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鈴木家の日常 ⑭「愛犬家って意味知ってます?」

「普通」の基準は一人一人違うから、「普通」という言葉をあまり使わないように生きてきた。これは父の教えだ。今思えば、その教えに都合よく言いくるめられていたのかも知れないが、おかげで私は人と違うことに違和感を覚えることなく、「ちょっと違う」人や行動、出来事に対して比較的柔軟だった。そんな私に、どうしても納得できない衝撃的な事が起こった話をしようと思う。

ショウが中学校へ上がるころ、私は犬を飼い始めた。知人から保護犬の話を聞かされたのと同じタイミングで、ショウが学校の校外活動で保護施設を訪問したのがきっかけだった。
もちろん夫にも相談した。相談をして初めて夫がこの保護犬団体の理事であることを知った。理事と言っても、実際現場で活動をしたこともなければその仕組みさえよくわかっていない。詳しいことはわからないが、行きつけの飲み屋の常連が保護活動を支援していたという縁でつながったと聞いた。そうとなれば話は早い。夫はふたつ返事で賛成したわけではないが、反対はしなかった。当然譲渡会にも一緒に行ってもらうことにした。
早速その週末、私たち家族は高都会会場へと出向いた。そこでとても大人しい子で推定年齢4歳から7歳くらい、多頭飼育崩壊のところから引き揚げられたという小型犬と出会った。
きれいにトリミングされ、ゲージの隅に寄り掛かるようにお座りをするその子は、私とショウが近くに座るとっゆっくりと尻尾を振った。ショウは随分と気に入った様子で、そばを動こうとしない。犬の方から少しずつ近寄ってくる。鼻先を寄せてクンクンと匂いを嗅ぎ、ショウの隣にぴったりと寄り掛かった。ショウはゆっくりと顔を撫で、犬はショウの手を舐めた。
私とショウは顔を見合わせて「この子にしよう」と頷きあった。一緒に来たはずの夫を探したが、会場内にその姿は見当たらない。ショウをその場に残し、活動団体の女性に譲渡の意志を伝え、夫を探しに外へ出た。行きそうなところは見当がついている。こんな時は大抵喫煙所と決まっている。
案の定、喫煙所でスマートフォンを覗きながら煙草を咥える夫。
「決まったよ、会ってもらいたい」
私とショウがどれだけ気に入っても、肝心の夫との相性が悪ければ引き取るわけにはいかない。
「ちょっと会ってみて」
夫は動かない。
「やっぱり飼うのは嫌なの?やめようか?」
夫は私の顔を覗き首を横に振る。
「俺の立場からそうはいかないんだよ。ここまで来ちゃったら、気に入った犬を引き取るって選択肢しかないだろ」
「だったら一回会ってみて。相性もあるから」
夫は私に背を向けて「任せる」とだけ言って駐車場へと歩いて行った。少しの不安が私の胸をざわつかせた。犬を諦めてこのまま帰ろうか迷った。
日頃の夫の様子から、私の眼には動物嫌いに映っていたこともあり、犬を飼うにあたり幾度となく話し合いを重ねた。そのたびに夫は「嫌いじゃない」という。嫌いじゃないという割に、隣近所の飼い犬にも散歩中の犬にも1ミリの関心も示さない。何なら、私の実家で飼っている犬にさえ触れることがないのだ。
「嫌いじゃないって、好きとは違う気がする」
私の問いかけにただひたすら「嫌いじゃないだけ」と答える夫。ショウの前では格好つけて、動物愛護の精神を語る夫。保護犬団体の理事に名を連ねる夫。犬が嫌いじゃない夫は、自称愛犬家。
駐車場へと向かう夫の背中を見ながら私は思った。多分きっと、生まれてこの方犬を飼った経験がないから躊躇しているだけなんだ。「嫌いじゃない」んんだから、買ってみたら愛情が湧くはず。そうだ、きっとそうだ。
ショウのもとへと小走りで戻り、私はあの小型犬を引き取った。小型犬は「きなこ」と名付けた。信玄餅が大好物のショウが、少し斑な背中のベージュ色をきなこに例えたとこでこの名がついた。
段ボール箱に入ったきなこを抱え、夫の待つ車へと戻り、その足でペットショップへ向かう。ゲージ、ベッド、トイレシートにフード、保護団体で聞いた必要なものを買い込んだ。

大人しかったきなこは、我が家をすっかり気に入ったのか、家の中ではわんぱくなくらい元気だ。小型犬なのに階段をスイスイと駆け上がるし、リビングを走る。ショウとボール遊びをする庭は、最も気に入った様子だった。
食事の世話や散歩はもっぱら私の担当、ショウは勉強や部活の合間を縫って積極的に遊び相手を買って出た。夫は、目を合わすことも触れることも、近寄ることさえもしない。まるでそこにいるきなこの存在にすら気付いていないように。
そんな夫がある夜、「きなこを連れて散歩へ行く」と言い出した。時計の針は22時を回ったところ。
「こんな時間に?」
引き留めようとする私の手を払いのけ、夫はきなこの首にリードをつけた。クンクンとか細い声で鳴くきなこ。歩こうとしないきなこを抱き抱えて走る夫。私は夫ときなこを追いかけた。歩行者信号が点滅している中を奪取で渡る夫。信号待ちをしているうちに見失った。
深夜夫は、きなこを連れて忍び足で帰宅した。ベッドの中で眠れずにいた私は、きなこの帰宅にホッとして眠りについた。
翌朝、いつの通りに朝食を食べさせる。が、きなこに食欲がない。少し食べてそのまま吐き出してしまった。水を少し飲み、うんちをする。ゆるゆるのうんち。出し切れていないのか、お尻をトイレシートにこすりつける。15分ほどするとまたゆるゆるうんちをほんの少しだし、お尻をトイレシートにこすりつける。水を飲み、またゆるゆるのうんち。動物病院に電話をかけ、状況を伝えると「ストレスで下痢をすることがある」と。いつと違うことがあったかと尋ねられて「はい」と答えた。「1日様子を見て症状が良くならなければ来てください」と電話を切った。
朝ご飯を食べていないから、ふやかしたドライフードを与えてみたがほとんど食べない。ほどなくして血液の混ざったうんちをした。私は、トイレシートのうんちの部分を切り取って保存袋に入れた。それから10分後、今度は半透明の体液に血液の混ざったうんちをした。同じようにトイレシートのうんちの部分を切り取って保存袋に入れた。
2つのうんち袋を持ってきなこを車に乗せていると、夫がやってきた。
「どうした?」
「きなこが下痢してて、血便が出たの。昨夜何かあった?」
「別に何も?刺身と焼き鳥食わせただけだよ。タレより塩のほうが犬には良いと思ってわざわざ潮にしてやったよ」
「え?なんで?」
「犬なんて病気になったらそれが寿命だろ?高い金払って病院に連れて行かなきゃダメなのか?」
声を荒らげる夫をスルーして、私は車を走らせた。
受付で、きなことうんちを預けて検査をした。ウイルス性ではないことが分かった。「何か変わったものを食べましたか」と訊かれ、「居酒屋の刺身と塩焼き鳥」と答えた。先生は少し笑って「それでしょうね、3日分の薬を出しておきます」と。
きなこはすぐに元気になった。
「母さんは大袈裟だよな」
夫がショウに言った。私はそれを無視して、ショウは私の方をじっと見る。
「こんなに小さい身体だよ、人間と同じものなんて食べさせちゃダメでしょう?」
「そんなこと知らねえよ。犬が食いたいって言ったんだ。全部こいつの責任だろ?食いたいもん食って死ぬなら本望だろうよ」
私とショウは呆れた。
「あなた、あの団体の理事よね?」
そう言った私の言葉に、ショウが被せて大声を上げた。
「二度と愛犬家を名乗るなよ!」
この日夫は、きなことショウからの信頼を一気に失った。

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