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どうせ“快楽”を求めてしまうなら、“弱い自分に打ち克つ快感”を求め続けたいと思った話

▼ぜひこのnoteを読んで欲しい方

・宗教修行を積んでいる人
・自分の中に天使と悪魔がいると思う人
・悪習慣を辞めたいのに辞めれない人


つい先日のこと。
パチンコに再びハマりかけてしまった私。
パチンコ屋を眼の前に私の中の天使と悪魔がずっと闘っていました。

▼悪魔と天使の囁き

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悪魔👿
「昨日も行って良い感じだったんだから、今日も勝てるって!楽しもうぜ、行きたいって思ってるんだろぉ〜?」

天使👼
「ダメです!このまま今日も行ってしまったら、後悔するのは目に見えていますよ?例え勝てても、手に入るのは“お金”のみ。あなたに今日与えられた“時間”は刹那の快楽のために消えてしまうのです。」

悪魔👿
「でもさー、こんなに身体は行きたがってるぜ?素直に生きることが大事だろ?人間時には遊びも必要なんだぜ?宗教でお堅いことばっかりやってるからお前はつまらない人間なんだぜ?」

天使👼
「もし今日もパチンコに時間を使ってしまったら、あなたの魂の“想念帯のテープ”には鈍い色が刻まれてしまいます。何回も経験してきましたよね?いいんですか?後悔するのは目に見えてますよ?」

悪魔👿
「でもよー、幸福の科学の精舎には行きたくねーよなぁ。行きたくねー、行きたくねーって今思ってるじゃねえか。」

天使👼
「これこそが惑わしです。正当に見える論理で、宗教を否定してくるのは魔なんですよ!」

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ま、こんな感じでパチンコ屋の周辺をずっとうろちょろうろちょろしてましたw

で、結局私は「もういいや!とりあえず行きたくないけど正心館行く電車に乗るぞ!入ってもう嫌だったら帰れば良いじゃないか!」
と思い、無事に正心館で御法話を拝聴出来たのでした。

▼弱い自分に打ち克って感じたことは「主に近づけたという悦び」


この経験から感じたことは「この世に生きる限り、どうせ快楽が必要ならば“弱い自分に打ち克つ快感”を求めようじゃないか
ということでした。

そう、私は、ここで弱い自分に打ち克てたことで「快感」があったのです。快感というと少し語弊があるかもしれませんね。

正しくは「喜び」です。
おそらくは「悟りの悦び」なんだと思います。

少しでも主に近づけたという気持ち

弱くてだらしない部分はこの3次元に生きてる限りは完全には無くせない。
けど、だからこそ、同じ「快・楽・喜」という感情を得たいならば、刹那的なこの世的な意味での、肉体に基づく快楽じゃなくて、
もっと永遠の、普遍の、この世を離れた「悦び」を得たいと思います。


教えを学んでいてもいつでも脚をすくわれる可能性があるのがこの世の苦しいところ。
謙虚にひたむきに精進を続けることが、この世の悪、惑わしから私を守るんだということを肝に銘じます。

ここまで読んでくださり、ありがとうございました!

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