シフォンケーキからの贈り物①

「受け入れる」から始まること

~学生から社会へ出て結婚して出産する~
自分はどんな人生を歩んで生きたいのか…なんて考えることもなく、それが当然かのように、そしてそれが恵まれていることなんて、一切感じることなく過ごしていました。

我が子の姿を生涯見守れることも当然だと思っていました。

しかし当たり前なんて存在しなかったのです。

長女が急性リンパ性白血病になったのは、小学三年生の冬でした。数日間、夜になると微熱が出ていましたが、症状がとても軽いものだったので気にとめることもなかったのですが、念のために血液検査をした結果病気が判明し、翌日には即入院となりました。まさかそんな重病に罹患しているとは信じられず頭が真っ白になりました。まさか私の子が…それ以上考えることができない状態でした。

生憎ここ高山では治療のできる病院がないため、その日から即名古屋の病院に入院し闘病生活が始まります。迷っている暇もなく、そうするしかありませんでした。
当時は保護者の付き添いが必要でしたので、私はすぐに仕事を退職し、まだ二歳だった長男とも離れることになりました。この日から気持ちの整理がつかないまま家族全員の生活が一変しました。まだまだ母親に甘えたい盛りの弟をおいていくことは、心配で辛い決断でしたがどうする事もできませんでした。大泣きする時も幾度とありましたが、弟も幼心ながらに状況を感じとってくれて、一生懸命に父親と共に頑張ってくれました。

それから10年経った最近弟がこんな話をしてくれました。
「ねぇねが大変やったで家族が笑顔になれるように笑わせとった。」
沢山我慢をさせてしまったけれど、そんな弟にどれだけ癒され救われたか知れません。
そして祖父母の協力や親戚、友人、ご近所さん、学校や職場の方々にたくさん助けて頂きました。

約二年半の闘病生活のなか、もう少し病院が近かったらなぁという思いが常にありました。
各種手続きや学校との連携、家族との面会など遠方ゆえに手間や時間がかかることは、身体的にも精神的にも追い詰められていた私にはとても負担が大きいものでした。
そして高山と名古屋での二重生活は経済的にも厳しい状況でした。

娘の入院費用に関しては国の制度のおかげで手厚い免除があり、最善の治療を受けさせて頂けたと感謝しています。でも実際には実費での検査費用や交通費、レンタルルーム代など長期に及ぶ入院のため継続的な出費は家計を圧迫していきました。

娘の命を救いたいという一心な想いで必死でしたが、そのほかに抱えてしまう心配も多数ありました。

また様々なボランティア団体さんにも助けて頂きました。病気と闘う子どもたちへの支援は本当に有難く、私も娘が元気になったら何かお役に立てることができたらいいなと思っていました。

高山は自然豊かで人情味にあふれた大好きな故郷です。子育てにはとても恵まれた環境だと思います。反面、医療面では充分な治療が受けられないのも事実です。当事者になったからこそ身をもって気づいたことでした。

そしてその当事者に私達家族がなるとは夢にも思いませんでした。お医者さんから告知を受けても何かの間違いだと信じて疑いませんでした。しかし何千回何万回そう思っても、娘の小児がんは夢では終わりませんでした。
それに反して当の本人はこの試練を受け入れ粛々と治療をしていきました。とても辛く苦しいであろう治療を何一つ文句も言わずに耐え、逆に私や家族のことを思いやってくれるような真の強いとても優しい子でした。入院中の子供たちはお互いを見守り励まし合いながら闘病していました。みんなの笑顔が強く輝いていたのを今でも思い出します。そこにいるみんなは元気になってまた日常生活に戻れると信じていました。当たり前だと思っていた日常生活が目標になったのです。しかし、娘はそれを叶えることができませんでした。これまでの当たり前が、私達家族にとってかけがえのないとても特別なものに変わったのです。

私の人生には残念ながら我が子を亡くすという試練があったようです。それはやはり、到底受け入れることのできないものでした。
一年…二年…三年…と月日は過ぎていきましたが、常に胸が苦しく重くのしかかる喪失感に必死で耐えながら生活してきました。
娘に会いたい…
考えることはそればかりでした。

しかしある時私は決心できたのです。
娘が自分の病気を真摯に受け入れたように、私もこの人生を受け入れよう!と。
この経験をさせて頂いた私に何ができるのか、今の私は何がしたいのか?
模索しながら時折娘に問いかけています。
これでいいのかなぁ?
その答えは遺影の笑顔に表れます。
その答えはいつも〔ママ、それでいいよ〕です。

当たり前なんてない日常に改めて感謝したいと思います。

#シフォンケーキ
#小児がん支援

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