卒業論文「思い込みの力」

 序
たとえそれが思い込みにすぎない単なる幻想であっても、現実にそれが何かを生み出すことがある。たとえば、プラシーボ効果がそれにあてはまる。プラシーボ効果は、薬理作用のない薬により、もたらされる症状や効果のことをいう。ある病気の患者に「この薬によってあなたの病気は治癒できる」と言って、その人にとって薬理作用のない薬を与える。すると、それが薬理作用のない偽薬であるにもかかわらず、その人の病気が改善することがある。患者の単なる思い込みが、頭の中だけではなく現実にも作用したのだ。逆に、思い込みが人を縛り、マイナスに働くこともある。そんな思い込みに縛られるひとのたとえ話としてサーカスの象の話がある。

象は1トンの重さのものを軽々と持ち上げる。しかし、サーカスへ行くと、大きな象が小さなクイにつながれておとなしくしている。この象は、子どもでまだ力が弱かった頃、太い鉄のクイに鎖でつながれていた。その頃は、どんなに力いっぱい引っぱっても、鎖を切ることもクイを抜くこともできなかった。そして、大きくたくましい象に成長した今でも、クイにつながれると逃げ出せないと、思い込んで、じっとしている。(註1)

単なる幻想に過ぎないものであっても、それを超えられなければそのものに対して、それは真実よりも重要な意味を持つのだ。世界は、それ自身独立して存在するものではない。むしろ、世界は一人、一人の人間がもつ内的宇宙に還元できるものである。人は世界と接するとき、その中にある現象をふるいにかけ、自分が見るべきものに焦点をあわせる。私たちは身のまわりのものをありのまま見ているのかというとそうではなく、私たちが見ている世界は、自分でも気づかないうちに選択し厳選されたものである。私たちは自分の思い込みによって、世界に形を与えているのだ。私は、このような人間に深く影響を与える思い込みを考察する。

Ⅰ思い做(なし)をつくりあげる思い込み

1映画『マトリックス』にみる思い做
私たちは、自分がだれであり、どういう存在なのかを知っている。そうした情報は、私たちが気づかないうちにいつのまにか与えられている。そうした情報は、私たちの外の世界を認識するための基盤となる。デカルトの「我思う、故に我あり」という言葉があるが、これを逆に考えれば、あらゆる人間の思索は、自己存在が自分の中で、明白であるからこそ成り立っていると言える。自己存在についてあまり深く考えずにいられるからこそ、私たちは平然と思索することができる。もし自分が生活する世界のなかで、自己存在が明白でなかったら、世界のなかで自分を見つけられずに、人は不安定になり平然と生きていられなくなるだろう。人が生きていく上で、自己存在が明白であるということは、とても大切なことである。しかし、そんな人間が自明なものとしてみなしている自己存在は、実はすり替えることが可能な、かなりあやふやなものである。ラリー・ウォシャウスキー監督の『マトリックス』はそんな自己存在の問題点を教えてくれる。『マトリックス』のストーリーはこのようなものである。


コンピュター会社のプログラマーであるトーマス・アンダーソン。しかし彼には裏の顔があった。彼の正体は、凄腕ハッカーのネオである。ある夜、彼はトリニティという謎の美女によって導かれ、モーフィアスという男に出会う。そこでモーフィアスはネオに真実を告げる。人々が現実だと認識している世界は、実は「マトリックス」という、プログラムが作り出した仮想世界である。その目的は人類を支配し、人類をエネルギーとして利用するためにその姿を変えることにある。人類は、プログラムが作り出す仮想世界を現実のように感じ、生きている。そして、その「マトリックス」から人類を救いだす救世主がネオであるとモーフィアスは告げた。
「マトリックス」のなかで、ネオに与えられた彼の自己存在はプログラムが勝手に作り上げたものであり、虚構である。しかし、そうであったとしても、仮想世界に生きるネオにとって、それは現実世界と同じように機能している。しかも、ネオはそのなかにいる限り、自分が実在とは異なる虚構の存在であることに気づかない。ネオにとって仮想世界こそが唯一の現実であり、彼がそう思い込んでいる限りは、もう一つの世界を認識できないからである。

モーフィアスが劇中で「現実としか思えないような夢を見たことは?その夢が覚めなかったら君は夢と現実を区別できるか?」とネオに語りかけるシーンがある。この問いの答えは「区別できない」である。もし覚めないリアルな夢ならば、現実と境界線をひくのが不可能なため、それは現実として認識されるだろう。夢はさめるからこそ、現実と区別できるのであって、覚めなければその世界を現実と思い込んでしまうだろう。その世界が現実の世界とものすごく似ているとしたら、それはなおさらである。
仮想世界のなかにいるネオにとって自己存在の根拠は、プログラムから与えられた今までネオが歩んできた人生の記憶である。これだけが、ネオがこの世界でずっと生きてきたことの証なのである。それ以外に明白な根拠は存在しない。よく考えると、もろい基盤の上に、ネオの自己存在は成り立っている。
こうしたネオの不確定な自己の在りかたを考えたとき、私はそれと同じくらい、全ての人間にもこの存在の不確定さがあるのではないかと思う。「マトリックス」の中でのネオのありかたと、現実の人間のありかたに共通している部分があるからである。

私たち人間は、自分の明確な出発点を記憶していない。人は自分が生まれた瞬間や、赤子だったころの記憶を完全には持っていない。それらは、自分の親などによって、後で聞かされることによって、不確定ではあるが把握する。親は伝聞という方法を用いて、子どもに自己の出発点を与えるのだ。子どもはそうしてえたものを土台にして、今まで過ごした人生を記憶していく。そういうものがたくさん積み重なって、はじめて人は、自分が自分であることを疑うことなく生きることができる。 
しかし、そこには問題がある。土台となる最初に与えられた情報が嘘であっても、実在とは無関係に、自己存在の出発点を作りあげてしまうところだ。たとえばアンデルセン作「みにくいあひるの子」では、白鳥の子が自分の育ての親や自分が育った環境から、自分をアヒルだと思いこみ、その後アヒルとして生活してしまった。これは最初に与えられた自己の出発点が、実在とは異なっているにも関わらず、それが正しいと思い込んでしまったのが原因である。これは作り話の中でのことだが、同じようなことが、現実の世界でも起きている。たとえば、タイのバンコクの病院で生まれたばかりの双子の赤ん坊の一人が、病院の手違いで別の赤ん坊に入れ替わってしまった。しかし、この双子の両親は自分の子供が取り違えられ、すり変わっている事実に気づかず、他人の子供を自分の子供として育てた。赤ん坊が取り違えられてからだいぶ経って、やっとこの事実が発覚した。そのとき、取り違えられたこの赤ん坊は、もう立派に成長していて十六歳になっていた。結局この子供は、今まで暮らしてきた家族と離れるのを悲しみ、本当の両親の元には戻らず、今まで通りの生活を続けることを決めた。
「みにくいあひるの子」では本当の自分を見つけ、白鳥として飛び立ったが、取り違えられた子どもは、出自よりも今まで生きてきた自分の人生を選んだのだ。だから厳密に言えば結末はまったく逆である。しかし、この二つの話は『マトリックス』と同様に、私たちの自己の出発点は思い込みにすぎない不明確なものであり、時にはそれは実在とは異なるということを教えてくれる。私たちは自己存在を自明なものだと考えるが、意外にもそれはあやふやものなのである。            

2映画『トゥルーマン・ショー』にみる他者に恣意的に操作された思い做

『マトリックス』と同じように自己存在の問題点を教えてくれる作品がもうひとつある。ピーター・ウィアー監督の『トゥルーマン・ショー』である。『トゥルーマン・ショー』のストーリーはこのようなものである
トゥルーマンは作り物の世界に生きている。彼の親友も、仕事仲間も、愛する妻さえも雇われた俳優が演じている。彼の生活する街も、空も海も全部作り物であり、舞台装置である。彼の住むシーヘヴン島は世界最大のセットであり、そのまわりを万里の長城に匹敵する建造物がおおっている。なぜトゥルーマンがそんな環境に生活させられているのかというと、彼の人生をテレビ番組として放送するためである。そのテレビ番組名は「トゥルーマン・ショー」、今年で三十年目を迎える人気番組である。トゥルーマンの日常は隠しカメラによって記録し続けられていて、それはそのまま生で毎日二十四時間一日も休まずに放送されている。しかし、トゥルーマン一人だけが、自分が作り物の世界に生活し、それがテレビ番組として放送されている事実を知らない。この作り物の世界を、トゥルーマンだけが唯一の現実として認識している。
彼の住む世界は、限りなくリアルである。そこにある何もかもが良く作られていて本物とほとんどかわりがない。ただそこには現実と決定的な大きな違いある。それはすべてが人為的に操作されているという点である。「トゥルーマン・ショー」の番組スタッフは、この世界でこれから何がおきると、番組の視聴者に支持されるかを厳密に考え、トゥルーマンの人生を演出する。その番組スタッフは、トゥルーマンがどんな人生をすごせばよいのかプランを綿密に立て、彼が出会う人や、その日の天候までも、俳優や舞台装置によって操る。しかし、その世界はいくら良くできているかといって、所詮作り物にすぎず、やがてスタッフの手ではコントーロールしきれなくなり、徐々にほころびを見せていく。そのため、トゥルーマンは次第に自分の住む世界に疑問を持ちはじめる。しかし、トゥルーマンは外の世界に出ることができない。トゥルーマンが幼いころ、彼の父親は海に落ち、そのまま行方不明になってしまった。そんな事実があるため、トゥルーマンは水に恐怖をおぼえ、海を渡ることができないからだ。しかし、彼は自分の住む世界に対して疑いを徐々に強め、それがやがて自分では制御できないほど強くなってしまった。そのため、トゥルーマンは水の恐怖と戦いながらも船に乗って島を出ようとする。彼は航海の途中、嵐に襲われ、船が荒波に飲まれるアクシデントに遭遇した。しかし、それでも彼はくじけずに無事海を渡り、世界の終わりである舞台セットの終わりにたどり着く。やっとそこで彼はこの世界が作り物であることを知る。そして、トゥルーマンは階段に登り、扉を開け、舞台セットの外の存在する現実の世界に戻る。トゥルーマンは、虚構の世界から脱出したのだ。
こうした人にとって都合よく操作されたトゥルーマンのありかたを考えたとき、条件さえ揃えれば、どんな風にでも人を仕立て上げることができるのではないかと私は思った。これは恐ろしいことである。前に述べた自己存在の不確定さを利用すれば、常識とはかけ離れた反社会的な人間さえもたやすく作り上げることができるからだ。すこしも疑いを持たせず、人を思い込ませることができたならば、それは不可能ではない。人間は環境を与えてしまえば、その世界に順応する。しかもその世界が異常な世界であっても、その外に出さなければ、自分の住む世界を普通だと認識してしまう。閉鎖された空間の中であるならば、どんな正しさもでっちあげることができる。そこには自己存在の基盤がたやすく、すりかえられていく恐ろしさがある。
最近『冬のソナタ』というドラマが流行っているが、そこでも『トゥルーマン・ショー』でおこなわれていた事と、似たようなことをやっていた。そのドラマでは、主人公の男性が記憶喪失になってしまったことを利用して、その母親が主人公の男性に今まで生きてきた彼の人生とは違う、彼女にとって都合のよい別の人生をふきこみ与えてしまった。そのため、それから主人公の男性は名前も違う別の人間として生きることになってしまった。たとえ、それがウソで作り上げられた人生であっても、ドラマの中で主人公の男性にとってそれは唯一の現実として機能していた。このドラマにも自己存在の基盤がたやすく、すりかえられていく恐ろしさを私は感じた。
存在の出発点の基盤となる初期情報は、人間にとって世界認識の土台になるため、かなり重要である。それなのに私たちは、それだけ大切な情報をそれほど吟味することなく、いつのまにか享受している。だから、もしそれが偽りであったとしても、私たちはそれを疑いもせずに信じ込んでしまう。しかも、その思い込みの中にいる限り、本当の現実を認識することができない。

Ⅱ世界認識に作用する思い込み 

1断絶
私たちは同じ現象を見ても、みんな同じような見方でそれを認識するとは限らない。人の数だけ、状況によって多少重なりがうまれるにせよ、それぞれがそれぞれ違った形で、現象を認識する。なぜ、そうなるのかというと人間は外からの情報を最終的には、脳をとおして知覚するからである。そのため人が持っている思い込みや偏見に、その知覚は大きく左右される。だから、その人にそなわっているものによっては、現象が見えているのに、目に入らないことだってある。それどころか、現実にないものが見えることさえある。
私たちのこうした違いは、それぞれの人間に異なる世界観、異なる価値観を与える。ある意味、私たちは外的には同じ世界にいながらも、内的にはそれぞれが違った世界に生きているといえる。それにもかかわらず、人はそうした違いに気づかず、自分の持つ見かたを絶対的なものとして押し付けてしまいがちである。そして、自分が持っている世界観だけで物事を見るため、自分以外の価値観を理解できずに、否定してしまう。そんな例としてチョウの話しがある。それはこんなものである。ある男がクモの巣に引っかかったチョウを助けようと思った。チョウを早く助けなければ、クモに襲われてすぐに食べられてしまいそうな状況だった。その男はすぐに見ていられなくなり、チョウを助けてしまった。たしかに、この行動は彼にとって正しいものであったかもしれない。しかし、自然界から見れば決してそうではない。クモも生き物であり、何か食べていかなければ死んでしまう。それが自然の摂理であり、当たり前のことである。それなのにクモを悪者だと決め付け、チョウに加担するのは、人間の思い上がりである。そこには物語などを読むことによって作り上げられた善悪の枠組みが作用している。そのため、自らが勝手に作り上げたイメージに振り回されてしまったのである。こうした独善におちいらないためには、私たちは自分のもつ世界観と、他者がもつ世界観が、自分たちが考えているよりも断絶していることを意識する必要がある。前に述べたように同じ風景を見ても、まったく違うとらえかたで、それを切るとる可能性があるからである。私たちは無理に世界を一つものとしてみるより、断絶があることを理解するべきなのである。そのことによって、他の異なった世界観があることを常に意識し、時には自分とは違うその基準のなかで物事を考えられるようになる。私たちの存在する世界は異なる価値観をもつ人の集合体である。もし、そうした違いに気づかずに、人と向き合えば、激しく衝突することになる。

2境界線
今から九十年ほど前に、インドで狼に育てられていた二人の人間の子供が発見された。その二人のうち大きな子をカマラ、小さい子をアマラと名づけた。この二人の子供は発見されるまで、人間の社会ではなく、狼として野生生活に順応してきたため、一般の人間とは異なる身体的特徴をもっていた。アマラとカマラは二本の足で立つことができなかった。そのため二人は、手を使いはうことで移動した。それだけではなく、真夜中になると遠吠えをあげるなど、その行動は人間のものというよりは、狼そのものだった。
そのため周りの人間は、そうした狼のような生活習慣を持つアマラとカマラを、人間の生活に適応させようとした。しかし、アマラとカマラの二人は死ぬまで、人間の生活に適応できなかった。シング著「野生児の記録1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記 」ではそんな二人の記録が詳細に記されている。私はこの本を読んで気になったことがある。それはこの本の目次である。目次に「第一章狼っ子たちの救出」と、記してある。この救出という言葉が、私の心に引っかかる。私はなぜそんな違和感が自分のなかで生じるのか調べるため、救出という言葉の意味を二つの辞書でひいてみた。大辞林では、救出という言葉の意味は「危険な状態からすくいだすこと。」であった。広辞苑では、それは「生命の危険にさらされている状態から救い出すこと。助け出すこと」であった。二つの辞書に共通して感じられるのは、好ましくない状態から、すくいだすニュアンスである。
これを頭にいれて「第一章狼っ子たちの救出」という目次を見ると、まるでアマラとカマラの今までの生活が好ましくない、悪いものとして捉えられていて、そこから彼らを助け出すような印象をうける。私にとってこの考えかたは人間の身勝手なものに感じられる。たしかにアマラとカマラは人間なのだから、狼のような生活より、人間の暮らしをさせてあげるほうが良いと思うかもしれない。しかし、もうすでに違う世界に住んでいる彼らを強引に、自分たちの世界に引き込んで何の意味があるのだろうか。人間は自分たちがすむ世界と、彼らのすむ世界とのあいだにある境界線に気づいていないのである。そこには相違する二つの世界が存在する。アマラとカマラには彼らの生活があり、彼らの幸せがある。それを好ましくないものとして捉えるのは、人間の偏見であり、傲慢である。
これと似た話を以前どこかの雑誌で見たことがある。それは眠り姫をモチーフにした漫画である。その話の中で、大きく透明な容器の中に、液体にひたされた女性が一人でてくる。その姿はとても美しく描かれ、その女性は装置につながれまるで眠っているように目を閉じている。そんな女性の様子を目にした、主人公の青年は彼女を美しいと思う反面、どこかその姿が不憫に思えた。この青年は彼女が何年経っても、これからずっと透明な容器に閉じ込められたままでは、かわいそうだと感じたのだ。そのため主人公の青年は女性をつないでいる装置を止めて透明な容器の中からだしてあげた。
しかし異変はすぐにあらわれた。外に出た瞬間、彼女の肉体はみるみると朽ち果て、白骨化してしまった。彼女をつないでいた装置は、時間の流れを遮断するものであり、それがなくなった今、急激なときの流れが彼女を襲ったのだ。
この漫画の主人公は、透明な容器のなかで生き続ける女性の幸せには、気づかなかったのである。だからこの青年は、自分の勝手な思い込みから、容器のなかの女性が不幸であるとかってに決め付けてしまった。青年は自分がもっている思考の枠組みにとらわれ、明らかに違う世界に存在する女性に、その枠組みを無理に適用したことに問題がある。

3領域
逆に、目の前にある世界と、自分の住む世界の境界線に気づき立ち入らなかった男がいる。フォトジャーナリストのケビン・カーターである。彼は、「ハゲワシと少女」という写真をとったことで有名である。その写真には、スーダンで飢えのために倒れこむ少女とそれを獲物としてじっと見つめるハゲワシの姿がうつされている。この写真を発表したフォトジャーナリストのケビン・カーターは後に、たくさんの人から非難を受ける。彼はハゲワシに狙われている少女を助けもせずに、写真を撮ったからだ。しかし、私はその行為を非難されるべきものであるとは思わない。
もし、ハゲワシから少女を助けたとしても完全に飢えから救えるわけでもなく、少女はすぐに死んでしまうだろう。それこそ無責任であると思う。人は目の前の現実に無力の場合、立ち去るほかない。たくさんの人たちのそういった主張より、かえってケビン・カーターの判断のほうが正しいと思う。自分にできることは、その悲惨な光景を写真にとり世界に伝える事とわりきり、それ以上立ち入らなかったからである。目の前にある世界は、自分のすむ世界と地続きのようでそうではない。それぞれ侵すこのできない領域がある。

4カフカ『変身』にみる恣意的にもうけられた境界線
カフカの『変身』は、ある日突然、巨大な虫になってしまったグレゴールという男の物語である。この小説は、虫になったグレゴールの生活と、彼と一緒に暮らす家族の様子を中心に描かれている。この話の後半には、虫になったグレゴールとの生活に、家族は疲れはてた姿を見せる。そんな中、グレゴールの妹のグレーテは自分の父母に向かつて、こんな発言をする

「放り出しちゃうのよ」と妹が言った。「それ以外にどうしようもないわ、お父さん。これがお兄さんのグレゴールだなんていつまでも考えていらっしゃるからいけないのよ。あたしたちがいつまでもそんなふうに信じこんできたってことが、本当はあたしたちの不幸だったんだわ。だっていったいどうしてこれがグレゴールだというの。もしこれがグレゴールだったら、人間がこんなけだものといっしょには住んではいられないということくらいのことはとっくにわかったはずだわ、そして自分から出て行ってしまったわ、きっと。そうすればお兄さんはいなくなっても、あたしたちもどうにか生きのびて、お兄さんの思い出は大切に心にしまっておいたでしょうに。(略)」(註2)
 
この妹の発言の中で、グレゴールが虫になった事実は、空想に過ぎないものとして扱われている。それは虫になったグレゴールの存在自体を否定するものである。グレゴール・ザムザの妹と彼の間に、あきらかに境界線があり、それぞれがすんでいる世界が異なっているのがわかる。グレゴール・ザムザは、この小説の冒頭で「ある朝、グレゴール・ザムザは、気がかりな夢から目をさますと、自分が寝床の中で一匹の毒虫になっているのを発見した」(註3)と描かれている。朝起きるとグレゴール・ザムザはそれといった理由も無く、毒虫になっていたのだ。しかし、グレゴール・ザムザの妹は、その変化についていけなかった。現実よりも、自分の思い込みのほうを優先し、目の前の事実を否定したのである。まるで『マトリックス』で、モーフィアスの仲間の中にいた、現実世界に嫌気がさし、仮想世界に戻ろうとした男の様である。グレゴール・ザムザの妹は、目の前の受け入れがたい厳しい現実よりも、自分にとって都合の良い想像の世界をえらんだのである。そこには恣意的にもうけられた境界線がある。こうした彼女の捉えかたは、かしこい現実認知のしかただと思う。現実が自分の努力でそれほど変えられない以上、自分の捉えかたを変えることによって、見える世界を変えるしかない。グレゴール・ザムザの妹は一見、兄に対して薄情な態度をとっているように見えるかもしれない。しかし、彼女がこれから向きあっていかなければならない現実を考えたとき、それはしかたがないことだと思う。グレゴール・ザムザの妹には、これからの人生がある。彼女が普通に生きていくためには、現実を自分のなかで折り合いのつけられる状態にする必要がある。グレゴール・ザムザの妹がもつ現実認識は、決して彼女にとって悪いものではない。
私は日本に原爆を投下した人たちのコメントをどこかの雑誌で読んだことがあるが、そのなかにグレゴール・ザムザの妹のありかたと似たものを感じた。彼らは自分たちが多量殺人を犯したという現実を自分の心のなかで真正面からうけとめずに、なんとかしてその事実を自分のなかで正当化していた。どうしても変えられない現実を目の前にすると、人はそれを自分たちの心の中で折り合いのつく形に変えていくのだ。グレゴール・ザムザの妹がしていたような現実の捉えかたは、創作の世界だけのものではない。

Ⅲ狂信(日常からの超脱を可能にする思い込み)
 
1小説『ドン・キホーテ』にみる狂信
 狂信という言葉を広辞苑でひくと「理性を失うほどに信じ込むこと、異常なまでに信仰すること。」という意味である。人は何かを強く信じるとすごい力をもつ。この章では、正常に判断することを失うほど何かを信じ込んでしまった「狂信者」の力やその魅力についてふれる。
私が狂信者の例として最初に挙げたいのはセバステン作『ドン・キホーテ』の主人公アロンソ・キハーノである。スペインのラ・マンチャ地方のある村に、アロンソ・キハーノというひとりの郷士が住んでいた。アロンソ・キハーノは騎士道小説を読み過ぎたことにより、自分の心の中に立派な騎士をイメージし、それと同化した。そのためキハーノは自らを騎士ドン・キホーテであると錯覚してしまった。そして、キハーノはその思い込みがあまりにも強かった為、小説と同じように自らもまた、遍歴の騎士となって冒険の旅に出る。この小説のラスト、アロンソ・キハーノは自分が騎士ドン・キホーテになっているあいだ、自分は強くなれたと思いだしながら息を引き取る。
『ドン・キホーテ』の主人公、アロンソ・キハーノは英雄を気取っているが、英雄どころか人に迷惑をかけるどうしようもない男として描かれている。それでもアロンソ・キハーノというキャラクターは、今でもたくさんの人に愛され、支持されている。こうしたアロンソ・キハーノの姿は、たとえそれが単なる思い込みすぎないものであっても、その思いが強ければ人間を動かす強い原動力になることを教えてくれる。しかもその姿が魅力的であることも同時に教えてくれる。実際はそうではなくても、アロンソ・キハーノがドン・キホーテであったときには、恐れることを知らない勇敢な騎士として目の前の敵に向かっていった。その敵も実際は風車であって、自らの思い込みがつくった仮想のものではあるけれども、彼はそのあいだ立派な騎士として振舞っていた。アロンソ・キハーノの強い思い込みが、自らに抜群の行動力を与えていたのである。周りの人から見れば、その姿はのぼせていて、思い上がりに見えるかもしれない。しかし、自分のなかにある気持ちに目をそらさずに、目の前の敵に立ち向かっていくその姿は、どこか魅力的に感じられる。その理由を考えてみると、アロンソ・キハーノの自分を信じ目の前の敵に向かっていく姿は、夢を持ちそれを追い求めるときの私たちの姿と、どこか似ているからだと思う。
どんな夢や展望も、それを追い続けるもの以外の人にとって、それは価値の無いものに見えてしまうことがある。そんなものを研究して何のとくになるのか、そんなもの作ったところで何のためになるのか、そんな風になれたところで何の意味があるのかと、夢の価値がわからない人たちは夢追い人にいろいろとなげかけてくる。みんなからある程度評価されている分野だったらまだそれほどでもないが、特に新しい分野に挑戦しようとする人にはなおさら風当たりが強い。しかし、本当の夢追い人はそんな逆風に負けない。自らの信念を最後まで突き通そうとするのだ。そんなまわりとの温度差を気にせずに、夢を追い求める人々の姿は、アロンソ・キハーノと重なる。だから、私たちは、自分たちと似ている部分を彼から見出し、彼のキャラクターに共感する。そうした共感が、人々にアロンソ・キハーノにたいして好感を抱かせるのだ。

2「風船おじさん」にみる狂信
現実の世界にもアロンソ・キハーノのように強い信念を持ち、命がけで自分の夢にかけた男がいる。たくさんの風船をつけた檜のゴンドラでアメリカ大陸を目指した鈴木嘉和氏である。彼は風船おじさんと呼ばれ一時期、マスコミにとりあげられ時の人となった。私は当時、命をかけてそんなことするなんて物好きがいるものだと、すこしバカにしていた。しかし、そんな彼の行動のバックにはアメリカ人に「鳴き砂」の保護、環境保護を訴えるというちゃんとした目的があった。彼は単なる遊び心で命がけの行動をとったのではない。鈴木嘉和氏は強い信念をもち、彼は風船でアメリカを目指したのだ。彼はそれが必ず成功すると純粋に信じていた。そうした彼の抱えているバックグランドやその強い信念を知ると、私は彼を尊敬するようになった。
当時、私のように風船おじさんの行動を軽率で馬鹿らしいものだと考えていた人はたくさんいたと思う。なまぬるい日常に甘え、冒険することを忘れてしまった私たちには、その挑戦があまり価値のないものに見えてしまったからである。しかしその一方で、私たちは心のなかで風船おじさんに憧れや羨望を抱いていたと思う。自分たちができないことを、彼がしようとしていたからである。普通の人ならば迷いやおびえが出てそんな大それたことは、たやすくできない。しかし、鈴木嘉和氏は、人一倍つよい信念を持っていたため、それを可能にした。風船おじさんは恐怖や迷いより、自分が成功するイメージが強く、それが実際の行動に結びついたのである。
風船おじさんに比べたら私たちは外の世界に少しも出ようとはせず、自らがつくった心のオリのなかで閉じこもっているように思える。そんな日常は危険が少なくて、そんなに不安定ではないから、楽である。しかし、心地のよい日常に甘えているだけでは、なにも生まれない。刺激を求めないただ繰り返すだけの日常ならば、人生は何の変化もない退屈なものになってしまう。風船おじさんはその結果がどうであれ、強い意志を持ち風船で飛び立つことによって、私たちがとらわれているものから、自由になっている。深く地面に根を張り、そこから動くことさえ忘れてしまった私たちには到底、彼に及ぶことができない。
風船おじさんのこうしたありかたを見つめるとき、彼にドン・キホーテにつうじるものを見出すことができる。風船おじさんはドン・キホーテと同じく周りの人たちに迷惑をかけた。彼の場合は、それが自分の家族や海上保安庁であった。しかし、そうであったとしても目の前の現実にまけずに、自分を信じ風船でアメリカを目指した鈴木嘉和氏の姿は魅力的である。

3「アドルフ・ヒトラー」にみる狂信
もう一人、自分の持つ強い信念によって力を発揮し、人々を魅了した男がいる。アドルフ・ヒトラーである。彼のやったことは、ユダヤ人虐殺、第二次大戦を引き起こしたことなど、決して良いことではない。しかし、彼には見過ごすことのできないすごいところがある。ヒトラーは理性を失うほど、自分の主張を誰よりも強く信じていたところである。私が着目するヒトラーのそうした面が、グイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー 五つの肖像』に記されている。

それでもやはり、舞台上のヒトラーを安っぽい喜劇役者のようにかたづけるのは誤りだろう。仮にヒトラーが、単なる言葉の軽業師として、または道化師として出現したのであれば、あれほど幅広い影響を達成することは難しかっただろう。秘密はむしろ、役者の技術が彼の自我の一部になっていたことにあるだろう。生っ粋の役者さながら、ヒトラーは自身の役柄に文字どおり没頭した。一流の役者のように、人々を泣かせ、笑わせ、怖れさせ、あるいは逆上させることができた。舞台に出てきた当初は幾分ぎこちなかったが、練習を重ねるにつれ、適切な技術を駆使して感情を表現することは、彼の第二の本性になった。ヒトラーの述べることには信憑性があった。というのも、ヒトラー自身が、演壇上で告げる自分の言葉を正しいと信じていたからである。激しい演説が最高潮に達するとヒトラーは自分の言葉に夢中になって、自制心を失ったかのような印象をしばしばあたえた。(註4)

ヒトラーは自分自身にも強い影響をあたえるほど、強い信念をもって言葉を発していた。ヒトラーの発言に誰よりも夢中になっていたのは彼自身なのかもしれない。そう思えるほどヒトラーは自分自身の存在やその発言を、強く信じている。一九三三年、エーリヒ・エバーマイヤーが残した言葉もヒトラーのそうした面に光を当てている。

しかし最大の驚きは、自分の生涯についての伝説を、彼自身信じ込んでいたということだと思う。仮に誰かが彼の生涯をありのままに教えてやったとしたら、彼はその人のことを、純粋に心のそこから、嘘つきと呼んだことだろう。(註5)

実は、ヒトラーは外見に恵まれていない。彼は小柄な体つきで、決して顔立ちも特別よいわけでもない。それにもかかわらず、この人についていけば何とかなると人々に思わせたのがすごい。ヒトラーの暗躍は、彼が自分の発言や自分自身に、強い自信をもっていたからだと思う。だから、ヒトラーのそうした強い思いが一時的な錯覚であったとしても、国民に大きな夢を抱かせたのだ。ヒトラーは自らの言葉によって、実際の自分を超える力で、人びとの心を動かした。狂信者は自らの強い信念で、自分だけではなく、周りの人間も巻き込み動かしていくのである。

4映画『デッドゾーン』にみる狂信
デイヴイッド・クローネンバーグ監督『デッドゾーン』の主人公も狂信者として強い信念を持っている。この映画のあらすじはこんなものである。
高校教師のジョン(愛称ジョニ―)は仕事の後、同僚であり恋人でもあるサラと遊園地でデートを楽しんだ。しかし、ジョンはサラを彼女の家まで送って、自宅へ帰る途中ひどい交通事故に遭う。その結果、彼は一命をとりとめたものの、ひどい怪我を負い、五年間
ものあいだ昏睡状態に陥る。五年後、彼は長い眠りから目を覚ます。目覚めてすぐ、彼は自分の母親から恋人のサラはすでに他の男と結婚していることを知る。ジョンは強いショックを受けた。ほかの人にとつて五年は長い歳月であるが、昏睡状態にあったジョンにとっては昨日のことである。彼はまだサラを愛しているのだ。ジョンはそんなサラのことに心を痛めながら、まだ完全には体が動かないので、入院生活を続ける。ある日、ジョンは何かの拍子に、自分の世話をする看護婦の手を握る。するとその看護婦の家が火事になり、その娘が危険にさらされている姿が彼の頭の中でうかんだ。このことをきっかけに、ジョンは自分が相手の手を握るだけで、その相手の未来を実際に自分がそこにいるかのように、その映像や音を知覚できることに気付く。その能力は死の淵からよみがえった彼だから身についたものである。
ジョンは病院を退院した後、その能力を生かして様々な人とかかわる。そんな彼はある日、グレック・ステイルソンという男に出会う。このステイルソンは上院議員に立候補し、選挙活動を行っている男である。ジョンは、このステイルソンの手を握ったとき、恐ろしい光景を日にする。それは将来大統領になったステイルソンが、核ミサイルの発射スイッチを押して、大量殺人を行おうとしている姿である。ジョンは未来に起きるこの惨劇をくいとめるため、ステイルソンを殺すことを決意する。ジョンはライフルを持ち、ステイルソンの講演にしのびこみ、そのタイミングをそっと静かに待つのであった。
ジョンはたくさんの命を救うために、殺人を犯そうとした。しかし、この時点では誰もその行動を理解できないだろう。ジョンが見た未来を、他の人に見せることはできないからだ。だから人々は、殺人を犯したジョンをあたまのおかしな人として見るだろう。しかし、ジョンはどう思われようと、たくさんの人を救うために殺人者になろうとしたのだ。彼は、どんなことよりも自分の心のなかにある風景を信じたのだ。ジョンの持つ強い信念が、単なる高校教師であった彼にその覚悟を与えたのだ。ジョンは未来に起きる惨劇を知りながらも沈黙して、普通の生活を送ることもできただろう。それなのに、ジョンは自分の全てを捨て、ステイルソンを殺そうとしたのだ。ジョンは、どんな犠牲を払おうとも、それを果たそうとしたのだ。

5「ジョン・レノン」にみる狂信
ジョン・レノンはミュージシャンであり、彼は元ビートルズのメンバーとして有名である。ジョン・レノンは1940年に生まれ、1980年に銃撃され、すでに亡くなっている。彼はビートルズ解散後、妻のオノヨーコと平和を訴える活動をしていたことでも知られている。しかし、その平和活動は普通のものとは異なり、浮世離れした変わったものであった。たとえば、彼らは平和活動の一環として、たくさんの人を集めて一週間、ベッドインしながら記者会見をした。そこで二人は集まった人たちに平和について語った。その模様は、ドキュメンタリー映画『イマジン』で見ることができる。その記者会見のなかで、ジョン・レノンとオノヨーコが平和を訴えるために、自分たちのヌードを公表したことを批判された。こんなことをやって何の意味があるのかと、記者会見に来た一人の男にジョン・レノンは問いただされた。しかし、自分のやっていることが正しいと強く信じるジョン・レノンは、ためらいもなくそんな批判をはねのけた。
 それとは違う場面でもジョン・レノンは、批判された。彼らに対してNYタイムズ記者グロリア・エマーソンは「あなたが言っているのは理想だけよ、一人でも命を救ったの?」と、平和を訴えるキャンペーンはしているものの、実際的な活動には着手していない彼らに言及した。
たしかにジョン・レノンの浮世離れした平和活動は、一般人の目で見れば滑稽なものに感じられるかもしれない。しかも、それが直接的にどれくらい意味のあったのかさえもわからない。しかし、ジョン・レノンが自分の平和活動の意義を強く信じ、行動している姿だけでも、すごく価値があると私は思う。平和活動を行うジョン・レノンには誰にも負けない力強さがあるからだ。彼の代表曲である「イマジン」にもそんなジョン・レノンの力強さが感じられる。

想像してごらん 国境なんて存在しないと そう思うのは難しいことじゃない 殺す理由も、死ぬ理由もない 宗教なんて存在しない 想像してごらん すべての人々が平和のうちに暮らしていると… 僕のことを単なる空想家だと思うかもしれない でもぼくひとりだけじゃないんだ いつの日にか 君も仲間に加わってくれよ そうすれば 世界はひとつになるだろう(註6)

ジョン・レノンの強い思いは、私たちが感じている世界を、軽々と超脱することを可能にしている。そこには、単なる空想を超えた強い力がある。

6なぜ狂信者は強力な力を持っているのか
人間が心に強く抱いたイメージは、肉体にも影響する。それは人間の脳が持つ特質が作用するからである。脳はリアルなイメージと現実を区別できない。そのため、リアルなイメージを心に抱くと、脳はそれを現実として認識する。たとえば、自分がものすごく暑い場所にいるイメージを強く心の中で浮かべると、実際にはそれほど暑くない場所にいたとしても、体が汗ばんでくる現象が起きる。これは自分が暑い場所にいるという思い込みが脳に作用し、実際とは異なる現実を認識させてしまったからである。心に浮かべたことは、頭のなかだけではなく、現実にもかなりおおきな影響を与えるのだ。
これを狂信者の代表として『ドン・キホーテ』の主人公アロンソ・キハーノを選び、当てはめて考えてみる。アロンソ・キハーノは自分を騎士ドン・キホーテであると思い込んだとき、精神だけではなく肉体にも反応がでていたと考えられる。アロンソ・キハーノは自分が騎士になったと思い込むことで、それ以前にくらべて、心の中だけではなく実際に強くなったと推測できる。彼の持つイメージが現実にも作用したのだ。それを裏付けるデータがある。
 
1990年、オランダで行われた心理学の実験で、興味深い結果が出た。たくさんの人を集めて自転車のレースをやったのだが、事前に参加者の半分へ「あなたは競輪選手のような優れた成績をあげられる、と思い込むように」と指示した。残りには指示は出されず、普通にレースに参加させた。すると、あらかじめ「競輪選手」云々と思い込まされたグループの方が、かなりいいタイムを出すことがわかったのである。(註7)

このように心に抱いたイメージは、自分を変えるほどの強い影響力を持つ。しかも、それだけではなく、自分が心に抱いたイメージは、自分だけではなく他者にも影響を及ぼす。その代表として「ピグマリオン効果」が挙げられる。「ピグマリオン効果」の意味は、このようなものである。

教師が生徒の学業成績や態度・行動に対してある期待を抱くことによって、教師がその生徒に関して得る情報は多くなり、またそれにもとづくはたらきかけも増える。一方生徒の側では教師の期待を知り、それにもとづく反応が生じると考えられる。この相互作用の結果、生徒の成績などが教師の期待に沿う方向で変化することがある。このような期待のもたらす効果のことをいう。(註8)

このように自分が心に抱いたことは、他者にも影響を及ばす。こうした効果の力を考えたとき、狂信者の思いが普通の人と比べ強いのだから、他者に与える影響も強いはずだと私は推測する。それを裏付ける確実な根拠はないけれど、そんな影響力の強さが他者を魅了する優れた能力を狂信者に与えているのではないかと私は思えて仕方がない。

Ⅳ日常を支える思い込み

1常識
思い込みは、狂信者のような特別な状態になっている人間にだけ作用するものではない。私たちの生活にも、それは少なからず影響している。たとえば、その例として「常識」が挙げられる。
私たちが日常生活のなかで、それほど深く考えこまなくても社会に適応しているのは、共通の認識をもっているからである。人によってそれぞれ少しその形が異なるかもしれないけれど、みんながそれを共有している。それと自分自身を照らし合わせながら、自分がそれにはずれていないか自分の位置を確認しながら、人は生きている。そうやって人間は自分自身にある一定の方向性を持たせることによって、社会にうまくとけこみ、自分以外の他者とそれほど衝突することなく共に生きている。もし人がそういったものに従わなければあちこちで衝突がおこり、社会が混乱し無秩序になってしまうだろう。人のものをとってはいけない、むやみに人を傷つけてはいけない、挙げたらきりがないほど、一般社会に生きる人々は、そんな共通の認識「常識」を持っている。

2古くからの言い伝えや迷信
私たちの生活には、古くからの言い伝えや迷信がのこっている。インディアンは私たちに比べそうしたものを大切にしている。『ユング自伝』ではそうした彼らのありかたを知ることができる。

そのとき私は一人一人のインディアンにみられる静かなたたずまいと『気品』のようなものがなにに由来するのかが分かった。それは太陽の息子ということから生じてくる。彼の生活が宇宙論的意味を帯びているのは、彼が父なる太陽の、つまり生命体全体の保護者の、日毎の出没を助けているからである。(註9)
 
この太陽についての考え方は科学的視点から見れば、間違ったものである。人間が太陽の運行に影響に及ぼすほどの力はない。しかしそれがインディアンたちの心の中で真実として働き、作用している。だから、この宇宙観はインディアンたちにとって価値のある大切なものである。
科学も発展していなかった時代、私たちもこのインディアンたちのように古くからの言い伝えや迷信など科学的根拠のないものが、私たちの中で一つの真実と機能していた。もしそうしたものがなかったら、人々は外界の現象にふりまわされ、なにも決定することもできずに、不安を抱えながら生活することになっただろう。たとえ、それが実際は間違えであったとしても、それは外界の現象を私たちが消化できる形に変えてくれる。だから、科学的根拠のない迷信であっても、それは科学と同じくらい価値があり、意味のあるものだと思う。
そうしたものは、私たちの生活のなかにもすくなからずのこっている。たとえば、マンションなどの集合住宅に四号室がないことや、結婚式を大安、葬儀を仏滅に行うことなどである。このように科学的ではない思い込みに過ぎないものが、人の心に影響しているのである。その影響力は現代になってもしっかり残っている。

Ⅴマイナスにはたらく思い込み

1暴走をまねく思い込む
思い込みは、人を暴走させる危険な側面も持っている。たとえば、思い込むことで暴走しまう人間の例として妄想型ストーカーがあげられる。近年、テレビや新聞などのメディアによってストーカーの問題がたびたび、おおきくとりあげられている。そのタイプの一つに妄想型ストーカーがある。妄想型のストーカーは、非常に思い込みが強く、妄想を勝手に膨らませる特徴がある。彼らは相手の立場から物事を見ようとはせず、相手の行動を自分の想像で都合よく解釈する。彼らは自分本位に何事も考えてしまうのだ。だから、相手が嫌がっていることに気づかない。妄想型ストーカーは自分にとって好ましい事実しか受け入れないのである。彼らは他者を介入させない自分だけの世界をもっているため、彼らの暴走を説得によって止められる可能性は低い。思い込みはこのような人間までも、作りあげてしまう。

2都合のいいように思い込まされる危険
私たちは自分の気づかないうちに思い込まされている。たとえば、その例としてマスコミによる情報操作が挙げられる。マスコミが伝えるニュースは、ありのまま情報を伝えているようで、そうではない。マスコミは、ある一箇所に注目を集めることによって、自分にとって都合の悪いある事実を隠すことを常套手段にしている。それは演出のためであったり、自分たちのスポンサーに配慮した結果であったり、いろいろな理由がある。私たちが新聞やテレビなどで手にする情報はすでにコラージュされたものである。情報操作は国単位でもなされる。特に戦争などでは自国に都合によいイメージ戦略を行う。アメリカが湾岸戦争のとき油にまみれた水鳥の映像を使ってイメージ戦略を行ったことは有名である。
私たちはそうしたことが行われているのに思い込まされ、目の前の情報を正しいものだと信じこんでしまう。私たちは、かれらのやっていることが手品師のトリックと、それほどかわらないのに、それに対してあまり疑いを持とうとはしない。私たちは与えられた情報によって踊らされる危険があるにもかかわらず、思い込んでしまうのだ。
 
    結
私たちは自らの意思で選んだように、誰かに思い込まされて意思決定していることだってありえる。恣意的に操られ、相手の意のままに動くのは、決して利益のあることではない。それだけではなく、私たちは自分が望んでいない方向に、自分が持っている思い込みによって、自分自身を導かれてしまうことだってある。ただなすがままに自分の位置確認さえ行わないまま、目の前の出来事に対応しているだけでは、何も決定できずに、何かに従うだけになってしまう。そうならないためには、自分がどんな根拠、どんな思い込みを元に、物事を認識しているか再確認する必要がある。
思い込みは、前に述べたように想像の世界だけではなく現実にも強く、影響を及ぼす。人はこの力をもっと自覚し、どんどん利用すべきだと思う。だからといって、その力が人を狂わせ暴走させる側面もわすれてはいけない。
世界は最初から存在するのではなく、世界は私たちの中で分解され、組み立てなおされた状態で目の前にあらわれる。だから、心のありかたが変われば、世界のありかたも変わる。そう考えると世の中には福も禍もないのかもしれない。その捉え方しだいで、どんな形にでも世界は変わっていく。どんな世界に自分たちが生きるのか、最終的に決めるのは私たちである。

《引用文献》
(1)中畑佐和子著『中畑のインテグラル英文読解S VOL.1』代々木ライブラリー 1998年 一〇三頁
(2)カフカ著『変身』高橋義孝訳 新潮社 2004年 八十六頁
(3)同書 五頁
(4)グイド・クノップ著『アドルフ・ヒトラー 五つの肖像』高木玲訳 原書房 2004年 七十五頁
(5)同書四十一頁
(6)ジョン・レノン著『ジョン・レノン詩集「イマジン」』平田良子訳 シンコー・ミュージック 1994年 五十四頁 
(7)内藤 誼人著『なぜか「売れてしまう」営業マンになる心理テクニック パワープレイ』 2003年 十一頁 
(8)岸本浩、柴田義松、渡部洋、無藤隆、山本政人編『教育心理学用語辞典』
学文社 1994年 二三三頁
(9)カール・グスターフ・ユング著『ユング自伝2 思い出・夢・思想』河合隼雄、アニエラ・ヤッフェ訳 みすず書房 1973年 七十四頁
《参考文献》
H.C.アンデルセン『みにくいあひるの子』 小学館 2004年
シング『野生児の記録1 狼に育てられた子 カマラとアマラの養育日記 』福村出版 1977年
セルバンテス『ドン・キホーテ物語』社会思想社 1990年
石塚由紀子『風船おじさんの調律』 未来社 2000年
山岡重行『ダメな大人にならないための心理学』 ブレーン出版 2001年
佐藤富雄『成功を呼ぶ「口ぐせ」の科学』 宝島社 2004年
風間光『「ダメ」の壁を越える成功心理学』 現代書林 2004年
渋谷昌三『すぐに使える!心理学』 PHP 2003年
渋谷昌三『幸運を招く心理学 あなたのツキを奪う「不幸の5原則」』 ごま書房
1994年
《ウェブサイト》
プラシーボとプラシーボ効果について
http://www.page.sannet.ne.jp/onai/Healthinfo/Pracebo.html
プラシーボ(プラセボ)効果
http://abc.pos.to/kami/ik/ik-pura.htm
スポニチアネックス 社会 記事
http://www.sponichi.co.jp/society/kiji/2002/11/10/02.html
ハゲワシと少女
http://homepage1.nifty.com/moritake/doutoku/hagewasi.html
妄想型ストーカーとは?
http://www.h6.dion.ne.jp/~stalker1/page053.html


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