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雷の刻印【全8話】 8.雷の刻印

次の日。

フェンデルが旅立つ朝、イコルは見送りに出てこなかった。

「イコル様から、お気を付けてとの伝言を預かっています」

侍従が無表情のまま、淡々と短くフェンデルに告げた。

「私こそよろしくお伝えください。このご恩はきっといつか果たしにまいります。」
フェンデルは深々と頭を下げると屋敷を後にした。

私は昨日の夕食の席から姿を見せないイコルのことが気がかりではあったが、まずはフェンデルを見送ろうと思った。歩きだすフェンデルの後を私はスタスタとついていく。

「見送ってくれるのか?お前は本当に賢い猫だよな」

そういってフェンデルは私の頭をなでた。
長い、長い山道を下り、もう少しで町が見えてきそうな時だった。あれだけ晴れていた空が一転して急激に暗くなった。

「山は天候が変わりやすいというからな。急がねばならないな」

フェンデルは空を見上げると歩く速度を上げた。

私も空を見上げた。

おかしい。

いくらなんでもこんな急激な天気の変わり様を私は知らない。

なにか……なにか……胸騒ぎがする……。


私がそう思った時……雷鳴と共に稲妻が走った。

私は驚いてとびのいた。稲妻はまっすぐにフェンデルを貫き、彼は私の目の前で崩れるように倒れた。

そして人の気配を感じて振り返ると……そこにイコルが立っていて、倒れたフェンデルを無情に見下ろしていた。

「帰さない……。あなたを婚約者のもとになど……二度と帰さない……」

そうつぶやくイコルの表情は今まで見たこともないほど、無慈悲で、悪意に満ちていた。

イコルが呪文を唱えると、足元の地面がもりあがり、土人形が二体あらわれた。連れておいき、とイコルが命令すると土人形はボロボロと土をまき散らしながら、フェンデルを担ぎ上げて屋敷へと運んでいった。

イコルは城にもどると侍従にフェンデルの世話を指示してから、屋敷の奥の部屋へまっすぐに向かっていった。

そこはイコルが「アルケミの部屋」と名付けた、薬を調合するために使っている部屋だった。唯一、イコルが薬の調合という、魔女らしいことをする場所だと私は認識していた。

ここは、危険なものが多いからと私がここに入ることをイコルは快く思っていない様だったし、私も興味がなくほとんど足を踏み入れたことはなかった。たしか、部屋の棚には黒真珠の粉や、ヤモリの干したもの、様々な草花からとったエキスが瓶に入って整然と並んでいる怪しげな部屋であったと記憶していた。

私はイコルが今回、フェンデルへしたことについて強く抗議したかった。

思いが届かないからといってイコルのしていることは明らかに間違いだ。そう憤慨しながら伝えようとイコルに続いて私が部屋の中に入ろうと一歩踏み出したとき……。

ボンッ!

何か見えないものにはね返された。

(なんだ……これは?)

扉の先に薄く光る壁のようなものがあり、それが私の行く手を阻んでいた。

(今までこんなものはなかったぞ?)

動揺する私をイコルはしばらく冷たい目つきで見ていたが、そのまま扉を閉めた。

イコル、お前はいったいどうしたのか……

中で何をしようとしているのか……

フェンデルに雷を落としたことといい、見えない壁を作り、私をあんな冷たい表情で拒否したこと……

今までのやさしいイコルからは考えられない行動だった。

さっきよりもさらに嫌な胸騒ぎがして私は何度も扉をひっかき、イコルを呼び続けたが、彼女から中から応えることはなかった。

◇  ◇ ◇ ◇

イコルが部屋から出てきたのは三日後だった。

待ち構えていた私を見たイコルは一瞬、ハッとしてから目をそらしたが、すぐに顔を上げるとまっすぐにフェンデルの部屋へと向かった。

後に続いた私は、イコルが何か瓶のようなものを持っていることに気が付いた。
フェンデルはあれからずっとベッドで眠り続けていた。イコルはフェンデルの横に座ると、真剣な顔で、手に持った瓶の中身を寝ている彼に少しずつ飲ませた。

「けほけほ」

フェンデルの周りに紫の気のようなものがグルグルと回る。そして一気に彼の身体に吸い込まれたかと思うと、フェンデルは目をさましてイコルを見た。

イコルを見つけたフェンデルの目は、くぎ付けになったかのように途端に大きく見開かれ、その顔はみるみる赤みを帯びたかと思うとうっとりした表情になった。そして言ったのだ。

「イコル様……あなたはなんて……美しいのでしょう……」

その言葉に、イコルはホッとしたような表情になった。

(なんてことを……)

これは「惚れ薬」だ、と私はピンときた。本に惚れ薬のことがいくつか書いてあるのを読んだからだ。

「ニャー、ニャー!」
私が声を上げて抗議しても、イコルには届かなかった。

目を覚ましてからのフェンデルは惚れ薬の効果なのだろう、まるでイコルの下僕のようだった。

人が変わったように、イコルの後をついてまわり、彼女をほめたたえて、常に愛をささやいた。

あんなにうれしそうに婚約者の元へ帰ろうとしたことなど、まるで忘れてしまったかのようだった。

イコルは満足そうにフェンデルの愛を受け入れ、それから二人は片時も離れることなく昼も夜も一緒に過ごすようになった。

反対にイコルは私を無視するようになった。
私と目が合うと後ろめたそうに目を逸らし、話しかけることも膝に乗せて撫でてくれることもなくなった。
そんな二人を、何もできずにただ見守るしかなかった。

そしてそんな日々がどれくらい続いただろうか……。

やはり薬で作り上げられた関係はどこか無理があったのだろう。

次第に二人の関係は歪みはじめた。

まず、フェンデルの様子がおかしくなり始めた。
あれほどイコルに付きまとっていたのに、気が付くと一人、庭園で座っている時間が多くなった。

不思議に思って私がフェンデルの膝の上に上がってすり寄り、のどをゴロゴロと鳴らすと彼が辛そうにポツリと言った。

「私はイコル様のものだ。よくわかっているのに……あの女が……私の心から離れない」

見上げた私はフェンデルの瞳から生きようとする光が失われていることに気が付いた。
まるで生きた人形のようだった。
私がなぐさめるように彼の手を優しくなめ続けると、フェンデルは時々涙を流すようになった。

イコルもまた、そんなフェンデルを遠くから無表情に眺めることが多くなっていった。

◇  ◇ ◇ ◇

ある日、私が森を散歩していると若い女を見つけた。
上等な服を着ているのにあちこち泥だらけで、長い間森をさまよっているのがその姿だけで分かった。
「ニャー」
私が挨拶すると娘がうずくまって私をなでた。

「まあ……こんなところでこんなきれいな猫ちゃんに会えるなんて……。私、この森で行方不明になった婚約者を探して迷ってしまったの。猫ちゃん……知らないかしら……。金髪に青い目、いなくなったときは銀色の鎧を着ていたはずなの」

フェンデルのことに違いない。この女はきっとフェンデルの婚約者なのだろう。
「ニャー」

私は鳴いてこっちだ、と自慢の長いしっぽを振った。

「知ってるのね?」

娘はそういって私についてきた。私は娘をフェンデルの元へと誘導した。
たどりついた娘は庭園で座り込んでいるフェンデルの姿を見つけるとうれしそうに駆け寄り、涙した。

「フェンデル様!ご無事でしたのね。どんなに……心配したことか……」

娘の姿を見たフェンデルは驚き、どうしたらいいのかわからないのか、その場で固まったまま動かなくなった。
「フェンデル……様?」

何も声を発さないフェンデルに娘が不思議そうな声をかけた。

フェンデルは思いつめた表情になるといつも携えている剣をゆっくりと抜き、娘に刃を向けた。

自分に向けられた剣に、娘が悲痛な声をあげた。
「フェンデル様っ!何をなさるのです!」

(だめだ。こんな間違ったこと、させてはいけない!)

私は屋敷へ全速力で走り、イコルを見つけると彼女の服に爪を立て、一気に身体に駆け上がった。

そしてイコルの耳元で一際大きく鳴いた。

「どうしたの。何かあったの?」

イコルは私の行動に異変を感じ、窓から顔を出して、フェンデルと娘の姿を見つけた。
フェンデルは悲しそうな顔を娘に向けると絞り出すように言葉を吐き出した。

「お前さえ……お前さえ私の心からいなくなれば……私はイコル様にすべてをささげられるものを……なぜ……なぜ……お前は私の心に消しても、消しても入ってくるのだ……。お前を思い出すと、なぜこんなに胸が引き裂かれるように痛むのだ……。お前など……この世から消えてしまえ……」


何度もフェンデルは剣を振り下ろすが、スローモーションのようにゆっくりで、力はまるで入っていなかった。

薬で作り上げられた気持ちは娘を襲おうとし、本物のフェンデルの気持ちはとどめを刺すことに躊躇し、その二つの思いがフェンデルの中で葛藤しているようだった。

声も、振り上げた剣を持つ腕も震え、その眼には光るものが見えた。

「私が……そんなに憎いのですか?何がフェンデル様を変えてしまったのですか?」

娘も涙を浮かべて何度もその剣を避けながら聞いた。
その内、娘はフェンデルの中の、何かわからない苦悩を感じとったのか、逃げるのをやめて言った。

「フェンデル様がいないこの世は私にとって何もないのと一緒です。フェンデル様のお気がすむのなら……いっそどうかその剣で私の胸を貫いてください」

娘はその場に座り、祈るように胸の前で手を組んで目を閉じた。
フェンデルはしばらくためらっていたが、やがて意を決したようにゆっくりと剣を振り上げた。

その時……。

雷鳴と共に稲妻が走った。

音と光がおさまるとそこにフェンデルが倒れていた。
「フェンデル様!」
娘が駆け寄った。

イコルがフェンデルに雷を落としたのだ。


イコルは屋敷から出てくると、倒れたフェンデルとすがりつく娘をしばらく悲しそうに見下ろしていた。

そして、しばらく目を閉じ、考えていたようだったが、何か決心がついたのか、はっきりとした声で言った。

「死んではいない。急所は外してある」

今まで聞いたこともないようなイコルの冷たい声だった。

そして何か長い、長い呪文をフェンデルに向かって唱えると彼の身体から紫の気のようなものが立ち上って消えて行った。

「この者にかけた魔法は今、消え去った」

そして二人に背を向けると言った。
「侍従!」
「はっ!」
イコルの声にいつの間にか侍従がそこに控えていた。

「この男は用済みだ。土人形にこの男を運ばせる。お前はこの娘とこの男を町の入口まで確かに送り届けろ」

イコルが呪文を唱えるとたちまち足元の土が盛り上がり、二体の土人形が出現した。

侍従はフェンデルを抱えた土人形と娘とともに屋敷から出て行き、見送ったイコルは、振り返りもせずに屋敷の中へと消えていった。

屋敷に入るなり、まっすぐにアルケミの部屋へと向かうイコルを、私は追った。

部屋に消えようとするイコルを私は必死に呼び止めた。
「ニャー」

イコルは私の声に扉のノブに手を伸ばしたまま、振り向きもせずに言った。

「レゾン、ごめんなさい。私は間違っていた。ずっと前からわかっていたのに……」

それは、私が知っているなつかしくてやさしいイコルの声だった。さっきの強気な冷たい態度を取るのに、イコルはどれだけ自分の心に麻酔をかけていたのだろう。

私の目の前にいるイコルの声と背中はずっと震えていて、か弱くて今にも崩れそうだった。

「でも……もう遅いの。私は……まだ罪を塗り重ねなくてはならない」
イコルが扉のノブ握る手にひときわ力が入ったのがわかった。

(なぜだ?なぜ、わかっているのにイコルは罪をさらに重ねようというのか?)

「レゾン。私はもう……あなたに合わせる顔がない」

そういってイコルは部屋の中に入ると、すぐに見えない壁を作って私を締め出した。
ほどなく部屋からイコルのすすり泣く声がした。
その悲しそうな泣き声は一晩中つづき、私はどうすることもできずにただ扉の前でその声を聴き続けた。

◇  ◇ ◇ ◇

イコルが部屋から出てきたのはそれから一週間後だった。

別人かと思うほどやつれて、疲れ切って出てきたイコルの手には大きい瓶が握られていた。

「侍従」
「はっ」

イコルの気配に気が付いたのか、またこの無表情な侍従はイコルの傍にいつの間にか控えていた。

「この薬を世の中に広めて参れ」
イコルは瓶を侍従に渡した。

「この薬は一体なんでございますか?」

「フェンデルに飲ませたものよりもっと強力な惚れ薬よ。さっき完成しました。名前は……あの人の名を取り、『フェンチル』と付けましょう。この薬を飲んだ者は一度気を失い、次に目覚めたときに初めて見た異性にたちまち恋をしてしまう。その想いの強さゆえ、相手は逃げていき、その恋はかなうことはないでしょう。そして薬を飲んだ者は自分の想いに死ぬまで苦しむのです……今の……私のように……」

(おろかな……。同じ苦しみを大勢の人に味あわせようというのか……。イコルは狂ったのか?そんなことさせてはいけないっ!)


考えるより先に私の身体が動いた。

指に噛みついて瓶を落として叩き割ろうと、私は侍従めがけて突進した。
だが……。

バリバリという音とともに私の身体に電流が流れた。

床に叩き落とされた私が見たのは、私に電撃を放ったあとのイコルの辛そうな顔だった。

(まさか……お前は……そこまで変わってしまったのか?私にまで……雷を落とすなんて……)

私は全身の力を振り絞って立ち上がりもう一度侍従に向かおうとしたが、イコルはもう一度、私に電撃を撃ちつけた。

さすがに私は動けなくなった。

最後に放った雷は私の右腕にあたり、ひどく大きな傷になった。

私の右腕はパックリと割れて血が噴き出し、みるみる床を赤く染めた。

腕がもげてしまったのではないかと思われるほどひどい痛みだった。

「レゾン……。もうやめて。もう動かないで……」

イコルはしゃがむと私を悲しそうに撫でた。

(そんな薬を……広めるなっ!!)

私は動けなくなったとはいえ、その想いをこめてイコルを睨み付けるくらいの力は残っていた。

イコルは私のまなざしをじっと耐えるかのように受けていたが、一度目を閉じ、深いため息をついてから言った。

「私はレゾンに与えた『良心』の存在を忘れていました。最後に……その『良心』に従い、この薬に希望を授けましょう」

イコルが私に手を当てると、何か光る球体がスゥーっと身体の中から浮かび上がった。

これが私に宿っていた「良心」なのだろうか。

長い呪文を唱えながら、イコルはその光を瓶へ流し込んだあと、静かに言った。

「侍従、行きなさい」
「はっ」

侍従が瓶を持ち、立ち去るのをイコルは魂の抜けた人形のようにぼんやり立ちすくんで見つめていた。

そして、しゃがみこむと、血が流れ続ける私の傷に回復の呪文を唱え、静かに話し始めた。

「レゾン。私はフェンデル様の心がほしかった。あの人に愛してほしかった。あの人を帰したくない一心で……私はサタンと契約してしまったの。サタンは言ったわ。人の心を虜にする惚れ薬を作る力を与えてやると。フェンデル様に作った薬は弱かったけれど完成した。でも薬で出来上がった紛い物の愛は、私を幸せにはしてくれなかった。自分をみじめにしただけだった。人を貶めて得る幸せなど、どこにも存在しないことに私はもっと早く気が付かなくてはならなかった。あの人の呪いは解いたけれど……サタンと契約した以上、私は薬を完成させなくてはならなかった」

イコルは泣いていた。

「あの薬の呪いは何十年、何百年と解けることはないでしょう。これからあの薬の呪いが効いている限り、私は死ぬことも許されず、闇の魔女として悪事に手を染めながら生きることになります。けれど、あなたに与えた『良心』をあなたから、返してもらって、あの悪魔の薬にたったひとつだけ希望を与えることができました。あの薬を飲んで一目ぼれされた相手が、逃げることなくその者の愛を受け止め、結ばれることができたなら……あの薬にかけられた呪いはすべて消え去ります。そしてその二人は永遠の祝福を与えられるでしょう。でもそれは……ほとんど奇跡が起こらない限りありえないこと……」

つぶやくように話しながらイコルの回復呪文は次第に効いていき、私の体力は回復していき、傷口はふさがっていく。

けれど右腕の雷の痕だけは残ったままだった。

私の自慢の毛並みは見る影もなく消えて、肌がむき出しのままで痛々しかった。

他の傷がすべて治っても、その痕だけはそのままでずっと疼いたままだった。

「レゾン、この雷の痕はもうこれ以上治らないわ。痛いでしょう……。ごめんなさい……」

イコルは申し訳なさそうにやさしくその傷を撫でてから言った。

「レゾン。あの薬に希望を与えるためにあなたの『良心』を返してもらった。『良心』を失ったあなたは間もなくただの猫に戻ります。しかし、あなたの元に戻れる日を夢見て生き続けます。それでも……闇の魔女として生きる私のそばにいない方があなたはきっと幸せにすごせるはずよ……」

イコルは、一度唇をキュッとかみしめると、私を抱き上げ屋敷の外へと連れて行った。

そして門を出たところでやさしく私を下ろすと、もう一度私をなでた。
「レゾン……お別れです。どうか元気で……」

彼女は背を向けて歩きだした。

(まだだ。まだ終わらせない……)

私はまだふらふらする身体をなんとか立て直すと、イコルに向かって必死に声を振り絞った。

「イコル!待ってろ!私が必ずその呪いを解いてみせる!」

イコルに猫の私の言葉が届くのか、理解できるのかどうかはわからなかった。

イコルにはただ、私の声は猫の鳴き声にしか聞こえないかもしれない。
それでも、私は叫ばずにはいられなかった。

イコルは私の声に足を止め、振り返った。

「私はこの先必ず人間に転生してみせる。そしてその『フェンチル』という薬を飲んだ者の想いを私は受け止め、その呪いを消し去ってやる。何十年、何百年かかっても……。私がお前を救い出してやる。だから待ってろ。そして必ず……村人のことを思いやる、あの時のような良い魔女に戻れ。私の自慢の友達に……優しいイコルに戻るんだっ!いいな……約束だっ!」

気持ちだけが先走っただけで、私には確証も何もなかった。

イコルが言うのだから、私はこれからただの猫にもどるのだろう。

けれど、彼女と過ごしたすべての記憶が消えてしまっても、イコルという大切な友人を助けたいというこの強い想いだけは私の中の奥底に、何か刻印のように残さなくてはならないと私は私自身に言い聞かせた。

人は忘れてしまうようにできている動物だという。

ならば反対に「思い出す」ということもできるのが人間なんじゃないのか?

間もなく猫の私に与えられた「人間の心」は私から離れて行ってしまう。

その離れていく「人間の心」というやつの、人を想うという力に私は賭けたかった。

その想いはどこか祈りにも似ていた。

私の言葉はイコルに届いたようだった。

私に近づいてくるとしゃがんで、泣いているのか笑っているのかわからない表情で私をやさしく撫でた。

「あなたを『良心』に選んでよかった……。なんて勇敢で賢くて優しい猫なんでしょう。そしてなんて無茶なことをあなたは言ってくれるのでしょう……。あなたがパートナーで本当によかった。あなたのその言葉だけで私はこの先どんなに辛くても生きていけます」

そういってイコルは立ち上がった。

「レゾン。いつまでもあなたの想いが届くのを待っています。そしていままで……ありがとう」

イコルは今度こそ振り返らずに屋敷へと消えて行き、私はその姿を静かに見送った。

イコル、なんて哀れで、悲しくて、弱い女なんだろう……。いつかきっと……私がお前を元に戻してやる。

イコルの後ろ姿を見つめながら、だんだん私の意識は薄くなり……そして私は人の心を手放した。

◇  ◇ ◇ ◇

『フェンチル』という強力な惚れ薬は、人の心を蝕むように静かに世の中に広まっていった。
ほんの一部のみ解毒剤が流通したが、『フェンチル』を飲んだ者のほとんどが、自分ではコントロールのできない想いの強さに苦しんだ。

そして……
呪いが解かれないまま、どれだけの月日が流れただろうか……

ここ、ホッシビリタに結婚したばかりの若い夫婦がいた。

◇  ◇ ◇ ◇
「あなた。今日、『フェンチル』の解毒剤をくださった魔法使いの方がお見えになったんです」

寝室のベッドの中で明かりを消そうとしたとき、妻が思い出したように言った。

「あの……俺たちを結びつけた惚れ薬の『フェンチル』の?」

妻のリザルは以前、『フェンチル』という強力な惚れ薬を飲んでアキアーノの俺に一目ぼれした。
呪いをかけた魔女よりも上級の魔法使いが作った解毒剤を飲んだリザルは正気に戻るはずだった。
けれど彼女の俺への気持ちは変わることはなかった。一目惚れされた相手、つまりこの俺が彼女を愛してしまったことで惚れ薬の呪いは消え去り、反対に祝福に変わったのだという。

ホッシビリタのおやじさんの反対に合うかと思ったが、リザルが俺と会ってからというものどんどん元気になっていくので、反対にどうか娘をもらってやってくれ、と手のひらを返したような態度で背中を押され、俺たちは結婚した。

俺はアキアーノの仕事をして、夜はホッシビリタに帰り、彼女の実家の離れで暮らしている。

「ええ。解毒剤は作るのがとても大変で、ほんの一部の人にしか行きわたらなかったそうです。ところが私たちが結婚したころ、フェンチルを飲んだ人たちの呪いが一斉に解けたのだそうです。あの薬はその結ばれた二人だけでなく、飲んだ者たちすべての呪いが消し去られるようになっていたのではないか、と魔法使いの方はおっしゃっていました。もうあの薬で苦しむ者はいなくなるはずだとうれしそうにお話しされて帰っていきました」

「ほう……。じゃあ、俺たち以外、今まで結ばれた者はいなかったということか?」

「ええ。普通はあの薬を飲んだ者の想いが強すぎて、一目ぼれされた相手が逃げてしまうのがほとんどなのだそうです。あなたが……私を愛してくださらなかったら……私もいまだに苦しんでいたかもしれません」

はにかむ妻は相変わらずかわいらしかった。

その時だった。俺の右の腕にあるアザが疼いた気がして、思わずそこに手をやった。

ギザギザしたアザは、時には浮き出て見えるくらい大きく、俺が生まれたときからあるものだった。

時々このアザが疼くのを知っている妻が心配そうに俺の腕を見て、優しく触れた。

「またアザが疼くのですか?本当に空に雷が放たれた時のような形の不思議なアザですね」

「ああ……。でもなんだろうな。この不思議なアザがお前と俺を結びつけてくれた気がしてならないんだよ。生まれたときからあるただのアザなのにな。おかしいよな」

妻と出会った日も、そして、海賊たちに拘束されていたときも、このアザはやたらと疼いていた。

彼女は謙虚で控えめだったが、それでも薬の作用なのか俺を想う眼差しが強すぎて俺は何度か逃げ腰になりそうになった。

そんな時に限って、このアザは何回か疼いた。今になってみるとそれは何か俺を導いているようにも思えた。

そしてなぜだろう、それに応えたいと俺は思った。一体何に対してそう思うのか、よくわからなかった。


けれど、そのおかげで妻と結ばれ、俺は今とても幸せだ。

心配そうに俺の顔を覗き込む妻に気が付いて、俺は安心させるように笑ってから彼女の頬をそっとなでた。

「心配するな。もう大丈夫だ。さあ、明日も朝早く船を出さなきゃならない。もう眠ろう」

明かりを消して、幸せな思いをかみしめながら、俺はベッドに横たわった。

どこか遠くで、雷の音がした。

さっきまであんなに晴れていたというのに、急に天気が変わったのか……。

雷の音はやがて降ってきた雨の音に静かにかき消されていく。

よかった。ここ数年、雨が降らずに、一部の村では飢饉が続いていると聞いていた。このひさしぶりの雨は枯れかけていた作物に、きっと恵みの雨になるだろう。

もう一度雷の音が聞えたとき、突然俺の胸の中に何かとても懐かしい想いが広がった。

いつか……こんな想いを俺は誰かの隣で分かち合ったことがあるような気がした……。

それは一体どこで、誰とだったのだろう……思い出そうとしたが、ゆるゆるとやってきた睡魔に阻まれた。

雷の音はまるで子守唄のように聞こえて、俺はそのまま夢の世界へと静かに落ちて行った。


終わり

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