日記1120 人として

こんにちは。
今日は代々木上原のモスクを見に行きました。


めちゃめちゃ綺麗で緻密なデザインでした。
線対象な感じの作りや模様をしていながらも、壁やランプなどそこら中におそらくアラビア語のようなものが書かれていて、よく見ると一つ一つ違うことが書かれていて、なんだか暗号みたいだなーとふんわり思いました。

礼拝しに来てた人もいたんですが、時間になったら数分礼拝して、前後の時間はモスクに寝転がってスマホ見てたりしてて、意外と自由な感じというか、憩いの場的な雰囲気があって良かったです。


宗教については本当に知識がないので言及するのを差し控えたくなるのですが、思うところがあったので少しだけ話します。

どんな宗教でも大まかには「神によって、人が生きるにあたって守るべきルールが設定」されていて、基本的には道徳的な生き方をしようねってことを教えられているんだと思います。

それに対して、私たちが使う言葉に「人道的」というのがあります。道徳的で善いことに対して使う言葉だと認識しています。「人として」とかもそう。
これがすごく不思議だな〜と思いました。

宗教において神が教えるような道徳的行為を、私たちは「人」の自然な姿と考えているのかもしれません。
そうだとしたら、「人」って存在に対する信頼というか期待みたいなものがとても高いように感じます。どちらかというと、「人である」のではなくて「行為によって人になっていく」感覚に近いのかな。
上位存在からの命令によって成り立つのではなくて、自分たちの中で完成されるために律していくような感じ。
でも、前者は義務っぽいのに対し、後者は強制されるものではないので、社会に与える影響としてどっちがいいってわけではないと思います。
ほんとにちょっと思っただけなので、詳しい人がいたら詳しいこと教えてください。


似たような感覚かどうかはわからないんですけど、どんな人でも「変なとこあるな〜」ってとこ絶対ありますよね。
そういうの見るたびに、「普通」であることってすごいことだなと思います。一見完璧に見える友達が妙なこだわりとか持ってるとなんかすごい安心するし。
みんなどこかしら変なとことか困ったこととか抱えてて、それを周囲に見せたり見せなかったりしながら目指していくのが「普通の人間」なのかな……
これも人でありながら「人」を目指していく「人道」に通ずるものがあるのかな、ないかな、ないかもな〜



代々木上原のガトーショコラ美味しかったです。



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