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永遠の門 ゴッホの見た未来:感覚に直接訴えかける世界を描いた画家の身体に、入り込むという経験

Eternity's Gate (2018).

1853年にオランダに生まれた、ファン・ゴッホ(以下ゴッホ)。若いころは、画商や書店勤め、教師と何をやってもうまくいかず、父と同じ聖職者を志した。しかしそれにも挫折し、自分には絵を描くことしかないと悟る。

1886年、パリにやってきてゴーギャンに会い、南へ行け、と勧められる。自分でも、灰色の色彩のパリではなく、新しい光が欲しい、と思い、南仏のアルルに居を移した。

映画が始まって8分くらいのところで、アルルに入るのだが、このあたりが本当に、すばらしい。部屋に入って服のボタンを外し、靴を脱いだりするところを、画面に揺れのある手持ちカメラがアップで、追っていく。

つまり観客が、ゴッホと一緒に、というかゴッホになって、かれの生活を体験しているように、撮られているのである。そしていわばかれと一緒に観客は、イーゼルを立てて絵を描きはじめる。

もっとすばらしいのは、そこからかれが外の平原に出るところ。ここでも終始揺れのあるカメラが、平原を歩くゴッホの足取りや、かれがみる見渡す限り平原がつづく田舎の風景、そしていっぱいに広がった青い空を、次々と映しだす

さらに、この演技でヴェネティア映画祭男優賞を受賞したウィリアム・デフォーが、外の自然のなかで解放されたような、うれしくてたまらない、といった、やさしい表情に、心を掴まれる。観客はかれと一緒に、自然だ、解放だ、というかれの気持ちを、味わうのである。

そして、「平らな風景に向かったら、そこに見えるのは永遠だけ(When facing a flat landscape, I see nothing but eternity.)」というヴォイスオーバー。これだけでもう、腰が抜けそうになる。そして、デフォーの表情とともに流れるピアノの音楽がまた、かれの気持ちをすばらしく表現し、観ているこちらの心にもまた、響いてくる。

絵は自分の内側を見て描くのだから、自然やモデルを見る必要なんかないんだ、というゴーギャンに対しゴッホは、「ぼくは絵を作り上げる(invent)必要はない。それはすでに自然の中にあるからだ。ぼくはそれを感じるだけでいい」、という。なんてすてきな言葉だろうか。

家で内側にこもるより、自然の中で自分を解放すること。もちろん、家の中にいたら、ゴッホはずっとひとりだ。だからこそ、外に出て、何も考えずに自然を「感じ」、その感覚を絵筆に託して、自分のヴィジョンに具体的な色やかたちを与えることが、重要なのだ。ここには広い意味で何かを創造する立場にある人間すべてに当てはまる教訓が、ふくまれている。

きみは速く描きすぎる、と文句を言ったゴーギャンに対してゴッホは、「天才のストローク」という言葉を聞いたことがあるだろう。ひとつの明確なジェスチャー、それぞれのストローク(一打ち)で描くことが大事なんだ、と答えた。ヴィジョンを捏ねまわさずに、直観として描きつける。

そしてゴッホは、自分のヴィジョンを、自分と同じように見ることがむずかしい人々にシェアすることを、自分の使命と考えていた。自分のヴィジョンが、世界のリアリティを、よりよく表現しているから。世界の見方を、芸術家は教える必要があるから。

しかし晩年になってかれはそういう考え方をやめて、永遠と自分の関係を考えるだけだ(Now I just think about my relationship to eternity.)、という境地に達する。

晩年には批評家に急激に評価されるようになったものの、その果実を見る前に、わずか38歳で命を絶ってしまった(映画では少年に殺された説を取っている)ゴッホは、神は自分を、まだ生まれていない人々のための画家にしたのかもしれない、という言葉をのこした。

自分も画家であるジュリアン・シュナーベル監督は、他の協力者たちとともに、みずから脚本を書き、映画のなかでゴッホが描く絵を描いた。67歳のシュナーベルにとってこの作品は、自分の創作人生を賭けたような映画になっているらしい。

ネットフリックス配信だが、2019年に日本公開もされるようだ。

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