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ボナール:しあわせな絵を描くのは、しあわせであるからとは限らない

テート・モダン(Tate Modern)でボナール展をやっている、というポスターを、最近地下鉄の駅で見るようになった。ボナール好きなわたしは、これは見に行かなければとおもっていたのだが、たまたまロンドンに友人が来たので、一緒に見にいくことにした。

ボナールはポスト印象派と現代絵画の中間に位置する画家で、ナビ派に分類される。かなりいろいろな絵をみて、趣味の範囲が広がったのち、わたしが結局もどったのは、最初から好きだったフランス近代絵画、つまり印象派以降の絵画だった。学生時代からとくに愛着があったのは、最初はセザンヌ、それからモネ。

ボナールはこのふたりの延長上にあるような作風で、やはりかなり好きである。これらのフランス近代絵画は、最近研究しているエリック・ロメールの映画と、絵画的に関係があるので、そのせいもあるだろう。

展覧会のタイトルがまた良い。「記憶の色(The Colour of Memory)」というのである。このタイトルだけで、わたしはクラクラしてしまう。

どういう意味かというと、ボナールは、自然なり、人物なりといった対象、モデルの前に座って、そこにカンバスを置いて描いていたわけではない。デッサンはするし、色について、いろいろとメモを取る。

こうした取材が終わるとかれは、アトリエにもどり、内省する。現実の風景を、じぶんの心の眼で構成しなおすためである。

モネは光が当たって色の七変化を見せる自然を、点描によって、リアルに生き生きとした風景として定着させた。その結果そこには、ありきたりな具象のカタチが、消滅してしまう。そこにあるのは、モネがみた池の上のスイセンの、光のなかのきらめきであり、いわば意識の流れのような、みているかれの無意識そのものを描いたような、そういうふんわり感である。

ボナールは、対象をいったん心の眼のフィルター、記憶のフィルターをとおして、再現しようとした。光に映った現象そのものを細かく描くというのではなく、それをいったん自分の心のなかに沈めて、そこから浮かび上がってくる自分の色とカタチで描こうとした、ということである。日常の親密な風景をよく描いたので、インティミスト(Intimist)ともよばれている。

長年のパートナーであり、五八歳で結婚したマルトは、かれのミューズであった。ボナールは、どんどん年老いていくマルトを、昔と同じ、二十代のときと同じように、描く。そこにいて、浴槽に横たわっている年老いたマルトと、記憶のなかのマルトが、かれの頭のなかで融合されて、そこにかれの記憶の色の絵ができる。

特徴的な構図は、手前に人々のような大きいフィギュアがあってアクセントになっていて、その向こうが自然の風景、というもの。それから、風景を、室内からみている絵が多いこと。たとえば赤が基調になった室内から、窓や扉から、緑や青の自然の風景が広がっている。これも、風景を、自然を、わたしの心の眼でとらえる、わたしの記憶として描くという、ボナールのスタイルなのだろう。

日本画に啓発されて、光も、カタチも、人物も、色によって描くことができるというひらめきを得たボナール。カタチの世界を押し付けてくる現実にたいし、自分の意識の中で再構成した、記憶の色を描きつづけた。

一八六七年に生まれ、一九四七年に死んだボナールは、二度の世界大戦というギスギスの時代のど真ん中を生きた。そんな時代にもかれは、ほっこりした色合いでしあわせな絵を描いた、といわれていた。

でもボナールは、しあわせな絵を描くのは、しあわせであるからとは限らない、といっている。つらい人生だからこそ、明るく、しあわせに描く、というスタイルが、わたしは大好きだ。

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