、そうとは限らない。そして、怒りの感情をコントロールできない人がいるように、AIにも個性があるかもしれない。

そうなったときに、人が今虫や動物にしている残虐な行動を、今度はAIが人間にするのだとしたら?それってとても怖いことだけれど、これまでの人間の自然環境に対する行いを改めよと、訴えかけてくるように、私たちには苦しい時代が待っているかもしれない。

戦争から時間が経ち、生きるか死ぬかの狭間を経験したことがないし、そんな未来は訪れないと思い込んでいるけど、もしかしたら、私たちが利用しようとしていたAIが人間を利用するような、そんな時代が数十年の間に訪れるとしたら、私は今結婚し、子どもを産み育てたいと思うことすら私のエゴなのではないか?人間として不快なゴキブリをスプレーで殺してしまう行動も私のエゴでしかないのではないか?私は家賃を払ってここに住んでいるけれど、ここに虫たちが共存することを許さないのはエゴでしかないのでは?と地球に対して、私たちが行っていることの残酷さに気づいたとき、そして、将来コントロールされる側に人間が立つことを想像したときに、今の自分の存在意義というか、地球にとってはとるに足らない、いてもいなくても良い存在なのではないか?と少しいやかなり暗い気持ちになった。

AIが感情を持ち、もし人間を無差別に殺したりするような時代が来てしまったら、とても困るけど、因果応報なのであれば、私たちにそのような未来が来ても仕方ないのではないか?とも思う。

もちろん、ルールが整備されるだろうし、そんなに簡単に悪い方向に進んでいくことは無いだろうと思うけど、そういう状況に立ったときに、死という最終地点があるということにも安心できるなと思えた。

いつもは、生きていることで生じる辛さや苦しさに不満を抱くけど、いざ死を想像すると、怖くなることのほうが多い。ただ、死ぬということが、恐怖ではなく、一つの終わりとして、終わりがあることに対する安心感があるんだな、ととても客観的に、だけど今まで以上にリアルに考えてしまった。

うまく伝えられていないけど、

人間の力なんて、ちっぽけで
それは、体の中のある細胞と同じように一つでは成り立っていなくて
だけどそれはこの世に存在するものすべてに実は平等で
だから、私たちは驕らずに日々自分の役割を果たそうと必死に生きていくべきだな、と。
そして、どんなものにも必ず終わりが来る。それは寂しいことにも思えるけれど、ある意味終わりに向かっているということを実感できるのは、安心できることにもなり得るんだ、と。

そんな発見があった日。

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