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ホシヲキクモノ【全9話】 6. 二人

「それでは本日の会議は終了します。お疲れ様でした」
 進行係の女子社員が、画面の向こうでお辞儀をする。
「お疲れ様でした」
 彬はふう、と一つため息をつくと静かにノートパソコンを閉じ、立ち上がって伸びをした。
「さて、今日の仕事も無事終わりましたよ」

 自宅の窓の外を見ると、海に向かって美しい夕日が落ちかけているところだった。リビングの椅子から立ち上がると彬は冷めたコーヒーを飲み干した。

 アーテムウイルスの流行から、彬の会社の業務のほとんどはオンラインに切り替えられた。研究職についている彬は現場に行くことも月に何回かあったが、今は会社自体が出社を推奨しないので、会議だけの日はこんな風に家に一日閉じこもる。

 社内からは、リモートの仕事がしんどいという声も聞くが、彬は特に辛いとは思わなかった。むしろ快適だと思っていた。何より、リモートになってからというもの、仕事の質が変わったことが彬の仕事への意識を大きく上昇させた。
 今までの対面会議のような発言権の忖度は多少残っていても、オンライン会議だと、参加者全体が見渡せることもあり、立場を越えて本当に発言したい者が発言できる。また提出物が多くなったので、今までサボって、部下や後輩をいいように使って仕事を押しつけていた先輩たちは自分で仕事をやらざるを得なくなった。

 結果として誰が有能で誰が無能なのか、本当に成果を出している者が自然と浮き彫りになった。

 彬はもちろん、成果を出している側だ。

 リモートワークになってからの評価はうなぎ登りだし、この環境になってから仕事が楽しい。嫌な先輩や上司に無理矢理連れて行かれる飲み会もない。反対に仲のいい社員とはオンライン飲み会もしているから、アーテムが流行る前より仲良くなっている。

 すべてがよい環境になった、と言っても過言ではないが、実は彬にはひそかに心配していることがあった。

「彬くん、終わった?」
 台所の方から、声がして、様子をうかがっていた海帆がひょっこり顔を出した。
「うん、終わったよ。海帆は?」
「うちの会議も終了。ご飯作り始めるからお風呂の用意をお願い」
「了解」

 風呂場に行く途中で、鼻歌まじりに台所で野菜を刻んでいるご機嫌な海帆の後ろ姿を見て、つくづく彼女がそばにいてくれて幸せだと感じた。

 海帆は彬の妻だ。

 結婚して一年になる。

 彬と海帆は同時入社で、研修時から意気投合し、恋人になるまで時間はかからなかった。その後、彬は研究所のあるF県に異動になり、海帆は本社勤務になった。遠距離恋愛を経て、二人は去年ゴールインした。予定では、彬が本社に近い研究所に異動になり、二人は一緒に住むことになっていた。

 それができなくなったのも、予定していた結婚式も新婚旅行もなくなったのは、もちろん世界に広がったアーテムウイルスのせいだ。

 アーテムのせいで、会社は一社員の都合など考える余裕はなくなり異動の話はそのまま宙に浮いたままになった。人の集まる結婚式はもってのほか、海外に旅行など国が許してくれるわけはなかった。

 百歩譲って、それは時代のせいだと言ってあきらめることができた。

 しかし一番の問題は、新婚というのに、海帆と全く会うことを許されなくなったことだった。アーテムが広がり始めたころ、彬は社員寮に住んでいた。
 今までは、週末に海帆のいる東京か、彬の住むF県で過ごしていたが、感染が拡大するに伴って、地方に住む彬に対して、感染者の多い東京に行く許可が下りなくなった。
 
 代わりに海帆がF県に来ることが多くなったのだが、"東京からやってきた"海帆をF県の社員たちはまるでアーテムウイルスの病原菌のように扱った。
 
 しかたなく、しばらくの間は会うことを我慢していたが、それにも限界がある。アーテムの感染はいつ収まるのか出口も見えない。
 彬は東京から海帆を呼び、夜中、誰もいなくなったときに自分の部屋に入れ、東京に帰る時は朝早く、人目につかないように海帆を駅まで連れて行く生活を送るようになった。

 これは海帆にかなり負担になったようだ。

 しかも一度家に入ったら、人に見られないよう、気づかれないように、海帆は気配を消して生活しなくてはならない。息を殺すような生活のひずみが出たのか、やがて海帆は体調を崩すことが多くなった。そこで彬は思い切って、会社から離れた場所に一軒家を借りることにした。

 今住んでいるこの一軒家は4LDKののんびりした郊外の庭付きの物件だった。

 かなり古い造りなので、格安で借りることができたし、ここなら会社の人目につかない。海帆に肩身の狭い思いをさせることはない。新婚の二人は荷物が少ないので、広すぎるくらいの物件だったが、お互いにリモートワークをすることもあって部屋数が必要だった。

 やがてアーテムの感染がさらにひどくなると、リモートワークが主流となり海帆は東京に部屋を借りてはいたが、大半の時間をF県で過ごすようになった。

 人目を気にしなくなり、彬と過ごす時間が増えた海帆はたちまち元気になり、体調も崩すことはなくなった。ここは海にも近い。休日は二人でのんびり浜辺を散歩した。何を見ても、何を食べても、二人で一緒なら幸せなのだと感じた。ここに引っ越ししてきたことは正解だった。

 心配だったことは、海帆が都会育ちで地方に住んだことがないことだった。F県に住み始めた頃、時折出てくる虫に悲鳴を上げ、昼間のように明るい都会とは違う真っ暗な夜に海帆はおびえていた。

 順応できるのか心配していたが、そのうち庭に野菜や花を植えたり、時折姿をみせる狸にも「かわいい」というくらい馴染んで、子供のようにはしゃぐようになった。そんな姿を見るたび、「ああ、俺は幸せだ」と、彬は思った。

 朝、起きると、隣に寝ているはずの海帆の姿がなかった。外に出てみると、庭で野菜にホースで水を撒いている海帆を見つけた。
「早起きだね」
「あ、おはよう。朝の空気っておいしいね。気持ちよくってついつい動きたくなっちゃった」
 海帆はうれしそうな笑顔を返した。

「見てみて、ナスがおいしそうに実ってるの。ピーマンもこんなに実をつけてるし、プチトマトももう少しで食べられるよ。それにほら。これ、オクラの花なんだよ。これがオクラになるの。こんなにきれいに咲いていて、こっちはこんなにきれいに産毛つけて、キラキラして……」
 一緒にのぞき込んでいる彬に海帆が真剣な顔で言った。

「彬、ありがとう」
「え、何が?」
「ここに連れてきてくれて。私、ずっと都会にいたでしょ。あのまま刺激いっぱいの東京にいたら、きれいな空とか、海とか、野菜一つ一つがこんなにきれいで大切で、素敵だなんて気づきもしなかったと思うの。ううん、何より、彬と一緒にいる時間がこんなに宝物みたいに大切なものだなんて、感じることは無かったと思うの」

 海帆は少し目を潤ませながら言葉を続けた。

「会社の人たちにいろんなこと言われて、結婚式も新婚旅行もなくなって……。だけどね、何が私にとって一番大切なのか、ここにきてじっくり考えることができた」

 彬は黙って海帆の手を握りしめた。

「これから私たち、一緒に長く生きていくでしょ。最初のうちに、こんな体験しておいたら、きっとこれから問題が起きたときでも、このときのことを思い出せばきっと乗り越えられるんじゃ無いかなって思ったの。だからね……ありがとう、一緒にいてくれて」

「うん」

 照れてしまって、うまく海帆の顔を見ることができなかった。

「今日、早く仕事終わらせて、海でも見に行こうか」
「うん。じゃ、朝ご飯作るね」
「はいはい、じゃ、おいしいコーヒー入れますかね」
 
 海帆の後ろ姿を見送ると彬は振り返った。高台の我が家からは朝日が海に光ってキラキラしている。

 これから社会はどうなるかはわからない。アーテムウイルスの終息もまだ出口が見えない。ワクチンや特効薬を開発中だと聞くが、まだまだ先の話のようだ。少し考えただけでも不安なことは山のようにある。

 だけど、自分には大切な人がそばにいてくれている。海帆が隣にいてくれる。

「今を今のまま大切にとりあえず生きればいいよな」

 どこまでもひろがる青い空を眺めながら、彬はうなずくと、愛する妻のため、我が家へとコーヒーを淹れに入っていった。

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