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彷徨い進んできた2人が出した答えとは

今回は「彷徨う僕らの世界紀行」を紐解いてゆきたいと思います。
この曲は2018年8月にさいたまスーパーアリーナで開催されたライブ、雨乞いの宴・晴乞いの宴で初披露となり、2ndアルバム、イザナワレトラベラーに収録された曲です。イントロなしで、そらるさんのブレスを合図にそらるパートから始まり、彗星列車を彷彿させるAfter the Rainらしい1曲です。2人が2人のことを書いた曲ということで発表され、そんな曲は現時点(2021.10)ではこの曲のみという、謂わばリスナーには嬉しいレア曲です。
需要が多いことが分かっていながらも、まふまふさんは「大切な曲すぎて投稿していない」とソロでのラジオ出演の際に語っています。
もちろんそういった理由もあるでしょう。しかしながら、もう一つ違う説もここで推していきたいと思います。
イザナワレトラベラーが発売された後にこのアルバムについて評論している音楽関係者のブログを読んだことがあります。そこでは良いことも悪いことも客観的に書いてあり読みごたえがありました。そしてそこで、この曲は酷評を受けていたのです。主には曲の構成や終わり方について良くないと評価してありました。切ないメロディが終わり、盛り上がりを見せたところで中途半端に終わっているというのです。確かに、この曲は所謂AメロBメロサビ…といった構成はなく、曲の終盤にかけて盛り上がったところで終わりを告げます。そこで考えたのは、もしかしたらこの曲はまだ未完成なのではないかということです。2人で書いた2人の曲、世界紀行の途中なんだというメッセージも込められているのではないでしょうか。とは言え、アルバムに収録される曲ですから、誰が聴いても未完成と感じるような曲にはできません。ラストに最終章というワードを用いたり、アウトロを長めにとって流れるように音が消えて行ったり、そこはまふまふさんの手腕でうまくまとまっているように感じます。そして、未完成だからこそ投稿されることはなく、アルバム内でのみ聴ける曲となっているのではないか、そんな気がするのです。
そんなことを踏まえながら、彷徨う僕らの世界紀行を紐解いてゆきたいと思います。

「遠く空を行く煌めいた世界の
虹から虹まで おとぎのような噺」

これは煌めいて見える世界、つまりは活動者として成功している世界のこと。遠く空を行くという表現から、少し離れた場所から客観的に見ている様子が伺えます。
虹から虹まで、やおとぎのような噺で、いつ消えてもおかしくないようなおとぎ噺のような出来事だと言っています。

「本当は泣き虫で不器用な誰かと
気弱で孤独な誰かの 噺」

ここはAtRの2人のことを言っていますが、消去法で考えて「不器用」はまふまふさんには当てはまらない言葉なので前者がそらるさん、後者がまふまふさんでしょう。なのでここは
『本当は遠い世界にあったはずの煌めいたアーティストとしての世界。いつかは消えてしまう虹のような、まるでおとぎ噺の中にいるような、そんな世界にいるそらるとまふまふの噺』
と、まさにおとぎ噺の前置きのようなことが冒頭で語られます。

「同じ空を見ては ふたりでつまづいて
同じ夢を見たら 友達になろう」

同じ空を見る、というのは冒頭に出てきた空に係る言葉だと思いますので、煌めいた世界を目指しはじめようとした時のことだと思われます。初めはうまくいかずつまづいたことも多かったのでしょう。憧れだった空が具体的な夢に変わり、同じ夢を見たことで友達になったのです。まふまふさんに関しては、ユニット活動のことを「恋」と比喩表現していますので(楽曲として成り立たせるために)ここでいう友達は、ユニットになる前、そらまふとして活動し始めた頃のことを言っていると思われます。
『歌ってみたの世界で活動し始めた頃はつまづくことも多かった。でも、それが具体的な夢として頑張っていこうとした時、2人で活動が始まりましたね』
と少しだけ昔のことを懐かしんでいるように聴こえます。

「きっと雨がやんだなら 澄み渡る空になったなら
読みかけでも 御話は終わり」

雨がやみ澄み渡る空になったとは、先の見通しがなんとなく見えてきて自分たちの空が明るくなった様が想像出来ます。
読みかけのお話とは、今まさに読んでいたおとぎ噺のことで、その本を閉じるということは目の前の現実を見つめることです。なのでここは
『活動を続けてきて、目の前の空が開けるように目標がはっきりしてきたし見通しも立ってきた。おとぎ噺を読むのは終わりにして、目標に向かって頑張ろう』
と活動に意欲的な様子が伺えます。この辺りでユニットを結成し、2人で頑張っていこうとしている姿が目に浮かびます。しかしながら、次の

「雨が降ったならまたふたりで読み返してみよう
あの日のように」

で、また雨が降り出し迷ってしまう様子が見えてきました。そんな時はおとぎ噺を2人で読んでいたあの頃を思い出してみよう、と立ち戻ることも必要だと言っています。そんな風に、幾度も迷いながら進んできたのかもしれません。
あの日のように、のあの日が具体的にいつなのかは、きっと2人だけが知っている真実なのでしょう。

「くだらない意地を張り合ってきたけど
それだけ君を愛してきたんだよ
それ以上もそれ以下もない」

くだらない意地を張るとは、ユニットとして意見のぶつかり合いや方向性の相違に関してのことなのではないかと考えます。
お互い譲れないものがあったのでしょう。でもそれは思い返してみれば、愛してきたという表現から、2人で活動していく為という根本的なものは変わらずあり、それ以上でもそれ以下でもない、とてもシンプルなものだったのかもしません。
『くだらない意地を張ってぶつかることもあったけど、そのどれもが、2人で活動していく為を思ってのことだった、そんな単純なことだったんだ』
と少しだけ過去を振り返ります。

そしてここからラストにかけて、一気に盛り上がりを見せます。

「何もいらない
夢の果てで咽び泣きだしているココロだ 
彷徨い環状線を歩いてきた世界紀行」

何もいらない、とは前との繋がりを考えると「2人で活動を続けられること」以外はさして重要ではないと言っていると思われます。 
夢の果てとは、おとぎ噺のようだった遠くから見ていた空が具体的に夢と変わった末にということで、そんな今、ココロが咽び泣いている。
環状線とは円になった終わりのない道のことです。そこを彷徨っている、同じところをぐるぐると回っているのです。なのでここは
『2人で活動を続けられること以外は重要なことではなかったのに、夢に向かって歩いてきたようで実は同じところをぐるぐると回っている。2人平行線を辿っている。そんな今にココロが咽び泣いているんだ』
とすれ違いうまくいかなかったことを吐露しています。

「ふりだしに戻ろう
傘は捨てよう ひび割れて愛を謳ってしまうなら
最終章になってしまう前に」

ふりだし、とは最初の2人に立ち戻ろうということで、つまりは初心に帰ろうとしています。
そしてここで、この曲の最大の論点と言っても過言ではない、傘は捨てようのこのワンフレーズです。ここでの傘は、桜花で差し出され2人で差した1本の傘のことだと思います。であるのにその傘を捨てるとはどういうことなのでしょう。取りようによっては不穏な雰囲気さえ漂いますし、前向きに捉えれば2人の行く先には雨が降らないから傘は必要ないとも捉えられますが…この流れで突然ここまでポジティブになるとは考えにくいものがあります。
そこで、ここの傘は捨てるという表現は、同じ傘下に入るのはやめようと言っているのだと考えます。ここでの傘は雨から守るための傘ではなく、ユニット活動の象徴としての傘でしょう。
今まで1本の傘に入ろうと頑張ってきたけれど、その傘は捨てよう、それぞれ傘を差して歩いて行こうと言っているのではないでしょうか。
ひび割れて愛を謳う、とは、愛を謳うがユニットとしての音楽活動の比喩表現だと思われますので、ユニット活動にひびが入ってしまうことだと考えます。
最終章になってしまう前にとは、その言葉通り最終章(終わり)を迎えてしまう前にということです。なのでここは
『またスタートから始めよう。1本の傘に入るように足並みをなんとか揃えて活動しようとしてきたけれど、そのことによりユニット間にひびが入り終わりを迎えてしまうような事があるくらいならば、そんな傘は捨ててしまおう』となります。
もしかしたら、活動方針でぶつかることが多い時期だったのかもしれません。そして、それぞれの活動スタイルを尊重しながらユニット活動を続けていこうということが、2人の間で話し合われたのではないでしょうか。

「ねえ 約束しようよ」

ラスト、まふまふさんの心の叫びのような訴えかけるような「約束しようよ」でこの曲は盛り上がったまま幕を閉じます。
この約束しようよ、は誰に投げかけられた言葉なのでしょう。そしてそれに返答は返って来たのでしょうか。

この曲が初めて披露されたさいたまスーパーアリーナでのライブ。曲前のMCでまふまふさんが語っています。
もともとこんな大舞台に立てるなんて考えずにのんびり活動してきた。失敗したこともあったけど楽しいことも多かった、それがずっと続いていって欲しい。いつか終わってしまう日が来るかもしれないけれど、今の僕たちの活動を一番良いものに出来るようにという強い思いを込めて。
と話した後、ピアノのメロにのせて静かに曲が始まりました。

ある意味、決意の1曲だったのかもしれません。実際、この後ユニットでの活動はぐっと減っていき、ソロでの活動が増えていきます。
ユニットとソロと1年置きに交互に頑張っていきたいと話したり、冬ツアーについてはそらるさんの意向から今後はないかもしれないと話したり(実際冬ツアーは2017年を最後に開催されていません)。
ソロ×ソロの化学反応を楽しんでいきたいと始まったユニット活動ですが、この頃はソロ活動に重きをおくような活動の仕方でした。
2021年9月7日に2人の飲酒雑談放送で明らかにされた、ユニットの名前がついたからにはアーティストとして頑張っていきたいまふまふさんと、今までの活動スタイルを変えずに「そらる」としてやっていきたいそらるさんとで、足並みが揃わなかったこと。
この曲でその擦り合わせをしたのではないでしょうか。そして出した答えは、ユニットとしての歩みを少しだけペースダウンすること、だったのだと思います。まふまふさんはユニットとして大きくなる夢を捨てたわけではない、でもあまりに自分の思うペースで進んでいてはそらるさんにも負担がかかる、そんな気持ちがあったのかもしれません。
そしてそらるさんも、まふまふさんの気持ちは理解していながらも、どうしても自分にはその活動スタイルが合わないことで思い悩んでいたのかもしれません。
2人でこの先も一緒に歌い続ける為にこの選択をしたんだよ、それが今の自分たちの物語なんだ、と曲を通してリスナーに語り掛けてくるように聴こえます。あくまで2人が2人らしく、のびのびと活動していく為にこうやってお互いを尊重していきたい、そんなことを歌った1曲であると感じました。

ラストのまふまふさんの「約束しようよ」
どんな約束をしたかったのでしょう、そしてその約束は守られたのでしょうか。それらの答えが明らかになった時、この曲の続きが聴けるのかもしれません。
モアが発表され、新章に突入したように思えるAfter the Rainとしての活動。この曲の第二章が聴ける時がすぐそこまで来ているような気がしてならないのです。そんなことを期待しながら、彷徨う僕らの世界紀行の個人的解釈を終わろうと思います。
1本ずつ傘を差しながら並んで歩く2人の先に、果てしなく道が続いていることを願っています。

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