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2´神社 鳥居part2 なぜ全部同じ形?

前回、①鳥居にはどのような由来があるのか?を見てきた。はっきりした答えは不明であったが、代わりに「鳥居」に関する興味深い説を発見することができた。

今回は②鳥居はいつの時代もどこの土地でもあの形なのか?について述べていく。

まず、私の言う「あの形」とは具体的には何を指すのか?以下の図をご覧いただきたい。↓図1


図1.鳥居各部の名称

図1は私が鳥居の構造と名称についてネットをみて模写したものである。多少の比率の違いや線の見にくさはあるが伝わるので良いとする。私は図1において青色で塗られた箇所で構成される形を「あの形」と呼んでいた。名称だと「島木」「貫」「柱」で構成される鳥居だ。つまり、言い換えると私にとってそのほかの「笹木」「額束」「藁座」などは装飾に過ぎないということだ。

しかし、この考えは誤りだった。鳥居の世界にとってこの装飾達が鳥居の流派を区別する大きな存在となっているようだ。そして、想像もしていなかったことに「鳥居をどんな素材で作るか」も装飾以上に重要な線引きになるらしい。鳥居の変遷をもとに詳しくみていこう。

1「祭場の標識としての鳥居」
(素材:木/構成要素:「笠木」「柱」「貫」/社殿:なし)
※ここで、私が考えていた共通部分も実は間違っていたことがわかる。私が飾りと思っていた「笠木」が鳥居の共通部分で「島木」が装飾であった。

その昔、神の住む世界(神地)と人間の住む世界とは明確に区別されていた。よって、祭りごとをする際はここからが神地であると明確にする必要があり、境を表すために木そのもの又は木で作られたものを目印にするのが望ましいとされていた。つまり、当初の「鳥居」は木造で神地を表す標識として誕生したのである。

この時点での鳥居はpart1で述べたような「門」としての機能はない。あくまでも神地と人間界の境の目印。そのため鳥居を必ずしもくぐる必要はなく、奈良県の大神神社にある三輪鳥居は柱と柱との間に壁があり通ることができなくなっている。

→この時代の鳥居の形は現代では「神明系鳥居」と区別されている。定義としては「笹木に反り増しがなく、島木がないシンプルな鳥居」とされる。↓図2


図2.神明系鳥居例 ※若干柱が内股だが、本来は垂直

2「社殿の門としての鳥居」
(素材:木/構成要素:「笠木」「柱」「貫」/社殿:あり)
1の時代には、神は山の巨岩・巨樹を依り代に降りてくるものであったため、祭りの際は山を登るなどして人間が神のもとに足を運んだ。しかし、だんだんと祭りの形態が変わり、豊穣を祈る時期に神主が神を里に連れてきて、収穫と共にお帰り頂くというスタイルが定番化した。これによって神は人間界に一年のほとんど滞在する存在になり、自ずと神の滞在場所としてふさわしい神殿が築かれはじめた。これによって、神殿の目の前にある鳥居は「神地との境」に加え、神に会うための「門」としての機能を担い始めた。

→この時代の形も1と同様に「神明系鳥居」とされる。

以下、神殿はあるものとする。
2「仏教伝来と資材不足により強化された門としての鳥居」
(神明系鳥居 素材:木/構成要素:「笠木」「柱」「貫」)
(明神系鳥居 素材:石/構成要素:「笠木」「島木」「柱」「貫」「木鼻」「額束」)

鳥居は前提として木材で作らねばならず、とりわけ檜は耐久性の面から重宝されていた。しかし、平安中期以降、仏教伝来による社寺・遷都といった建設ラッシュが起こり、その影響で檜材の減少が深刻になっていく。

ここで2つの考えが生まれる。

本来は祭場の標識なのだから、やはり木造以外は許さないとする「神明系鳥居」

そして、もう一つが資材がないのであればもっと耐久性のある石を使えばよいとする「明神系鳥居」だ。

ポイントは、神殿は木造であるのに鳥居は石造、という素材のズレが生まれた点。今や当たり前の組み合わせだが、当時はどうしても石が目立ってしまう。この対策もして鳥居に神殿と同じ塗料を塗り、親和性を高めようとした例も多い。

木造でないことで「祭場の標識」の意味合いが薄れてきたこのタイミングで、part1で見たような仏教伝来によるいかにも神聖っぽい楼門が現れてしまう。ただ妙に目立つ石造の鳥居はもはや大衆にとって神殿のための「門」でしかなくなったのも想像に容易い。

→「明神系鳥居」は「笠木の下に島木があり、笠木に反り・増し共にあるもの」と定義される。(図3)

図3.明神系鳥居例


3「門として様々な応用可能な鳥居」
 
これ以降から、「明神系鳥居」は「亀腹」「藁座」「楔」「台石」と装飾を増やしながら進化し現代の鳥居において9割以上を占める形となった。
 「神明系鳥居」は、明治維新後に起こった神道の国教化が推し進められ、戦死者の英霊が祀られるまで石造に寝返ることはなかった。明神系鳥居が持つ装飾を取り入れることもほとんどなく、今でも本流としての威厳を保っている。(どういうわけか「額束」だけは取り入れられているが)
 
注意すべきなのは「神明系鳥居」から「明神系鳥居」が進化したわけではないということだ。形は参考されていただろうが、思想としては全く別のものであり個別に発生・発展していったと考えられている。


本来であれば、飾りの変遷についても調べるべきなのだが、大変複雑でかつ時間をかけて調べた内容であったため、私の調査の気軽さを優先するこのnoteには記す余裕はないと判断しここで記述を終了する。


以上の内容から、私が「あの形」と呼んでいたものは「神明系鳥居」であり、それ以外の装飾を含めた形が「明神系鳥居」であるとわかった。

私のギモン、②鳥居はいつの時代もどこの土地でもあの形なのか?に答えるならば、
たしかに全国の鳥居は「笠木」「柱」「貫」を共通要素として持ち合わせている。しかし、それ以外の構成要素の有無やそのものの素材に目を向けると、時代によって変化している。そして、その変化は私が思っていた以上に大きな意味を持っている。

と言った感じだろうか。

感想

何気なく調べたギモンだったが、調べはじめてすぐこれは沼だと察した。この調査は主に谷田博幸著「鳥居」から参照したが、重要な箇所が多すぎて付箋だらけになってしまったくらいである。
今回はこのくらいで辞めたが、また興味が湧いたら別の文献にも手を出してみたい。

最後に、今回のギモンに対する結論は①説が大変多く複雑なこと、何より②私が解釈が間違っている可能性が高く、大幅に事実と異なる場合がある。よって、すべての内容に対してへぇ〜くらいで思っていただけたら幸いである。




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