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多極化世界を意識で作る ー 地球のチャクラとゲートを開く



2023年10月31日から12月19日まで行われた公開セミナー【多極化世界を意識で作る】のレポートと録画をまとめました。地球のレイライン上のチャクラとゲートに遠隔アクセスして、エネルギーを感じ取り、解放するセミナーです。

第1回 ルートチャクラ ー シャスタ山
第2回 第2チャクラ ー チチカカ湖
第3回 第3チャクラ ー ウルル
第4回 ハートチャクラ ー グラストンベリー
第5回 喉のチャクラ ー ギザのピラミッド
第6回 地球のゲート ー バリ島アグン山
第7回 チベットのカイラス山 ー 頭頂チャクラ
第8回 最後のゲート(サードアイ) ー モスクワ


地球のレイライン上のチャクラとゲート


【地球のルートチャクラと繋がる】



カリフォルニアにあるシャスタ山は、富士山とよく似たエネルギーを持つ山で、これが地球のルートチャクラだと言われている。今年1月に、封印解きクラブでシャスタの封印解きセッションをやったとき、シャスタだけではなく、環太平洋すべての聖地を繋いでいる領域が、太平洋の下にあるというイメージが出てきていた。

日本では、根の国とか黄泉の国とかいう世界が地下にあって、そこに祖霊たちがいて、地上で生きている子孫を守っているのだと考えられている。沖縄では、海の向こうにあるニライカナイというところで、そこに祖霊たちがいて子孫を守っている。だから、沖縄の神女たちは、船で海に出た家族を無事に帰してくださいと、ニライカナイの祖霊に祈る。それで実際に、海難に遭っても、不思議な力に守られて、帰ってきたりする。

縄文の時代には、海人族たちは、カヌーとか小さな帆船みたいなもので、太平洋中どこへでも行っていたと言われている。縄文の海人族だけではなく、ハワイの人々やニュージーランド、南北アメリカ大陸のインディオたちも、そんな風に海を渡っていたようだ。

それは、かつてあの時代には、太平洋の下にあると思われていた祖霊たちのいる世界が、太平洋全体を結びつけていたからなのだと思う。富士山もシャスタも、オーストラリアやニュージーランド、インドネシアの聖地も、すべてそこに繋がっていたのかもしれない。

シャスタ山は、きつい封印がかかっているようで、アクセスしようすると、まるで山の底辺に硬い岩盤でもあるかのように、その下のルートチャクラのエネルギーまで行き着けないような、そんな感覚がある。おそらくは、ヨーロッパから来た入植者たちが、原住民を虐殺しながら排除していったとき、聖地にきつい封印がかかったのだと思う。シャスタ山の周囲には、この山を聖地として守っていたいくつもの部族がいたと言われている。ゴールドラッシュで金を求めて、大勢のヨーロッパ人がこの地にやってきたとき、ネイティブアメリカンの部族は追いやられていったものらしい。シャスタが観光地になり、水源までミネラル水の販売に売られていく中で、かつてあった地球のルートチャクラとの繋がりにも、封じ込めがかかるようになったのかもしれない。

公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の第1回では、地球のルートチャクラであるシャスタにアクセスしたのだけれど、シャスタのこの封印を乗り越えるために、まず初めに、時輪タントラの画像を使って、太平洋の下にあるという地下世界、シャンバラ世界にダイレクトに繋がってみることにした。シャンバラ世界とは、地下にある生命の根源のような場所、冥界でもあり、生命が新しく生まれてくる場所でもあると言われている領域だ。その中央では、男神と女神とが永遠にまぐわっていると言われている。

時輪タントラから太平洋の下のシャンバラ世界にアクセスしてみると、参加者の皆が何だかしっとりとした安心感に包まれたのがわかる。ルートチャクラは尾てい骨のあたりにあると言われているけれど、その起点が下丹田にあるようにイメージして、そこが下に向かって花が咲くように開いて、そこからルートチャクラを通って、地球の奥深くまで光の根っこを下ろしているように想像してもらった。

すると、下の方のチャクラが開いて暖かくなり、大地としっかり繋がった感覚になる。外の世界で何が起こっていても、子宮のようなものの中に入ったり、あるいは果肉に守られた種のようになって、しっかりと守られていくようなイメージを受け取った人が何人かいた。アトランティスやレムリアが沈んだとき、カプセルのようなもの、宇宙船のようなものに入って、新しい大陸に降りてきた人々がいたというような話があるけれど、それはこの地下世界に守られることで生き延びていった人たちのことだったのかもしれない。

まぐわうように親密な人々との繋がりのエネルギーを感じた人もいた。かつて太平洋を小舟で渡っていった人々は、この繋がりのエネルギーによって、どこへでも出かけていき、どこへ行っても歓待され、新たな繋がりを作っていったのだろう。太平洋がまるで一つの大きな温泉のようになって、その中でありとある民族が、繋がりの暖かさを感じ、信頼感と安心感、平和と調和とを分け合っているようなイメージが浮かぶ。

太平洋の下のシャンバラ世界と繋がったあとで、シャスタ山の画像から、封じ込められる前のもともとのシャスタ山のエネルギーにアクセスして、そこから山の下を通って、太平洋の下のシャンバラ世界まで意識上で行ってみた。すると、シャスタ山の下から、環太平洋全体と繋がっている地下世界が存在しているのがわかった。それは、物理的にあるわけではないけれど、意識上の世界として存在していて、コミュニケーション場のようなものだと言えるかもしれない。そこで環太平洋の人々はどこの人たちとも繋がることができ、テレパシー的にコミュニケーションしたりもしているようで、どこへ移動するにも、地下世界から繋がっている光のコードのようなもので、安全確実に海を渡っていけるかのようだった。

日本の海岸に、顔かたちも服装も言語もまったく違う人たちが船でやってきて、言葉も通じないのに、熱く歓迎されている場面を見た人もいた。違う言葉を話しているのに、完全に理解し合っているのだと言っていた。太平洋の下のシャンバラ世界に、ルートチャクラが繋がっている人同士では、言葉も文化習俗の違いも、関係がないらしい。この繋がりがあったからこそ、この時代の人々は、遠くまで船で渡っていけたのだ。そして、どこへ行っても、異なる人々と繋がることを、まるでまぐわうように楽しんでいたようだ。

それから最後に、この地下世界のエネルギーを今のシャスタ山に繋げて、そこから地上を包んでいくイメージワークをやった。すると、サードアイが開いたように、参加者の額のあたりが光り始めていた。ルートチャクラから大地のエネルギーが入って、サードアイへと出ていくかのようなのだ。それは、大地のエネルギーにしっかり守られることにより、たがいに警戒し合う必要がなくなり、異なる民族の人たちも、実は同じ人間なのだとわかって、人間的な関係性が作れるということのように思えた。すると、かつてこの地を追われたネイティブ・アメリカンの人々が戻ってきて、太平洋のネットワークが取り戻されるようなイメージが現れた。

ローマ・カトリックの一極支配の力が、南北アメリカもオーストラリアやニュージーランド、ハワイでも、多彩な民族文化を葬っていき、同じ一つの価値観、同じ一つの文化を押しつけていったのだ。まさにそのために、太平洋はかつての生き生きした繋がりのエネルギーを失っていた。この2000年ほどの間、戦いと支配の時代が続いていったのも、同じ価値観、同じ一つの文化を押しつけていく、この支配勢力から来ていたのだ。それぞれの民族のあり方を否定し、排除し、虐殺して、同じ民族の人間だけにしようとしていった。その根源には、ローマ帝国があり、その一極支配の精神を受け継いだローマ・カトリック、つまりバチカンがある。

30年くらい前から、この支配勢力はアラブ世界を破壊しようとしているけれど、それはイスラムが多極的な構造を持っているからなのだろう。ローマ・カトリック的な支配勢力は、イスラムが独裁的で狂信的な世界だと思わせようとしているけれど、実はイスラムはそれぞれの民族のあり方を認め、他の宗教を認め、互いにフェアで友好的なあり方を定めているイスラム法に従っている。それにより、アラブ世界は、多極的な世界秩序というものを、実現しているようなところがある。だからこそ、一極支配の勢力は、アラブを破壊しようとするのだ。

ロシアもまた同じだ。ロシア帝国は、それぞれの民族のあり方を認め、あらゆる宗教、あらゆる文化が共存できるような秩序を作り出すことで、大きくなっていった。まさにそうした世界がこの30年ほど攻撃され、破壊されようとしていたけれど、それが今、逆転しようとしている。ロシアやアラブの多極的な世界が、一極支配の勢力を破ろうとしている。そして今、一極支配の根源とも言えるイスラエルで、すさまじい攻撃が行われているけれど、それは他の民族を虐殺排除して、征服支配しようとする一極支配勢力と、多極的なあり方を保とうとするアラブ世界との戦いという、これまで行われてきた植民地戦争の縮図のようだ。

世界はこれから、多極的な調和へと向かっていくのだろう。そのために、世界を支配しようとしていた一極支配の勢力は、滅びていこうとしているようだ。シャスタでも南北アメリカ、ニュージーランド、オーストラリア、アジア、いたるところで一極支配による封印が解けて、あらゆる民族がたがいに受け入れ合い、交流する世界が開けていくのだろう。地球のルートチャクラ、シャスタ山の封印を解いて、太平洋の下の地下世界のエネルギーにアクセスしたときに、新たに来るその世界が見えてきたようだ。


シャスタ山


時輪タントラ


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セミナーの録画は、こちらで見られます。

第1回 ルートチャクラ シャスタ ネイティブアメリカン

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, October 31, 2023

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【多様なあり方を受け入れる力】



公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の第2回は、地球の第2チャクラであるというチチカカ湖のエネルギーにアクセスして受け取り、解放するのをやった。集合意識的に多極化世界にシフトしていくのに、地球のチャクラのエネルギーにアクセスしようと思ったのは、多様なあり方を受け入れて調和していくには、まず私たち自身がそれぞれのあり方にしっかりした軸を持っていなければならないと思ったからだった。自分の軸がないままで、世界の多極的なあり方を受け入れようとすれば、自分を失ってしまうようなことになる。まずは、それぞれが自分自身のあり方を受け入れて、自分自身と繋がることだ。それができていれば、自然と他の人々、他の民族のあり方を受け入れることもできる。

この数千年の戦いと支配の歴史で、まさにそうしたそれぞれのあり方が破壊されていったのだ。それぞれの民族のあり方にしっかりした軸を持っている人々は、支配することができない。だから、支配者の宗教を押しつけて、土地の神々を悪魔だと言い、伝統的な価値観を野蛮で愚劣なものだとして、支配者の価値観に従わせた。その結果、私たちは、支配者の価値観に従っているかどうかで、たがいに優劣をつけ合い、差別したり、弾圧したりするようになってしまった。それぞれのあり方から離れて、上からくる価値観に従わされていると、自分の軸がなくなってしまい、自分のあり方をありのままに受け入れることもできなければ、他者のあり方を受け入れることもできなくなってしまう。これが、一極支配の世界の根本的な問題だ。

チチカカ湖は、今年1月に封印解きクラブで封印解きセッションを行ったときには、かつてスペイン人たちが金を求めて南米にやってきて、原住民たちを虐殺した歴史が、重くドロドロした封印になっていた。しかし、あれからチチカカ湖のエネルギーはずいぶん解放されたらしい。封印解きクラブのメンバーが、最近チチカカ湖に行って、そのときの写真を送ってくれたのだけれど、その画像はとてつもなく深く大きな慈愛のエネルギーを放っていた。チチカカ湖は、まるで地球の子宮のよう、大地母神パチャママそのもののようだったそうだ。

第2チャクラとは、人間関係の中で支えられ、守られていく信頼感のエネルギーであり、異なる存在と出会うことによって、新たな生命を生み出していく力でもある。それは、身体的なレベルでは生殖機能だけれど、クリエイティブな創造の力でもあり、富を循環させていく力でもある。人間関係の中で支えられている信頼感があれば、自分がありのままに丸ごと受け入れられている感覚を持つことができる。そうした安心感を持っている人は、人のことをありのままに受け入れることも自然にできるので、人間関係に調和が生まれ、その結果、富の循環もうまく流れていく。だから、第2チャクラは商売の成功とも関係がある。

チチカカ湖は、まるで海のように大きなカルデラ湖で、富士山よりも高いところに水面がある。天と地が出会うところでもあり、水と火が出会う場所でもある。また、チチカカ湖は、地球の赤道上を螺旋状に巡る2本のレイライン、雌ドラゴンのレイラインと雄ドラゴンのレイラインが交差する地点でもある。レイラインは、電流と同様に、つねに陰と陽のラインが螺旋状に動いていく。地表を蛇行していくように見えるけれど、空間的に見ると、それは螺旋状に動く2本の陰陽のラインなのだ。その2本のレイラインが、地上の一点で出会う場所が、チチカカ湖とバリ島だ。

封印解きクラブのメンバーが撮ってきてくれたチチカカ湖の画像は、見ただけで身体が熱くなるくらいのパワフルなエネルギーを放っていた。その画像を使って、皆でそのエネルギーにアクセスした。呼吸法で身体の力を抜いて、自分が今チチカカ湖のところに立っていると想像する。そして、意識で湖の中に入っていき、そこで何を感じるか、何が見えてくるかを見てもらう。

すると、参加者の表情が、とたんにどっしりと落ち着いたのがわかる。お腹が底の方から暖かくなって、お腹からしっかりと息ができるのが、たまらない心地よさで、まるで子宮の中にいるようだと感じた人が多かった。それは、ありのままの自分が完全に受け入れられる感覚で、これほどまでに自分を完全に受け入れられ、自分と統合した感覚は初めてだと言っていた人もいた。

金の小判を両手に持ってみたら、金色にキラキラ光ってきれいだけれど、手に持っていてもしようがないと思った、と言っていた人がいた。中南米は金が出るというので、スペイン人に強奪された土地だけれど、金自体に何ができるわけでもない。金とは、チチカカ湖のエネルギーのような、生命の力そのものの豊かさであり、富と愛とが循環し、たがいに支え合っていけるという信頼の力なのだ。

また、受精卵が着床するようなイメージを見た人もいた。天と地、水と火が出会うとは、受精卵が降りてきて、子宮に受け留められ、着床するようなことだとも言える。受精卵だけあっても、着床しなければ、生命は育っていかない。着床させ、生命を育てていくのは、子宮の力、女性性の力なのだ。来るものをありのままに受け入れ、育てていく力だ。

封印解きクラブのメンバーがチチカカ湖に行ったとき、たまたま太陽のまわりに大きな二重の虹が出たのだそうだ。その画像を使って、チチカカ湖と太陽のエネルギーにアクセスしてみることにした。太陽とチチカカ湖の繋がりを感じさせる、とてもパワフルな画像だ。チチカカ湖は赤道に近いし、高山なので、太陽の存在感がまったく違う。その太陽のエネルギーは、まさに天と地、火と水の出会いそのものだった。太陽のエネルギーが太陽から降りてきて、地に落ちたところに、生命が生まれる。それが、受精卵が子宮に受け留められて着床するイメージと重なる。

錬金術では、火と水が統合したときに、生命が生まれるというけれど、生命体とは、水と火との循環だ。とも言える。私たちの身体の中は、絶えず血液が循環し、呼吸することによって、糖分が酸素で燃やされて、熱ができる。その熱が血液によって絶えず身体を巡って、体温を保ちながら、熱が組織を壊さないようにバランスを取り続けている。すべての生命は、身体の中に水と火の統合を持っている。水と火のバランスこそは、生命そのものだ。

一極支配は、天の太陽だけを崇めさせようとするようなものかもしれない。しかし、太陽だけでは生命にならず、その力が地上に落ちた地点で、初めて生命が生まれるのだ。それぞれの落ちた地点で、多様なあり方がある。多様な生命が生まれ、多様な生活スタイルが生み出される。だからこそ、この世界に大きなバランスと多様性の豊かさとが作り出されるのだ。天だけではなく、地の力にこそ意識を向けるべきだ。それこそが多極的な世界のあり方なのだ。

チチカカ湖のエネルギーにアクセスしたとき、身体のあちこちが痛くなったという人が何人もいた。エネルギーが循環し始めると、それまで硬い殻で固められたようになっていたのが、バリバリと裂けようとするかのように、痛くなることがある。毎回睡魔に襲われたという人もいた。これは、顕在意識で受け取れなくなって、潜在意識で受け取るモードになるからだ。何回かの瞑想を通して、その痛みが解けていき、バリバリの殻が外れて、中から柔らかい身が出てきたように、解放されていた人もいた。生まれる前、生まれたくないと思っていた記憶が蘇った人もいた。心地よい子宮から外に出たくなかったのだけれど、チチカカ湖の太陽のエネルギーを受け取ったら、外に出て明るい光を浴び、生まれてきてよかったと思ったそうだ。

これまでの数千年、地球は一極支配の世界を生きてきて、その世界に生まれてくるということは、自分以外の何かの価値基準に従わされるということを意味していた。だから、生まれてきたくなかったという感覚を持つ人も多い。しかし、もし世界が多極的になって、地上のありとあるあり方が、すべて受け入れられるのだとしたら、生まれてきてからも、子宮の中で守られていたときと同様に、完全に自分自身である続けることができるのだと思う。

最後に、このチチカカ湖の天と地、火と水の出会いであるエネルギーを光の玉の中に入れて、世界中の人が受け取れるように送ってもらった。雨のようにして降らせた人も入るし、シャボン玉にして飛ばした人もいた。光の玉が天から落ちてきて、世界中の人たちのお腹の中に入って、第2チャクラを解放していくイメージが出てきた人もいた。

アメリカやカナダ、いわゆる西側諸国の人たちは、今まで従ってきた価値観から離れることに抵抗があって、どうしていいのかわからないといった反応をする人が多いように思えた。この2週間くらい、私はキリスト教の封印についての投稿を書いていて、ちょうどセミナーの前日に完結したところだったのだけれど、西側諸国は、まさにキリスト教によって一極支配で固められていたのだ。チチカカ湖のエネルギーを世界中に送ったとき、それがはっきりと見えた。つねに外の基準に従わされてきて、ありのままの自分を受け入れるなどということが、何だか下品なように思えるし、だから他の人たちにも、ありのままでいることを許せないのだ。

ありのままの自分が受け入れられない人が、多様なあり方を認めようとすると、極端に走って、奇抜な服装をしたり、奇抜な行動に出たりする。極端なことでもしないと、自分が自由なのだと感じられないかのようだ。世間の価値観に従わないと爪弾きにされるという感覚を持ったまま、自由になろうとすると、結局、爪弾きにされるような状況を作り出してしまう。それは本当の自由ではないし、本当の自分のありのままのあり方でもない。

しかし、チチカカ湖のエネルギー、地球の第2チャクラのエネルギーが解放されたら、誰もがありのままの自分を恥じる必要などないことに気づくのだろう。ありのままの自分こそは、完璧なのだということに気づくはずだ。ありのままの自分が完全に受け入れられるという感覚を持てたとき、ありのままの自分を完全に受け入れることもできるようになり、そうなったとき、他の人たちもまたありのままで完璧なのだということが、わかるようになる。

ナザレのイエスが教えたことは、実のところはまさにそのことに他ならなかった。誰もが、それぞれに完璧に神に導かれているのだから、ただそのことに気づけばいい。それが見事に封じ込められ、引っくり返されて、誰もが同じ善悪の基準に従わなければならないというような、一極支配の論理にされてしまったのだ。キリスト教の封印を解き、チチカカ湖の封印を解くことになったのも、世界は一極支配の時代を終えて、多極的な世界にシフトしようとしているからなのだろう。


チチカカ湖


チチカカ湖の上の太陽に出た二重の虹


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セミナーの録画は、こちらで見られます。

第2回 第2チャクラ チチカカ湖 インカ

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, November 7, 2023

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【へその緒と創造力の関係】



地球の第3チャクラであるというオーストラリアのウルルという巨石は、見かけも地球のへそのように見える。私たちは、生まれたときにへその緒を切り離されて、そのときまで養ってくれていた母胎と切り離され、自分で呼吸し、栄養分を消化吸収して生きていく。しかし、私たちは一生の間ずっと、見えない光のへその緒で大地と繋がっているかのように、地球に養われ、守られて生きていくのだ。ウルルとは、まさにそのことを思い出させてくれる場所だと言える。

公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の第3回では、地球の第3チャクラであるウルルのエネルギーに遠隔アクセスして、そのエネルギーを世界に拡散した。ある場所のエネルギーに遠隔アクセスするのは、実は誰でもできる。意識エネルギーの世界は、時間も空間も超えているからだ。どれだけ離れていようと関係なく、意識を向けるだけで、こことあそこが重なる。これは、まるで魔法みたいだけれど、やってみれば当たり前にできるのがわかる。ヴィジュアルなイメージとして見る人もいれば、単にお腹がちょっと暖かいくらいの感覚で受け取る人もいるけれど、皆ちゃんと受け取ってはいる。それは、表情や姿勢や肌のツヤなどが変わっているからわかる。オーラが見える人なら、オーラが変わっているのがわかると思う。

ウルルの画像を見ながら、ウルルの上に自分が立っているように想像すると、身体の感覚が変わってくるのがわかる。それで、自分のおへそのところから、目に見えない光のへその緒が伸びていて、ウルルと繋がっているように想像してみると、また身体の感覚が変わって、繋がりが深くなったのがわかる。見えないへその緒から、ウルルのエネルギーが第3チャクラに流れ込んでくるのがわかる。

第3チャクラとは、みぞおちとへその間、胃のあたりに中心がある。胃の後ろには、内臓の交換神経が放射状に繋がっている太陽叢(ソーラープレクサス)がある。私たちは、内蔵の動きを意識しているわけではないけれど、その神経ネットワークによって、私たちの内臓は完璧に調整され、機能しているのだ。ハワイのシャーマンであるカフナたちは、潜在意識と身体意識と感情を合わせた意識の領域をクーと呼んでいるけれど、その中心は、ソーラープレクサスつまり第3チャクラにあると言ってもいいかもしれない。

第3チャクラは、自我意識の中心でもあり、自己実現の力でもある。私たちがこの地上でやろうとして生まれてきたことをやり遂げていく力だ。だから、自分の自由を守るための、怒りや攻撃性など、戦う力の中心でもある。

しかし、第3チャクラの力の本質は、陽のエネルギーであり、それは子供が喜んで笑うような、無邪気な喜びのエネルギーなのだ。さんさんと輝く太陽のエネルギー。子供が無心に遊ぶように、ただ楽しいから、面白いからやるというような。

ウルルのエネルギーに繋がってみると、ほとんどの人が、感じたこともないような不思議な安心感に包まれるようだ。それは、自分と他人、自分と世界の間にまだ境がなかったときのような、まるで胎内に戻ったかのような感覚で、子宮の中で養われていたときのように、自分がこの大地に養い守られていることを思い出すかのようだ。

私たちは、生まれたときに安全な胎内から切り離され、それ以降は、多かれ少なかれ、孤独感と不安感、心細い思いとともに生きていくようなところがある。ところが、実はそれが作られた幻想にすぎなかったことを、知ってしまうかのようだ。私たちは、生まれてこの方、この大地の力から切り離されたことなど、本当は一度もなかったのだ。どんなときでも、目に見えないへその緒でしっかりと繋がれて、守られ、養われてきた。そのことを思い出したとき、これまで感じてきた不安感、孤独感はいったい何だったのかと思う。その痛みが戻ってきて、癒やされていく。

現代社会に生まれてくると、ほとんどの人は、この大地に養い守られるという繋がりの感覚から切り離されていく。生まれたときから、新生児室に入れられたり、保育器に入れられたりする。ありのままでいることは許されず、病院や幼稚園や学校が要求することに従わなければならなくなる。そして、従うことによってのみ、自分は生きている価値を認められるみたいに思うようになる。そうして私たちは、子供のときから、自分と世界とが切り離されているという孤独感を植えつけられていくのだ。社会が要求するようにしているかぎりで、社会に養われる。だから、生きていくためには、社会に従わなければならないという意識が植えつけられていく。

私たち人間は誰でも、3歳くらいまでは、天才レベルの創造力を持っているのだそうだ。それは、一つの質問に対して、なるべく多くの、なるべく奇抜な答えを見つける能力なのだけれど、これが3歳まではほとんど誰もが天才レベルだ。ところが、3歳をすぎて、幼稚園に行き、学校に行き、自由な発想がむしろ押さえつけられるようになると、この能力がどんどん落ちていき、義務教育を終える頃には、天才レベルの創造力を持っている子供は、ゼロに近くなる。まさにこれが、近代の学校制度が作り出した状況なのだ。

自分と世界とが切り離されているという感覚の中で、自分の表現をしようとすると、自分を差別化するための表現になってしまいがちだ。自分がどれだけ特別なのかということを示そうとしてしまう。自分に何ができるのか、他の人たちとどこが違うのか。だけど、ウルルのエネルギーに繋がったとき、私たちは、表現や創造とは、本当はそんなものではなかったということに気づくのだ。それは、自分と世界の間に境がないような、何も努力する必要もなく、ただ息をしてさえいればいい、ただ遊んでいればいい、というような原初的な感覚だ。本当の表現とは、まさにそうしたところから生まれてくるのだ。

美術でも音楽でも言語表現でも、表現するようなことをしている人は、そのように世界と自分とが一つになっているようなとき、本当にいい作品ができるということを知っていると思う。何かを作ろうとか表現しようとか思うまでもなく、自分の手から自ずと表現が生まれていくかのようだ。自分と対象との間に境がなく、一体になっている。ただその快感を感じていれば、作品ができていく。本当にいい作品は、だいたいそんな風にしてできるものだ。

ウルルのエネルギーとは、まさにそれなのだ。私たち人間が、大地に守られて、子宮の中の胎児のように深く世界と繋がったまま、ただここで息をしていればいい、ただここで遊んでいればいいということを思い出させてくれる。そのとき、私たちのまわりに、まるでアラベスクのような繋がりの文様ができていく。それこそは、世界を繋いでいる毛細血管のような神経系のようなネットワークだ。表現や創造とは、そんな風なものだ。それは自分を特別に見せるためのものではなく、自分と人との間、自分と世界の間、人と人との間に、繋がりを作っていくためのものだ。

見えないへその緒でウルルのエネルギーに繋がってみると、参加者の顔が何だかみんな太陽のようになっていて、丸くて暖かい光をさんさんと放っているかのように変わっている。肚が据わったようにどっしりとなって、自然に背筋が伸びて堂々とした姿勢になっている。これは、第3チャクラが開いた徴だ。

まるで宇宙の胎内を一回りして、胎内回帰してきたような体験をした人もいた。かつて何故だかわからないままどうしてもウルルに行かなければと思って行ったという人は、その理由がわかったと言っていた。そして、今でもウルルと繋がっていることがわかったと。

第3チャクラは、型にはめられるように育てられたり、比べられて育ったりして、傷つけられている人が多いのだと思う。そういう人は、なかなか自分では開けなかったりする。それで、うまくいかなかった人に手を挙げてもらって、皆でその人にウルルのエネルギーを送ることにした。ウルルのエネルギーを光の玉に入れて、その人の第3チャクラのところに入れるとか、へその緒をウルルと繋いで、エネルギーが流れるようにイメージしてもらった。

人にエネルギーを送るのをやると、送っている方の人も、繋がり方がもっと深くなる。意識エネルギーの世界では、与えるのも受け取るのも、本当に同じなのだ。与えると同時に自分も受け取っている。自分が受け取るとなると遠慮もあるけれど、人に送るとなると遠慮がなくなるので、エネルギーの流れがもっとよくなる。送ろうとした相手が遠慮してなかなか受け取らなかったようなイメージが出てきたと言った人がいた。受け取れない人は、自分などがそんなものをもらってはいけないと思っていることが多い。だから、皆で送ると、そういう人でも受け取れて、繋がれたりする。

最初繋がれなかった人も、肚がすわった堂々とした感じの姿勢に変わって、顔がやっぱり太陽みたいに光を放ち始めていたから、しっかり繋がったのはわかった。まるで自分が巨人みたいに大きくなったのを感じたそうだ。

最後に、ウルルのエネルギーを世界中に送った。光の玉を世界中の人に送ったり、あるいは光の玉をどんどん大きくしていって、地球全体を包んでもらった。すると、世界中が平和になって落ち着いたようなイメージを受け取った人が多かった。皆が大地に守られ支えられて、ただそこで子供のように遊んでいればいいのだとなったら、誰も争ったり、相手を支配しようと戦ったりしないのだ。皆が同等の存在として、網の目のように繋がって、その繋がりの網の目に守られて、生きている。私たちは、その感覚を忘れてしまったから、生きていくためには人を押しのけて戦わなければいけないように思ったり、環境を破壊してもしかたがないと思ったりするようになったのだろう。それならば、地球の第3チャクラのエネルギーを解放することで、私たちはこの戦いの時代を終わらせることもできるのだろう。


ウルル


ウルルを表したアボリジニの絵



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セミナーの録画は、こちらで見られます。

第3回 第3チャクラ ウルル アボリジニ

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, November 14, 2023

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【グラストンベリー・トーは、地球の心臓だった】



イギリス南部にあるケルトの最大の聖地グラストンベリー・トーは、地球のハートチャクラだと言われている。ハートチャクラについて語るときにいつも思うのは、愛についての概念こそが、まさにハートの力を封じ込めるものになっているということだ。

愛というものが、難しく考えられすぎている。「愛はよくわからない」とか、「それは本当の愛ではない」とか言う。そこでは、自分を顧みないで人に何かを与えるようなことだけが、愛であるかのように考えられている。

しかし、ハートチャクラの愛とは、そんな面倒くさいものではない。「これ、いい!」とか「面白そう!」とか感じるときの、胸がワクワクして、パッと目が輝くときの感情。あれこそが、ハートチャクラに力を与える愛なのだ。そうした喜びの感情こそは、私たちを一気に活気づけ、心身すべてを生き生きとさせ、活動的にする力がある。

心臓は、みぞおちの上の、胸骨の後ろ、背骨との間にある、こぶしくらいの大きさの筋肉の塊だ。これは生きているかぎり動き続ける、とてもパワフルな血液ポンプだ。心臓が一回鼓動すると、同時に全身のすべての血管網が脈動し、全身のすべての血液が同時に循環する。それによって、身体中のすべての細胞が酸素を得、養分を送られ、不要物を運び去っていく。全身のすべての血管、すべての細胞が同時にだ。そして、これこそが生命現象なのだ。この循環が作り出されることこそは。だから、心臓とは生命そのものであり、その鼓動は、生命のパルスそのものだ。

地球のハートチャクラと言われるグラストンベリー・トーは、アーサー王伝説に出てくるアヴァロンだとも言われている。もともとこのあたりは沼地だったので、グラストンベリー・トーは、沼を渡って行ったところにある小さな島だった。アーサー王は戦いで瀕死の重傷を負い、傷を癒やす力を持つ女性たちがいるアヴァロンに、舟で行ったと言われている。

だから、グラストンベリー・トーは、蘇りの地でもある。瀕死の人間でも、アヴァロンで新しい生を得ることができる。脈拍が弱くなってくると、人は瀕死の状態になるけれど、心臓の鼓動が戻ったとき、人は再び生き返る。全身の細胞の循環が戻り、受けた傷を修復し始める。

絶望の淵から蘇る経験をした人なら、絶望のどん底まで行ったときに、生へと戻っていくきっかけになるのは、夜空の中のたった一つの星くらいのなけなしの希望の感覚だったりするのを、知っていると思う。すべてを失っても、それくらいに小さな希望なら、私たちはいつでも持つことができる。重要なのは、そんな小さな希望とでも、ともに生きていこうと思うかどうかだ。そう思えたとき、まるで瀕死の人間が蘇生するときのようなことが起こる。心臓が鼓動し始め、全身の循環が再び戻る。そして、まさにその力が、どんな傷も癒やし始めるのだ。

グラストンベリー・トーは、沈んだ大陸アトランティスと繋がっているとも言われている。グラストンベリー・トーを中心として、イギリス南部を東西に走る聖ミカエルのレイラインと呼ばれるレイラインは、西はセント・マイケルズ・マウントを通って、大西洋のアゾレス諸島へ至る。ここは、アトランティスの残りだとも言われていて、このあたりの海底には古代遺跡が沈んでいるという話もある。

アトランティスは人災によって沈んだと言われているけれど、大陸を滅ぼすようなことをしてしまった人々は、そのうちの何人かが救い上げられて、新しくできた大陸に降り立ったという話がある。これが事実かどうかはわからないけれど、グラストンベリー・トーは、そんな人々の記憶を感じるような場所だ。壮大な文明を丸ごと沈めるようなことをしてしまった人たちが、何もなくなった新しい大地に降り立ったとき、一体どれだけの絶望を感じたことだろう。すべてを失って、何もないところから、再び新しく始めていかなくてはならないなんて。

グラストンベリー・トーのエネルギーは、そんなときにでも、新たに始めていこうとする、とてつもない希望の力だと言えるかもしれない。すべてを失っても、ただ生きてさえいれば、私たちはまた新しく始めていくことができる。ただ、心臓が鼓動してさえいれば、すべては動き始め、傷を癒やし、活動を始めていくように。

公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の第4回では、グラストンベリー・トーのエネルギーに画像から遠隔アクセスした。まだ封じ込めがなく、このエネルギーが完全な状態だった時代に戻って、トーの上に立っているように想像した。それぞれにいろいろなイメージやメッセージを受け取ったのだけれど、まとめて言うならば、それは「何が正しいという思考で生きるのをやめなさい」ということだったと思う。頭で何が正しい、何が悪い、と考えるのではなくて、心臓の鼓動を感じて生きろ、と。

絶望の淵から蘇生して、新たに始めていこうとするとき、まさにそのプロセスを私たちはたどっていく。それまで目指してきた目標を捨てて、どんな生き方でもいいから、とにかく生きていこうと思うとき、私たちは新しい生を得るのだ。こうすべきだとか、これが正しいとかいう考えを一切捨てて、ただ心臓が鼓動しているのを感じ、この心臓の鼓動とともに生きていこうと思うこと。

一極支配は、人々に「これが正しい」ということを信じさせ、それによって同じ方向へ向かわせようとする。これを推し進めていった末にあるのは、どちらかを抹消しようとする戦いだ。こうした戦いのエネルギーは、大陸を丸ごと沈めてしまうほどの破壊力を持ち得る。

しかし、生命の中心である心臓は、どの細胞に何をしろなどと指示したりはしない。ただ必要なものを送り、不要なものを回収する循環を作り出すだけなのだ。何をどうすべきなのかは、一つ一つの細胞が知っている。それにまかせておけばいい。ところが私たちは、細胞にまかせておこうとはしないで、何がいい、何が悪い、と考えて行動しようとするのだ。何が健康だからとか、理屈で考えて、食べ物を選んでいる。だけど、野生動物はそのときの健康状態に合ったものを、おいしいと感じ、ただそれを食べて生きていくのだ。そのときそのときの「これがいい!」「これがおいしそう!」という喜びの感覚に反応していく。そしてそれが、実は最も効率がいいやり方だ。それぞれの器官、それぞれの細胞にまかせておくこと。そしてただ、生命のパルスである心臓の鼓動とともに生きていこうとすること。

レイラインというものも、一種の封じ込めになっているのだとしたら、それは本来は網の目状になっているものを、一本の線に還元してしまうところなのだろう。おそらくは、グラストンベリー・トーのエネルギーも、レイラインに沿って流れていくだけではなくて、血管網すべてに同時に循環を作り出すように、あらゆる場所へ同時に流れているのだと思う。

心臓の鼓動が心電図で測れるように、心臓の鼓動は一種の電磁波を出している。それが、どの生命体も必ず作り出しているというトーラス状の流れになっているのだそうだ。だから、波動エネルギーの領域で見るならば、心臓の鼓動とは、血管システムの循環を作り出すだけではなく、生命エネルギーのトーラスを作り出す波動だということができる。

それで、レイラインから離れて、グラストンベリー・トーをトーラスの中心として、周囲にトーラス状のエネルギーの流れを作り出し、周囲一体が同時に活気づくイメージを作ってみることにした。それによって、一極支配の封じ込めを解き、多極的な構造を作り出そうと思った。周囲だけではなく、大陸全体、地球全体を、グラストンベリーを中心にしたトーラスで包むこともできる。

それで見えてきたのは、心臓とは陰と陽の二つの循環を同時に行なっているということだった。心臓は二つのポンプでできていて、一つは動脈へ血液を送り、全身の細胞に酸素と養分を送るポンプで、もう一つは静脈から戻ってきた二酸化炭素を運ぶ血液を、肺に送るポンプだ。動脈のポンプは細胞にエネルギーを与える陽のポンプであり、静脈のポンプは浄化を行う陰のポンプだ。心臓は、その両方を一つの鼓動で同時に行なっている。どちらも同時にあるからこそ、バランスが取れている。そして、それこそはまさに生命現象というものなのだ。

ある人は、地球の鼓動を聞く感覚を思い出したと言っていた。それは、遠くでドーン、ドーンと打つような音で、他の人には聞こえなかったそうだ。何の音だったかわからなかったのだけれど、その音を聞いたときのことを思い出して、あれは地球の鼓動だったのだと気がついたと言っていた。それを聞いて、私も子供の頃、地球の鼓動が聞こえるような感覚をよく感じていたのを思い出した。それは、地球との一体感を強く感じる体験だった。だから、あれはおそらく、私たちが地球の鼓動とともに生きているということを感じるときに、内なる聴覚で音としてその鼓動を聞く体験なのだと思う。

一極支配の世界では、私たちはつねに頭で何がいいか悪いかを判断して、その通りに行動するようにされている。だから、地球の鼓動とともに地球の一部として共に生きている感覚を忘れてしまうのだと思う。何がいい悪いという判断で動くのをやめたとき、ただ「これがいい!」「これが楽しい!」と感じるままにそれぞれが生きているだけで、全体として見事なバランスを作り出すのかもしれない。まさに、全身の細胞が、それぞれにそれぞれのすることをして、完璧なバランスができているようにだ。

家畜の群れは、外から導かれるままにどこへでも従っていくだけだけれど、野生の群れの中の個体は、そんなパッシブなあり方をしているのではないはずだ。それぞれに好きなように動くと同時に、群れ全体の一部としても動いていく知覚を持っているのだと思う。魚の群れは、敵が現れたときに、一斉に身を翻して別な方向へ泳いでいく。あれは、一つ一つの個体が同時に群れ全体の知覚も共有しながら動いているとしか思えない。群れ全体としてのコミュニケーションのネットワークが存在しているのだと思う。

地球の鼓動が聞こえる感覚というのは、まさにそうした感覚で、地球全体を一つの生命体として認識し、その一部として、魚の群れのようにそれぞれの機能を果たしながら生きているという感覚なのかもしれない。

地球の鼓動とともに生きる感覚とは、生まれたばかりの子供を皆で見ているときのような、ただ生きていることがすごいというその感覚だ。何がいいも悪いもなく、ただ生きていることがすごいという感動。それこそがまさに、心臓が鼓動のたびに伝えている、あの生命のパルスだ。生きる喜び、とか生きがいとかいう言葉で言ったら、何だか特別なことをしたときに感じる満足感みたいに思うけれど、そんなのではなくて、単に生きていることがすごい、というあの感覚だ。

それで最後に、グラストンベリー・トーが地球全体の心臓になって、その鼓動が地球全体を包むトーラスを作り出しているのをイメージして、その地球を宇宙から見てみることにした。それぞれに、金色に光っている地球のイメージが出てきたり、赤と青の動脈と静脈のような網の目が鼓動とともに点滅しているのが見えたりしたのだけれど、ほとんどの人が感じたのは、地球が生きているという驚嘆のような感動、そしてその鼓動を、自分が一緒に作り出しているという感覚だったと思う。その地球は、泣けるくらいに美しかった。多くの人々が地球の鼓動とともに生きていることを忘れてしまい、地球は瀕死の状態だったのかもしれない。それが息を吹き返して、新しい生を得たのだというような感覚がした。

2012年の総選挙のあとで、私は絶望のあまり地球人でいるのが嫌になり、宇宙まで逃げていこうとしていたのだけれど、あのとき意識上で宇宙の真ん中まで行って、帰れなくなったことに気づいたとき、宇宙船に救い上げられて帰ってきたことがある。すべては意識上のイメージなのだけれど、とてもリアルな体験だった。真っ暗な宇宙の中で、星の一点ほどの光が近づいてくるのを見た瞬間、私は宇宙船の中にいて、窓から地球を見ていた。「あれが君たちの星だよ。美しいだろう?」とシルバーグレーの小さな人に言われた。それで私は、地球に帰ってくることにしたのだけれど、あのとき見た地球の美しさは、まさにその美しさだった。地球が鼓動しているのを感じたときの美しさだ。

あの経験のあと、次の夏に私はイギリス南部にクロップサークルを見るツアーに行き、グラストンベリー・トーに初めて登ったのだった。あれが地球のハートチャクラで、地球の蘇りのカギを持つ聖地だったとは、あのときは知らなかったけれど、思えばあれが、私の地球の封印解きの始まりだったのだ。


グラストンベリー・トー


聖ミカエルのレイライン


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セミナーの録画は、こちらで見られます。

第4回 ハートチャクラ グラストンベリー ケルト

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, November 21, 2023

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【頭と身体が一つになる】



地球の喉のチャクラは、エジプトのギザのピラミッドとスフィンクス、それにエルサレムのオリーブ山だそうだ。エルサレムとエジプトではずいぶん離れているようだけれど、地球全体から見たら、ほんの一点なのかもしれない。そこは、アフリカ、アジア、ヨーロッパの3つが繋がる地点で、だからある意味、地球の喉首に当たる部分なわけだ。

11月11日に現地からの生中継でオンラインで繋がって、ピラミッドの封印解きセッションを行なった。公開セミナー「多極化世界を意識で作る」の第5回では、そのあとできれいに開いたピラミッドの画像を使って、皆でそのエネルギーにアクセスしてみることにした。

喉のチャクラは、表現の力のセンターだと言える。声を使って語ること、歌うこと、怒鳴ったり叫んだりすること。声だけでなく、手を使って書くこと、絵を描いたり何かを作ったりすること、踊ることなども、すべて喉のチャクラの力に含まれる。

喉とは、何よりも頭と身体の繋ぎ目なのだ。脳と脊髄を繋ぐ部分が喉だ。頭とハート、頭と身体を繋ぐのが喉のチャクラだ。頭とハート、頭と身体が一つになっているとき、人は真実を感じたままに表現することができる。そういうときには、喉が開いて声がよく出るし、伝わる言葉、伝わる表現になっている。

しかし、支配者は、何よりもまず喉のチャクラを封じ込めようとするのだ。言論弾圧が、まず支配者が行うことだ。これはおかしい、こんなことは嫌だと思っても、それを表現できないように口をふさいでしまう。そんなことを言ったらひどい目にあう、軽蔑される、生活の糧を奪われてしまう、といった恐怖感を与えて、表現できないようにしてしまう。上から威圧するように見下ろす存在、監視する存在のイメージが、ピラミッドの上に描かれた目のシンボルによって、潜在意識に刻み込まれる。それによって、喉のチャクラは集合意識的に、封じ込められてきた。

ピラミッド自体も、支配権力の象徴であるかぎりは、おそらく喉のチャクラを封じ込めるものになっているのだろう。私たちは、心ではなく、頭で考えて行動するように習慣づけられている。心のままに行動したら、現代社会では生きていけないと言われている。何が正しいと言われていることなのか、何が悪いと言われていることなのかを、私たちは頭にインプットされていて、それに従って行動するようにされている。だから私たちは、心が何を感じているのかも、あまり意識しないようになり、それよりも、どちらの方が自分に得なのかとか、先行きどちらの方が儲かりそうなのかとか、そういう利己的な、目先の損得だけでものを考えて、判断し、行動しているようなところがある。

ギザのピラミッドの画像を使って、ピラミッドのエネルギーにそれぞれアクセスして感じ取ってみると、頭と身体が一つになったような心地よさ、頭で考える必要がなくなったかのように、頭から胸までが緩んで暖かくなる感覚を感じた人が多かった一方で、喉や頭が痛くなる人もいた。喉のチャクラの封じ込めは、松果体と第二頚椎の間のあたりにある。ちょうど脳と脊髄とが繋がる部分だ。そこに、まるで壁があって、流れが止まっているような感じになっていて、開けようとすると、口蓋の上の喉の奥の当たりや、頭の真ん中辺の松果体のあたりが痛くなってきたりする。

それは、現代に生きる私たちが、どれだけ頭の思考で心や身体を抑えつけてきたのかを表している。これまでに理不尽な扱いを受けてきても、まわりと調和を保つために、その思いを抑えつけてきた人がたくさんいる。それは、支配のしわ寄せとも言える。

封印が解けたピラミッドのエネルギーは、この封じ込めを解いてくれるのだ。頭で考えて、心を抑えつけなくてもいいのだと、頭を上げて、もっと大きい存在になってもいいのだと、そのエネルギーは私たちに伝えてくれる。

それで、うまく繋がれなかった人に手を挙げてもらって、皆でその人たちに喉のチャクラが開くエネルギーを送ることにした。第二頚椎のところが閉じている感じになっているので、それを水道の栓を開けるように開いて、流れができるイメージを作るとか、硬いツボミが開くように大きく開くイメージを作ってもらった。

ハートと頭の間の封じ込めが強い人は、理不尽な目に遭わされてきて、心のままに表現すると争いになるとか、ひどい目に遭うという恐怖感とか、それは自分勝手だとか悪いことだとかいう罪の意識が強かったりする。だから、そこが開きそうになると、開いたら大変なことになるという気がして、止めようとしてしまうのだ。それで、喉のあたりで二つの逆方向の力がぶつかって、喉や頭が痛くなったりする。

特に、自分勝手なんじゃないかというような思いがある場合、自分だとつい遠慮してしまう感じになるので、外すのはなかなか難しい。だけど、そういうときでも、他の人がジャンジャン送ってくれるとなると、受け取るのが容易になる。それに、他の人にやってあげる方も、遠慮がないから楽にできてしまうのだ。自分で受け取るのはなんだけど、人に与えるのなら、ジャンジャンできる。そうやって、人に与えていると、意識の領域では、同時に自分に与えることにもなるので、自分の喉のチャクラも解けてくる。

喉のチャクラが開くと、頭の真ん中の松果体のあたり、首から胸にかけてのあたりが、オーラが強くなって光り始める感じになる。そして何より、頭と身体がそれまで別々だったのが、一つにまとまった感じになるのだ。頭で考えていることと、心で考えていることの間に差がなくなる感じになる。頭と心、頭と身体が一つになって、首のあたり、ハイハートのあたりを中心にしたところに、その人の中心がある、という感じになる。

そして当人はというと、もう頭で考えていろいろ心配したり、行動を制限したりしなくてもいいのだ、というような、肩の力が抜けた感覚になる。だけど、抑えつけていた感情が噴出するわけでもなくて、ずっと穏やかに表情になっている。頭と心が一つになって、穏やかな感覚になっていたら、たとえ感じたままを表現したとしても、ちゃんと人に伝わるような表現になっているはずだ。それこそはまさに、表現する力の本当の意味だ。

それから最後に、世界中の人にピラミッドのエネルギーを送って、喉のチャクラを開けることにした。喉のチャクラが開いていたら、意識体としての私たちは、ピラミッドと同じくらい、あるいはそれよりもずっと大きいくらいにもなるはずなのだ。喉とは、天からのエネルギーと地からのエネルギーとを繋ぐものでもある。その二つが身体の中で繋がっているとき、私たちは意識体としてずっと大きくなり、高次元の意識で同時に考え、行動することができるはずだ。自分の目の前の損得などで判断して行動するのではなく。

すると、ピラミッドのところからトーラス状に大きなエネルギーの流れができて、それで世界中の人々の封じ込めが外れて浄化されたイメージが出てきたり、人々がピラミッドよりも大きな存在になって、もう支配されなくなっているイメージが出てきたりした。その大きさになってみると、これまでの支配のゲームが、バカバカしくなってしまうかのようだ。これまで何千年もの間、私たち人類は、どっちが偉い、どっちが正しい、だからどっちが従うべきだ、と争ってきたのだ。しかしそれは、頭とハート、頭と身体が切り離されていたからのことだった。頭と身体が一つになって、巨人のような大きさの意識体になっていたら、どっちが偉いもどっちが従うべきだもないことがわかる。皆、巨人のように大きな意識を持った存在なのだから。

頭と身体が一つになった状態を自分の中に感じ、他の人たちもそうなっているのを見ていると、支配している人たちもされている人たちも、頭と身体が別々になっているのがよくわかる。この人たちは、頭が言っていることを言っていて、心も身体も別なことを言っている。だから、何だかロボットか人形みたいに見える。こういう頭だけが言っている言葉は、やはり頭と身体が切れている人にしか、響かないだろう。だから、世界中の人々の喉のチャクラが開いてしまったら、もう人々を支配することはできなくなってしまうだろう。

喉のチャクラが封じ込められて、頭を抑えつけられるようにして支配されてきたのが、この何千年かの支配と戦いの歴史なのだとしたら、その時代もついに終わるときが来たのかもしれない。何人かの人が、ちょうど4日前くらいから、空気が軽くなったのを感じていた。4日前と言ったら、ちょうどガザでパレスチナとイスラエルの間で停戦が始まった日だ。確かにあのときから、世界の支配権力のバランスが決定的に変わったというような感覚がある。

これまでイスラエルは、まさに上から頭を抑えつけるかのように、パレスチナを攻撃して、人々を排除しながら領土を拡大してきた。だけど今度は、パレスチナがもはや抑えつけられるままにはなっていないことを示してしまったのだ。イスラエルは、ハマスとの戦いに勝っているように見せていたけれど、本当は、イスラエルはハマスに勝ち目がないことを、この停戦は世界にはっきりと示してしまった。

地球の喉のチャクラも開いてしまったのだから、もうこの流れは止めようがないのかもしれない。世界中の人々は、頭を抑えつけられるままにはなっていないのだ。実際、この数年で、世界中の多くの人々は、支配も戦争も、けっして人類の必然などではなく、一部の人間がしかけていたのにすぎなかったことを知ってしまった。支配されるままになってさえいなければ、もはや支配することができなくなっていることもだ。今回のパレスチナの紛争は、まさにそのことを示しているようだ。

10月21日に始まった新しい260日のツォルキンでは、世界から戦争が消えるのじゃないかと思ったのだけれど、その2回目の20日サイクルの間に、地球の喉のチャクラの封印が解けて、パレスチナが停戦になったのだ。これは、本当にそういう方向に世界が動いていることを示しているようだ。


封印が解けたあとのギザのピラミッド


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セミナーの録画は、こちらで見られます。

第5回 喉のチャクラ ガザのピラミッド、パレスチナ

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, November 28, 2023

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【アグン山で悪魔と出会う】



バリ島のアグン山は、光と闇のバランスを取る力があり、地球のバランスが崩れたときに、それを調和させるだろうと、バリヒンズーでは言われているのだそうだ。アグン山の封印解きセッションを行なったのが、3月のちょうど聖金曜日の日だったのも、偶然とは思えないものがあったのだけれど、今度の公開セミナーでは、何とクランプスというナマハゲそっくりな存在が出るオーストリアのお祭りの日にちょうど重なった。クランプスというのは、地獄から来た悪魔だと言われていて、悪い子は背負い籠に入れて、地獄に連れていくのだということになっている。だけど、クランプスが悪魔になったのは、カトリック教会が支配するようになってからのことで、もともとクランプスは、森の精霊とか森にいる祖霊のような存在だった。

バリ島は、光と闇の戦いが激しいダイナミックな土地だというのだけれど、アグン山のエネルギーにアクセスしてみると、それはまさに地獄の悪魔というか、閻魔さまに出会うようなエネルギーだった。これは、実際に体験してみないとなかなか想像できないと思うけれど、こういうエネルギーに触れるのは、破壊と再生を通り抜けて、芯から浄化されるような体験なのだ。

バリ島は、地球をまわる陰陽の2本のレイラインが交差する地点で、もう一カ所、地球の反対側で交差している地点は、アンデスのチチカカ湖だ。ここは第2チャクラのポイントで、世界を新しく生み出すような力だ。そして、その反対側にある交差地点のバリ島が、世界を一度破壊するようなエネルギーなのだ。破壊と誕生。それが、地球の東西の両極にある。

生命には、つねに破壊と再生がつきもので、だからこそ、世界は絶えず新しくなるのだ。地球全体でその破壊と再生の力を持っているのが、バリ島のアグン山とアンデスのチチカカ湖だということになるらしい。

だから、アグン山は地獄のエネルギーだと言える。しかし地獄とは、もともとは大地の循環作用の場だった。地上での生を終えた生き物は、土に還って、再び生み出される。その循環が行われるのが、地底にある地獄と言われる場所だ。そこは、地上の生での体験で染みついたトラウマだとか悪癖だとか罪の意識だとかいったものが、すべて浄化されて、新しく生まれ直せる状態になるような場所だと考えていい。

嘘をつくと地獄の閻魔さまに舌を抜かれると言うけれど、アグン山のエネルギーに触れたとき、自分についているどんな嘘も見抜かれてしまうような、まったく嘘がつけない存在の前に立たされるような感覚がある。現代社会で生きていると、私たちは自分に正直であるよりも、世間に押しつけられた価値観に従って生きていることの方が多い。悪いことだと思っても、生きていくためにはしかたがないと思ったりする。皆やっているんだから、と思ったりする。だけど私たちは、いよいよ死ぬというときになると、そうやってしがみついてきたお金だとか社会的地位だとか世間並みの生活だとかそんなものは、もうどうでもよくなってしまうのだ。そのときに直面させられるのは、自分の魂に正直に生きていたかどうかというだけだ。

臨死体験についての研究をしていた精神科医のエリザベート・キューブラー・ロスは、誰でも死ぬ前には、そういうプロセスを経験すると言っている。怒りや哀しみなどのステージを経て、最後には自分と和解し、調和するのだと。一度死ぬような体験をして生き返った人たちは、このプロセスを経験することで、人生がまったく変わってしまったりする。まさに、一度死んで生まれ変わったようにだ。

本当に生死の境をさまようような臨死体験でなくても、このままいったらもう死ぬ、というような危機状態に追い詰められたときでも、同様だ。もう死んでもいい、というところまで来て、いや死ぬくらいだったら、これまで追いかけてきたものをすべて捨てても生きていこうと思ったとき、私たちはまるで脱皮するみたいに、新しい人生を始めてしまえるのだ。これは、波乱な人生を歩んできた人ならば、身体で知っていることだと思う。

もう死ぬんじゃないかというところまで追い詰められるのは、私たちが何かしらもう不要になった何かにしがみついているときなのだ。だから、死ぬか生きるかというところまで追い詰められたときに、ようやくそれを手放して、新しい人生のステージを始める気になれる。そういうときには、手放したとたんに、新しい人生に快速で導かれていくようなことがある。これも、波乱な人生を歩んできた人は、よく知っていることだと思う。

それはある意味、電気が入っていない電気柵を越えて出ていくようなことだ。出る前は、出ていったら死ぬんじゃないかと思えるけれど、実際に出ていったら、ただ世界が広がっているだけのことなのだ。そのとき私たちは、それが自分で自分に設けていた境界にすぎなかったことを知ってしまう。

世界は今、袋小路に入り込んだような状態になっていて、そこから出ていかなければ、滅びていくしかないかのようだ。これまでは、利益を上げることが最優先にされてきて、私たちはお金を追いかけて、人を傷つけるようなことも自分を滅ぼすようなことも、平気でやるようにさせられてきた。何が価値のあることで、どうあるべきなのか、どういうのが世間並みの生活なのか、そういう基準を外から与えられて、それに従って生きていた。そして、それが本当に自分がやりたいことなのか、世界にとっていいことなのかどうかが、考えられなくなっている。そこから出ていくには、この世界を一度破壊して、新しく生まれ直させるようなプロセスが、必要なのだろう。そしておそらく、それこそが支配を越えていく唯一の道なのだ。

アグン山のエネルギーにアクセスする前に、ルートチャクラを開けて大地と繋がり、ネガティブな感情を調和するワークをやった。怒りとか憎しみとか恐怖、軽蔑、絶望や無力感といった感情を、私たちは「ネガティブな感情」と呼んで、持つまいとするのだけれど、内から湧いてくる感情と戦っている状態で、地獄の悪魔にアクセスしたりすると、そこで自分と戦い始めてしまったりするからだ。しかし、自分が持つまいと抵抗している感情を、完全に自分に許してしまうと、どんな感情でも、自分に対する愛に変わる。そこで、自分と和解するというか、自分のインナーチャイルドを抱きしめるような体験になる。

このワークを皆でやったとき、うまくいかなかった人に手を挙げてもらったら、子供のときに親との関係で深いトラウマを経験していた人が二人ほどいた。恐怖の感情をいくら許そうとしても、あまりの恐怖感に身体が硬直してしまうばかりだったと言っていた。現代社会とはまさに、このように子供が成長の過程で、ひどいトラウマを負わされるような世界なのだ。利益だとか職業だとか世間並みの生活だとかにこだわるあまり、子供が虐待されていても、誰も何もしないようなことになっている。そうした世界こそ破壊して、新しく作り直すべきなのだ。

それから、アグン山の画像から、そのエネルギーにアクセスして、山の中、地下深くに降りていって、そこにいる存在に出会い、世界をどうしたいのか、自分の本当の望みを言ってみることにした。自分の魂にまったく嘘がない状態でなら、どんな望みを言っても、危険はない。実際、アグン山のエネルギーに触れたら、利己的な望みなどは、考えることさえできなくなる。

アグン山のエネルギーに深くアクセスするのは、自分の魂の深いところで、自分と和解するような体験だ。魂の芯まで浄化される感覚だと言ってもいい。地下深く入っていったら、マグマが煮えたぎっていて、そこに浸かると、温泉のように心地よくて、身も心も浄化される感じだったと言っていた人もいた。悪人たちは、地獄の釜で煮られるというけれど、地獄の釜とは、実はそういうものだ。魂の芯まで浄化する温泉のようなものだ。

アグン山の悪魔は、友達になるような存在だとわかったと言っていた人もいた。恐ろしく思えるけれど、実はこれほど頼りになる最強の相棒はいない。それは、つねに自分に正直に生きていけるように、力を与えてくれる存在だと言ってもいい。また、これまでずっと耐えなければいけないと思ったのが、もう耐えなくていいのだとわかって、まるで殻がむけたゆで卵のようにツルピカになって、歌ったり踊ったりしたい気分になったと言っていた人もいた。

それから、このアグン山のエネルギーに皆が繋がれるように、世界中に送ることにした。山からそのエネルギーが噴き出して地球全体を包むようにするなり、そのエネルギーを玉に入れて、世界中の人に送るなり、あるいは地下のマグマを通して、そのエネルギーが世界中の人に伝わるようにしたりした。

すると、アグン山の悪魔が大きな袋の中に世界中の人たちの闇を集めて、地獄へ持っていってしまったようなイメージが現れた。実際、今、世間の価値観に従ってこのまま何でもやっていたら、「地獄に堕ちる」ようなことになるのだろう。そのプロセスで、自分の魂に正直に生きることに目覚めていく人も増えるだろう。悪魔に闇を持っていってもらえば、多くの人は、新しい世界で、新しい生を得たように、新しい生活を始めていけるのだと思う。

封印解きセッションをやったとき、アグン山のエネルギーを解放するのは、まるでミヒャエル・エンデの「モモ」で、盗まれた時間の貯蔵庫の扉が開いて、時間が人々のところに戻るようなことだと思った。それまで外から与えられた基準で、せっせと貯め込んで生きてきた人たちが、急に自分を取り戻して、我に返るというような感じのことだ。私たちはこれまで、もっともっとと何かを貯め込むように生きてきて、結局のところそれが、たがいに生きづらい世界を作っていくことになっていたことに気づいていなかった。しかし、アグンの悪魔に出会ったとき、私たちは、そんなことには何の意味もなかったことに気づいてしまう。そして、それを手放したとき、本当に豊かな生きやすい世界が生まれていくことになるのだと思う。


バリ島アグン山


熊野のおながみの森の磐座
ルートチャクラのポイント


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第6回 地球のゲート バリ島アグン山

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, December 5, 2023

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【頭頂チャクラは、高次元からのナビゲーターだ】



地球の頭頂チャクラは、チベットの聖山カイラス山だという。ここは、カイラス水晶という特別な水晶の産地で、この水晶は、澄んだパワフルな波動を発している。標高6656メートルの高山は、この水晶の力を発しているのだ。第7回目の公開セミナー「多極化世界を意識で作る」では、このカイラス山のエネルギーにアクセスして、地球の頭頂チャクラを皆で解放することにした。

頭頂チャクラというと、ここが開いたら、宇宙意識と繋がって、アカシックレコードからの知識が入ってきたり、宇宙の深遠な真実が見えたりするのだろうと思われている。だから、やたらに開けたりすると大変なことになると言う人もいる。だけど、実際にカイラス山のエネルギーにアクセスしてみると、そんなものではないことがわかる。頭頂チャクラの力とは、むしろ高次元からのナビゲーターのようなものだと言える。

次元移動のセミナーで、地上にいる自分を上から見てみるというワークをやったことがある。地上に生きている私たちは、目の前に壁があると、もうどうしていいかわからなくなってしまう。だけど、ずっと上から見てみたら、どこに抜け道があるかは、ちゃんとわかるのだ。実はふさがっているのは目の前だけで、他は全部開いていることがわかったりもする。

頭頂チャクラの力とは、そのように、上から自分の置かれている状況を見て、危険なのかそうでないのか、どの道が正しいのか、といったことを見抜く力だと言える。野生動物は、こうした感覚をちゃんと持っていて、直感的にどっちへ行けば餌があるのか、危険を避けるにはどうすればいいのかが、ちゃんとわかっている。野生の直感というやつだ。渡り鳥は、どこをどう行けば、ちゃんと目的地に着くのかわかっているし、魚の群れは、敵が襲ってきたときには、まるで群れ全体が一つの巨大な生き物であるかのように、身を翻す。あれは、一匹一匹が、自分の状況だけでなく、全体の状況を上から見ているかのように、感知しているからなのだろう。

私たち地上に生きるすべての生き物は、実はそのように、常に導かれ、守られていく。頭頂チャクラとは、そのセンサーなのだ。だから、それは地上に生きている私たちを導いていく高次元のナビゲーターのようなものだと言える。

頭頂チャクラとは、頭頂のところにあると思われているけれど、頭頂を意識してみても、そこが開く感覚はつかみにくい。実際には、頭頂チャクラの中心は頭の真ん中、松果体があるあたりだ。とにかく、その辺を意識すると、開く感覚がわかる。松果体のあたりに中心があって、そこが開くと、頭頂を通って、宇宙まで繋がっている。それが、高次元ナビゲーターの受信器なのだ。

それでまず、カイラス山のエネルギーにアクセスする前に、カイラス水晶の画像から、水晶のエネルギーにアクセスしてみた。すると、頭がすっとして、雑念が消える感覚がしたり、頭から胸のあたりまでが暖かくなって緩む感覚だったり、ハートのあたりから頭頂までが繋がって、一本の柱のようになった感じがしたりする一方で、頭や目や身体のあちこちが痛くなったという人がけっこういた。

頭頂チャクラは、高次元からのナビゲーターだと言ったけれど、ここは一番封じ込められているところでもある。私たちは、こうしなければならない、これが正しい、という情報を常に外からインプットされ、刷り込まれてきている。何が正しいのか、何が危険なのかという判断は、自分でするべきものではなく、先生だとか政府だとかテレビだとか、そういう権威的な筋から来るべきものだと思わされている。だから、頭頂チャクラが活性化してくると、こんな力を自分が使ってはいけないのじゃないか、これは危険なのではないか、という不安感が潜在意識から上がってくるのだ。それで、内側から湧いてくる力と、外から抑えようとする力が衝突して、身体のあちこちが痛んだりする。それは、封じ込めが解けて、本来の力が解放されていくプロセスだ。

それから、カイラス山の画像を使って、そこに自分が立っているようにイメージして、そのエネルギーに遠隔アクセスした。そのときに、山の中にカイラス水晶があるようにイメージして、そこに満月の光が当たって、水晶が浄化されているイメージを作ってもらった。

痛みが緩んで消えていき、すっと開いた感覚、上半身が繋がって、軽くなり、光に満たされた感覚になったりした。参加者のオーラも変わっていて、頭のあたりが白い強い光を発している感じになっているし、目が澄んだ光を放っていた。

私たちは、頭で考えていると思っていて、頭と心の思考はずれているものだと思っている。それでいつも、頭と心とが戦っているのが普通の状態だと思っている。だけど、頭頂チャクラが開いてくると、頭と心はもともと一つだったのだということに気づく。ハートから頭へ繋がる部分が、一本の光の柱のようになっていて、その柱が思考し、判断しているのだ。頭と心が、同時に「一つの自分」として思考している。そもそも頭と心は分離しているものではなかったのだ。そのように思い込まされていただけだった。

まさにこれこそは、頭頂チャクラの封じ込めだったのだ。支配者は、何よりも頭頂チャクラを封じ込めて支配しようとする。何がいいのか悪いのか、そういう判断は個々人がするべきものではないとして、権威の言うことに従うべきだとしている。私たちは、そうやって、先生やテレビや学界や政府が言ったことに従うように条件づけられている。そしてそのインプットは、頭から入ってくるのだ。それで、頭が心を従わせようとして、つねに争っている状態になっている。頭と心が分離しているのは、まさにそのためだったのだ。私たちの頭頂チャクラがキャッチしている状況とは違う内容が、絶えず外から押しつけられているからだ。それは、高次元のナビゲーターをハッキングして、外から操作しているようなものだとも言える。

この数年で、かなり深い心理操作術が、メディアなどを通してわりと普通に行われているということが、表に出てきていた。いわゆる洗脳テクニックというものが、新興宗教みたいな組織だけでなく、日常的にテレビや広告、ネット情報や講演会なども含めて、いろいろな形で使われていて、大衆意識を操作しようとしているということがだ。基本的な心理操作の手法は、恐怖のイメージを繰り返し与えると同時に、危険を回避する道を指し示すというやり方だ。危険を察知して、それを回避する道を感じ取るのは、まさに頭頂チャクラの力なのだけれど、偽の恐怖のイメージを繰り返し見せられると、頭頂チャクラのセンサーが狂ってしまう。そして、目の前に差し出された解決法に突進してしまうことになる。

そのやり方で、多くの人に自分から毒を摂取させたり、勝ち目のない相手を敵にして戦争をしかけさせたり、平和的な人々を敵と思い込ませて攻撃させるようなことさえできてしまうのだということを、この数年で私たちはさんざん見せられてきた。作られた恐怖に反応して、頭頂チャクラが乗っ取られた状態になっている人には、何を言っても話が通じない。そういう人は、頭の真ん中のあたりがモヤモヤとして、固まったような状態になっていて、目はどこを見ているのかわからないような、モヤモヤした目つきになっている。まさに目の前が見えていない状態になっている。

そういう心理操作がしかけてあるものを見たりすると、頭の真ん中のあたりがボォっとして痛んだり、首筋や肩のあたりがガチガチになったりする。これは、外からインプットされた情報が虚偽のもので、それに従うのは危険だということを、頭頂チャクラのセンサーが感じ取っているからだ。

カイラス山にアクセスして、頭頂チャクラが開いてくると、自分がこれまで、やっぱり外からインプットされた「こうしなければ」という思考に支配されてきたことに気づく。頭で考えるな、ということがよく言われるけれど、やっぱり頭で、理屈で考えていたということに気づく。頭で考えるということは、外からインプットされた「こうしなければ」が、心の思考とはずれているのに、それに心や身体を従わせようとしているということなのだ。すると、頭から首筋、肩のあたりがガチガチになる。頭頂チャクラが開いて、それが緩んでくると、あの「頭で考える」というのは、本当に頭で考えていたわけではなくて、頭が外からのインプットを受け取って、それに身体を従わせようとしていただけなのだと気づく。それがまさに、上から降りてくるピラミッド型の支配構造の根底にある。

それから、すっきり開いた感じにならなかった人に手を挙げてもらって、その人に皆でカイラス山のエネルギーを送ることにした。その人は、目や腕が痛くなって、すっきりした感じがしないと言っていた。目はスッと通ったような澄んだ光を発していたので、頭頂チャクラが開いてきてはいるのだけれど、心理的なブロックが強いようなのだ。こういうときは、自分で受け取ろうとしても、なかなか繋がれないので、人に繋いでもらうのが早い。

すると、その人がとてつもない大きさになったイメージが出てきて、また一方で、子供のときのトラウマでバリバリに封じ込められていたようなイメージも出てきた。そのトラウマが固い殻のようになっていて、それが割れて崩れていくときに、身体のあちこちが痛むようなのだ。心臓のあたりが糸でギリギリ縛られていたイメージや、腕に鋼のようなものが入っているイメージを見た人もいた。それを切って取ったら、その人のイメージがまるで巨人の大きさになったとそうだ。それで、うまく封じ込めが解けて、痛みが緩み、開いてきたようだった。

それから最後に、カイラス山のエネルギーを世界中の人が受け取れるように、送ってもらった。頭頂チャクラがどこまで開くかは、どこまで広い視野を必要としているかにもより、国全体、地球全体の状況をキャッチする人は、本来ならば、数人いれば間に合うといったようなものなのだろう。人間は群れの原理で行動するから、正しい方向へ導いていくだけのセンサーを持っている人が何人かいて、あとの人たちは、それが正しい方向かどうかがわかるくらいの感性が持てればいい。ところが今は、導くべき人間が乗っ取られていて、危険な方向へ導いていこうとするから、一人一人が自分で情報をキャッチして、判断しなければならないようなことになっている。それはあるいは、人類が進化するためのプロセスなのかもしれない。

カイラス山のエネルギーを世界中に送ったら、世界中の人々の頭頂チャクラが開いて、それぞれ高次元からの信号を受け取り始めたようなのだけれど、その中でも何人かの人たちは、宇宙まで届くような大きさになった。日本列島だったら、4人くらいがやっと並んで立てるくらいの大きさにだ。これは、頭頂チャクラがそれくらいの大きな視点で状況を見ることができているということを意味しているらしい。これくらいの人数の人が、これくらいの大きさになれていれば、日本は世界は、大丈夫だということらしい。

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カイラス産水晶


カイラス山


セミナーの録画は、こちらで見られます。

第7回 頭頂チャクラ カイラス山 チベット

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, December 12, 2023


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【肚が据わると、サードアイが開く】


モスクワの衛星画像



モスクワは、地球の6つのチャクラと6つのゲートがすべて開いたときに、初めて開く13番目のゲートなのだそうだ。チャクラが7つではなくて6つなのは、サードアイのチャクラが一定していなくて、今のところはハートチャクラであるグラストンベリーが兼ねているからだ。だから、地球のすべてのゲートが開いて、モスクワのゲートが開いたら、あるいはモスクワが新しいサードアイのチャクラになるのかもしれない。実際、封印解きクラブでモスクワのゲートを開けたときには、最後にはサードアイが開いた感じになっていた。

モスクワの衛星画像から、そのエネルギーにアクセスしてみると、エネルギー的には第3チャクラからハイハートのあたりまでが活性化する感覚だ。セミナーの参加者にそれぞれそのエネルギーを感じ取ってもらうと、やはり多くの人は、「肚が据わる」感覚だと言っていた。肚がどっしりして、安心感に満たされた感覚だと言っていた。

第3チャクラの力は、まさにこの「肚が据わる」感覚なのだ。漢方では、肝臓がこれに当たる。これは、自分の望みを実現する力であり、火の要素、陽のエネルギーだ。その一方、自分の望みを実現する自由を守るための、怒りや攻撃性の要素もあり、また自分の自由が妨げられるときに、その状況を受け入れる忍耐や寛容の力でもある。

どうにも思い通りにならないような、理不尽な状況にぶつかることが、世の中にはたくさんある。今の世界の状況だって、あまりに理不尽なことばかりだ。たとえ戦ってもどうにもならないような状況で、いったい何ができるのか? 長い歴史の中で、人類は絶えずその課題を突きつけられていたようなところがある。

いくら自分の望みを実現しようとしても、妨害に遭ってどうにもならないようなとき、妨害してくる相手のありようをそのままに受け入れてみるしかないこともある。そうしたとき私たちは、これが唯一正しいと思い込んでいたことでも、実は別な価値基準で動いている世界があることを知ることになったりする。世界はまだ広いのだということを知るのだ。それこそは、意識を広げ、世界を広げるプロセスだ。そうしたとき、私たちは、これまでとはまったく違うアイディアで、世界を新たに創造し直すことになる。それこそは、新しいものが生まれるときであり、異なるものとの間に調和が生まれる瞬間でもある。

モスクワのエネルギーを感じ取ってみると、まさにそうした力があるのがわかる。理不尽な状況を受け入れることで、新たな調和の形を作り出していく、肚力と創造性。モスクワは、つねに異民族が衝突する場所だった。ヨーロッパ的なサンクトペテルブルクとは違って、モスクワは、アジアとヨーロッパの文化圏が重なり、ぶつかり合う場所だった。中央アジアの遊牧民族、タタール人たちに征服されていたこともある。東と西、キリスト教徒とイスラム教、農耕民族と遊牧民族。異なる文化、異なる民族がぶつかり合い、理不尽な暴力が加えられるとき、あり方を変えてでも、何とかして調和の形を探すしかなくなる。多くの都市が、一つの宗教、一つの文化を強制する形で、一極支配の構造を保とうとしてきたのに対して、モスクワはそれぞれのあり方を認めつつ、調和を保つ形を探してきた。それが結果的に、ヨーロッパから極東にまで至る広大な帝国に発展することにもなったのだ。

衛星画像からモスクワのエネルギーにアクセスしてみると、空から黄金色の雪のようなものが降ってくるイメージや、大勢の人々が花びらのようになって、手を繋いでぐるぐると回っているイメージが現れた。金色と銀色が混じったようなとても美しい不思議な色を見た人もいた。竜巻のように回転するイメージ、あるいは毛糸玉のようにぐるぐると回って暖かく包むようなイメージが出てきたりもした。

モスクワといったら、北の街で、暗ったいイメージがあるけれど、エネルギーにアクセスすると、これが意外にカラフルで明るい光のようだ。黄金色や黄色のイメージは、第3チャクラの色、太陽の光の色のようでもある。ぐるぐる回転するイメージは、二つの力がぶつかったときにできる螺旋状の運動、陰陽が回転して電流になる、あの運動のようでもある。対極の力がぶつかったとき、たがいに消し合うのではなく、ぐるぐると回転し始めて、大きな推進力になる。そうした力を表しているようでもある。どちらかが主役になるのではなく、どちらも対等だからこそ、大きな力が生まれ、大きな運動が生まれる。モスクワのエネルギーの生き生きとした明るさは、そうした大きな動力から来るのかもしれない。

モスクワのエネルギーにアクセスしたとき、私に見えてきたのは、この街が経験してきたとてつもない理不尽な扱いのことだった。ロシア革命も、実はアメリカの金融グローバリストに政治工作員を送り込まれて、起こされたクーデターだったと言われている。その後の残虐ななりゆきからして、おそらくそうしたことだったのだろう。つまり、帝国を乗っ取られたのだ。そして、第二次世界大戦では、ナチ化したドイツにモスクワまで攻め込まれて、国民の7人に一人が死んだというほどの犠牲を経験した。それでも追い返して、勝ったのに、戦後すぐに冷戦状態になり、西側諸国に敵扱いされて、何かにつけて悪く言われてきた。しまいにソ連が崩壊させられて、政権が乗っ取られ、とことん腐敗させられた。それがプーチン政権になって、国の主権が立て直されたら、今度はウクライナがナチ化させられて、ドンバスの戦闘が起きた。何故こんなにと思わざるを得ないほど、モスクワは次から次へと、どうしようもなく理不尽な扱いを受け続けてきた。

そうした記憶が現れてきたあとで、resilience レジリエンスという言葉が降りてきた。レジリエンスとは、押しつぶされたあとで、元の形に戻ろうとする弾力性、復元力のことを言う。モスクワは、乗っ取られ、攻撃され、メチャメチャに破壊されても、必ず元に戻ろうとする強い弾力性を持っているのだ。それは、ロシア革命で帝国を倒されたあとでも、第二次世界大戦の頃までには、産業が復活して、ナチ化したドイツを追い返せるほどの軍事力を持っていたということであり、冷戦状態にされながらも、宇宙開発や舞台芸術、スポーツにいたるまで、世界に群を抜いて発展させていたという事実だ。

ソ連が崩壊させられて、腐敗と貧困の10年間を過ごしたあとで、プーチン政権ができて、数年のうちに経済を立て直したこともそうだし、ウクライナへの軍事介入が始まってから、西側諸国に経済制裁とメディアキャンペーンで猛攻撃を受けつつも、それをかわして、逆に西側経済が自ら崩壊するように追い込んでしまったこともそうだ。

他の街だったら、乗っ取られたまま、支配されたままになっているところかもしれない。しかしモスクワは、どれだけ乗っ取られ、支配され、破壊されても、しばらくすると、再び復元力で大きくなり始めるのだ。それはまさしく、このレジリエンスの力のせいなのだろう。それこそが、地球のゲートであるモスクワの力なのだ。

それから、モスクワのエネルギーをそれぞれに世界中に送るワークを皆でやった。モスクワのエネルギーを光の玉に入れて送るなり、黄金色の雪や雨にして降らせるなり、モスクワを中心にトーラスを作って、世界中に行き渡るようにするなり、なるままにやってもらった。

すると、炭酸水の瓶を開けたときに、炭酸が泡になっていっせいに上がっていくように、どうしようもない力で人々が上に上がっていって、上に出ると宇宙存在のようなものに暖かく歓迎されるというイメージを見た人がいた。これは、次元上昇を表しているようだけれど、人々は努めて登っていくのではなくて、どうしようもない力でシューッと上がっていってしまうというのだ。これはある意味、封じ込めが解かれ、抑圧がなくなったとき、自然に起こることなのかもしれない。

私たちは今まで、意識が低いから次元上昇できなかったのではなくて、抑えつけられていたから、上がれなかっただけなのだ。栓がしてある炭酸水のようにだ。すごい圧力で抑えつけられているから、出てこられないだけで、栓が抜かれて、圧力がなくなったら、いっせいに上がって外へ出ていく。それがまさに、レジリエンスの力なのだろう。抑圧が解けさえすれば、とたんに元の大きさに戻っていく。それこそが、私たち人間の本当の大きさだからだ。

私は、モスクワを中心にしたトーラスでもできるのかと思ったら、そうではなくて、モスクワの竜巻のようなエネルギーの柱がアンテナになって、他の場所にある同じようなアンテナに、そのエネルギーが送られていくイメージが現れた。そして、その繋がりが世界中に広がっていったのだ。一つのアンテナがエネルギーを受け取って活性化すると、そのまわりに同じような竜巻型の柱がたくさんできてくる。そうやって、世界中に広がっていく。おそらく、これこそが多極的なあり方なのだろう。トーラスのように、一つの中心があるわけではないのだ。点から点へと繋がっていき、次第に大きなネットワークができていく。

その中で、人々はそれぞれの素の形を取り戻して、生き生きしていくようだ。ありのままであることで、創造力が自然と最大限になっているようなあり方。そうしたことは、これまで不可能なこと、あり得ないことのように思えていた。しかしモスクワのゲートが開いたあとでは、そうでなかったことの方が、不自然なことだったように思えてきている。

モスクワのエネルギーを世界に送るワークのあとでは、参加者の額のあたりが明るいエネルギーを放射し始めていて、サードアイが開いたのがわかった。やはり、モスクワが地球の新しいサードアイのチャクラになるのだ。このレジリエンスの力を取り戻すこと。これこそが、これまであまりにも理不尽に支配されてきた世界を永久に解放する力だ。これが解放されれば、もはや人間はたがいに支配し合うこともなくなるのだろう。そして、それこそは新しいルネッサンスの始まりになるのだろう。まるで栓を開けた炭酸水のように、否応もなく上がって弾けていく力が、もはや止められなくなるのだろう。

10月21日に新しいツォルキンが始まってから、「多極化世界を意識で作る」と題した公開セミナーを企画して、8回に渡って、地球のチャクラとゲートにアクセスして、そのエネルギーを解放してきた。そのたびに、世界の空気がどんどん軽くなっていく感覚を感じていた。最終回をやったのが、ちょうど冬至の数日前で、一年で最も暗いときだったわけなのだけれど、その数日前から、何だか世界がもう明るくなり始めているような感覚を感じていた人がたくさんいた。最後にモスクワのエネルギーを解放したのは、ついに炭酸水の栓を開けたようなものだったのかもしれない。

これまでのグローバル経済の流れからして、2024年にはこれまでの世界の構造を根底的に変えてしまうような変化が起こることは、確実だ。おそらく経済の領域だけでなく、いろいろなレベルで大きな転換が起こっていくのだろう。それは、世界経済がどうこうということだけではなくて、根本的に、私たちがもはや支配されないだけのレジリエンスの力を得てしまうからなのかもしれない。

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セミナーの録画こちらで見られます。

第8回 地球のゲート モスクワ

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Tuesday, December 19, 2023


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