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時の栖

1時間の砂時計

一見すると、そこはバーの様だった。奥行きの余り無い店で、最奥に4メートル程あるだろうか、無彩色の杉の一枚板のカウンターが印象的だ。照明は程よく暗いが、足元に埋め込まれた案内灯があるので歩くのには困らない。
カウンター前にはスツールが1つだけ。カウンターの中には若年とも老齢ともとれる不思議な雰囲気を纏ったマスターが立っていた。私はスツールにゆっくり腰をあずける。
「今日も1時間を」
マスターは表情を動かさずに頷くと、コースターと水の入ったゴブレットを私の前に置いて背を向けた。カウンターの向こうには、バーならば供される酒が並ぶバックバーがある。しかし、そこに並ぶのは酒ではなく、大小様々な砂時計だった。
時代を感じさせるもの、凝った装飾のもの、シンプルなもの。素材も、アイアン、陶器、ガラス、木や竹、プラスチックのものもある。

「お待たせしました」
バックバーから選び出された砂時計は小ぶりの物だった。染め付けだろうか、藍色で描かれた細かな花が美しい。
丁寧に梱包された箱を受け取り、私はそれを更に風呂敷で包み、支払いを済ませる。
「楽しい時をお過ごしください」
マスターの声に送り出されて、私は『時の栖』を後にした。

書庫として使われている12畳程の洋室の、机の上に砂時計を置いた。
この部屋にあるのは、小さな机と座り心地の良い椅子、壁全面に作り付けられた書棚、部屋の中央の低めの書棚。そして、棚に収められた本だけだ。
両親が愛書家だったこともあり、産まれた時から本に囲まれて生活してきた。いつしか私も読書が好きになっていた。ただ、学生だった頃はともかく、就職してからの読書量は急激に減った。両親が他界してからは特に。
こうして本を読めるのは、幸せだと思う。
「さて、今夜は…」
少しの間目を閉じ、これから読む本を探す。

椅子に座って胸ポケットから細いフィルム付箋を取り出し、砂時計をひっくり返す。そして選んだ本をひたすらに読み続ける。
そこは、砂時計の砂が落ちる微かな音とページをめくる音、時々付箋の音がする静かな世界だった。

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『あの空の下で』 吉田修一
集英社文庫 2011年5月25日 第1刷 429円+税

旅に出たい。
本を閉じて強く思う。
学生時代に『踊る大紐育』の様な旅がしたかったことを思い出した。
若さに任せた向こう見ずな旅は、もうできない。出来るとしたら『モダンタイムス』の様な旅だろう。
『自転車泥棒』『モダンタイムス』『踊る大紐育』が特に好きだ。
『自転車泥棒』の大学生、『モダンタイムス』の待合室の男、『踊る大紐育』のバレリーナ。この3人が今、どうしているのか気になり色々と想像してしまう。

『あの空の下で』には、ANAグループの機内誌『翼の王国』に掲載された、忘れたくない思い出が書かれた12編の小説と旅先での出会いを書いた6編のエッセイが載っている。
どの話もとても短いので、通勤時間や隙間時間に読むのにもいい。短時間でさらりと読めるが、心に残る言葉が多かった。
『翼の王国』に掲載された小説やエッセイは何冊か出版されているようなので、いずれ読もうと思う。

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どうしてそういう事が出来るのかはわからないが、買い求めた砂時計は私の時間を増やしてくれる。使った後で眠くなったり体調が悪くなったりという様な事もない。
「1分からお売りしますよ。過去に10年という時間を買われた方もいらっしゃいます」
初めてあのスツールに座った時、マスターはそう言った。

小さな砂時計を手にして眺めるが、特に変わったところはない。砂時計を箱に納め、机の上に置いた。これも不思議だが、使用した砂時計はいつの間にか箱ごと回収されている。
この時間はどこからくるのか。どこかで作られているものなのか。マスターに聞いてみたいが、きっと商売上の秘密事項だと言って教えてはくれないだろう。

私は書棚に本を戻し、灯りを消して寝室へ向かった。

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