釧路_1

決断するということ(2011→2019の学び)

『何かを選ぶ、ということは、ほかの選択肢を捨て去るということ。
「決断」は、「断つと決める」と書く。だから決断するのは勇気がいるし、悩むし、苦しい。
もしかすると、選ばなかったほうの道が自分にとっては最善だったのかもしれない。
捨てたほかの選択肢が夜な夜な頭のなかにマモノのように沸いてきて、
怖くて眠れないときがある。そのマモノを寄せ付けないようにするには、自分の決断が間違っていないと心から信じて、それによって未来は明るくなっていくとイメージして、そのために今できることを一生懸命やるしかない。と思ってる。今年、苦しい失恋を経験してわかったけど、マモノは、自分の頭のなかだけに存在してる。
たいていの不安は自分が頭の中で生み出しているだけで、現実にはなにも起こってない。
自分の首をしめているのはほかでもない自分自身なんだと気づいた。きっと、未来のどこかで、「ああ、この瞬間のために今までの苦労があったんだな」と思えるような、幸福な瞬間があるはずで、そう思えた瞬間、決断してきたすべてのことを「これでよかったんだ」と肯定できる日が来るんだろう。早くその日が来ればいいのに。』

https://chihosh.wordpress.com/2011/10/26/%e6%b1%ba%e6%96%ad%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e3%81%93%e3%81%a8/


2011年のブログ。この時期は12年間住んでいた東京を辞めて、北海道に帰ろうか悩んでいるときだった。今でこそその決断は正しかったと思えるけど、その当時は夜も眠れないぐらい、ものすごく悩んだ。自分がこれだと決めた道を諦めるというのは、ものすごく勇気がいる。他人から見たらなんてことないことも、本人からしたらものすごく勇気のいることだったりする。自分が人生をかけて取り組んできたことを、諦める。辞めると決める。過去の自分を否定することになる。簡単には決断できない。


でもあれから8年経って、今は、「決断」というものはもっとしなやかでいいんじゃないか、と思うようになった。一度決めたことに固執しなくてもいい。そうじゃないと思ったら方向転換していいし、間違いを認めてもいいし、辞めても辞めなくてもいい。


人生というものは、右に進もうが左に進もうが、自分のオリジナルになるようにできてる。あのとき右じゃなく左に進んでいれば…と後悔するときが仮にあったとしても、右に進むということがその時点での自分の判断には必要で、右に進んだからこそ見える景色というものがある。


そもそも、右に進もうが左に進もうが、人生は自分にしか進めない道というものがあって、その道は、その時、その瞬間にしか拓かれていない。だから迷わず行くべきなのだ。誰かに何か言われたとしても、その人が自分の人生の責任をとってくれるわけではない。いつだって自分の人生の責任をとるのは自分。そのことを忘れてはいけない。自分の人生を主体的にコントロールする。誰かに任せていてはいけない。きちんとハンドルを握って、自分で考えて、自分で決めて、自分の意思で進む。そうすれば自分の人生に責任が取れるようになる。自分の人生に自分で責任が取れるようになると、人のせいにできないので、後悔がない。


後悔する人生を送るのも、納得する人生を送るのも、自分次第。人の意見も聞く。そして自分の意見も聞く(実はこれがすごく難しい)。自分で決めて、自分で選ぶ。そうしてはじめて、人生が転がり始める。

もし少しでも琴線に触れたらスキをしていただけたら嬉しいです。励みになります。