性を語る。生を語る。一緒に幸せになるために─SEX and the LIVE!!に寄せて

こんにちは。SEX and the LIVE!!で新しくスタッフとして関わらせていただくことになりました、ちひろといいます。
これまでも一ファンとして大好きだったSatL。一緒に活動ができることへの嬉しい気持ちとともに、性と生を語ることに感じている意味と、私の語りを通じて伝えたいと思うことを書いてみたいと思います。


自分の思いを口にすることが苦手な子どもでした。
決して、人前で話すことが嫌いだったわけではありません。
小学生のころ、授業中に手を上げて発言したりすることは好きだった記憶があります。
思えば、求められる答えが明確に存在していたからでしょう。
そのせいもあってか、子どものころは優等生キャラで通っていましたが、唯一読書感想文の課題だけは苦手で、よく締め切りに遅れたりしていました。
自分の内面をさらけ出すことへの怖れと、それを包み隠してお仕着せの感想を連ねることへの抵抗、どちらもがあったのだと思います。生身の自分を露呈したら最後、値踏みされ批判され、軽蔑され否定されるかもしれない。他者の評価に身をさらすことへの臆病さと鼻持ちならないプライドが、当時から私の口を噤ませてきました。「まじめで、おとなしいちひろちゃん」。ほんの少しの違和感とともに、私はその評価を甘受してきました。


世間というものにとって、私はいらない存在なのかもしれない。
私なんてものはいなくなったほうが、ずっと世界は「円滑」なのではないか。
そんな、陳腐に鬱屈した感情を募らせてきた思春期を通じて、この傾向は加速していきました。
(当時の私にとっては勿論、教室とはつまり世界そのものでした。あの時分の無数の女の子たち、男の子たちと同じように)
人の輪の中で同じように話しているように見えても、愉しい話題、含蓄のある知識、人にとって価値のある何かを提供することができるのは私ではない、他のだれかだ。私の思い、私の知識、私の言葉などというものは私の中でだけ飼いならしていればよく、他の誰も必要としていない。面白くも役に立ちもしない私の醜悪な内面など、知られたらきっと失望されてしまうだろう。
何人かの集団で話をするとき、「自分のターン」が回ってくるのをびくびくと避けるようになったのは、誰かと一緒に歩くとき、いつもその1、2歩後ろをついて歩く癖がついたのは、いつの頃からだったでしょう。

会社員、と呼ばれる年齢と身分になってからは、私は自覚的に自分を押し殺すようになりました。
「まとも」な社会についていくためには、こんな私の「自分らしさ」なんていよいよ必要ではない。気味悪がられ後ろ指をさされて打ち棄てられないためには、「社会人らしさ」の被膜を被っていなければならない。そうでなければ安全ではないと、本気で確信していました。


あなたが受けた性暴力について教えて、と言われたあの日。
あなたはどんな体験をして、その時何を感じたのか聞かせて、あなたのために役立てるから、と言われた日。
私はもしかすると、生まれて初めて本気で、人に自分の思いや感情を伝えたい、そして分かって貰いたいと思ったのかもしれません。

あの日から私はいくつかの場所で、自分に起きた出来事を話してきました。
自分と質を同じくする暴力に苛まれた経験を持つ人たちとの、とても大切な出会いもありました。
性暴力の傷つきに伴う、自分の感情や感覚を口にする機会にも恵まれるようになりました。
多分にネガティブな部分を含むそれらをひとつひとつ言葉にすることは、私にとって信じられないほど安らかな作業でした。
もやもやと渦巻く感情をひとつずつ言葉に置き換え、表現してみる。そのことで、自分にのしかかっていた思いがすっと身体を離れ、遠くから眺められるものになる。そして、伝えた思いが共感され、分かちあえるものだと気付ける安堵。
自分の生きてきた生、抱えてきた内面を自ら語ることは恐ろしいけれど、自分を癒すことでもある。そして、他の誰かをも癒しうるのかもしれない。
自分の言葉には価値がないと思ってきた私にとって、これは驚くべき考えでした。

そして、性について語ること。
性暴力というものが自分事になってからというもの、一時は性というものが大嫌いになりそうになりました。女の身体を持っていること。そのことに違和がないこと。異性に恋する心があること。性的欲求があること。全てがひどく醜く、危険で、唾棄すべきものであるかのように。
けれどやっぱりそうではない、そんなことを考えて生きていたくはない。そんな風に思い返せるようになったのも、自分を語ることを始めるようになってからでした。
生まれてこのかた、確かに私は身体も心も女だし、それを愛して生きてきたはずだし(私はスカートもお化粧もハイヒールも、フリルのついたいかにも「女の子らしい」洋服も好き。高い声、膨らんだ乳房。女の身体はその性的特徴を含めて、やっぱりどうしても悪いものには思えない)、これからもそうして生きていたい。性を語り合い、受容し合う体験を通じて、そんな風に思いなおせるようになったのでした。

どんな経験をしていたって、どんな傷つきを受けたって、私たちはそのままで生きていていいのだということ。私たちは私たちの身体と心のままで、幸せになっていいのだということ。自らの言葉で性を語る取り組み──例えば、個々の生き方そのものを切り口に、主体的な性のあり方を考えるSatLの活動の数々──は、私にそのことを教えてくれました。

SatLの語りの輪の中で、私はこれから自分が受けてきた学びを少しずつ返していきたいと思っています。性を通じて泣いたり、怒ったり、笑ったりしている誰かと一緒に、泣いたり、怒ったり、笑ったりしたい。そんな分かち合いを通じて、このままでいい、生きていていいと、幸せに思える時間を少しでも増やせるとしたら、こんなに嬉しいことはないな、と思います。

相変わらず泣いたり、怒ったり、笑ったりしながら、私もこれからも進んでいくのだと思います。
こんな私ですが、今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

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