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四季がせわしない

梅雨入りしてしまった。もう初夏の気持ち良い日々も終わり。短かったな。

日本には四季があるあるというけど、四季があるところは他にもたくさんあると思うけど、春夏秋冬がちょうど1/4ずつのような、そのためにほとんどの時期が「季節の変わり目」みたいな土地は少ないのかもしれない。

メールとか手紙とかの文末に、いつも季節の変わり目ご自愛くださいって書いてきた気がする。毎回これ言ってないか、みたいな。梅雨はひとつの季節で五季かもと思ったり。けっこう長いし。

札幌に住んでいた時は季節感が全然違った。半分が冬、もう半分が春夏秋だった。基本的には梅雨も台風もなくて、順番に移り変わるというよりは、厳然とした雪の時期と、花に溢れた活動の時期の二種類だった。

豊かさでいえば、札幌の、亜寒帯の四季も豊かだった。豊かさでいえばより豊かな感じすらした。なんかこう、コントラストが強くてダイナミックなのだよね。

春の芽吹きは少しずつじゃなくて一気にきて、梅も桃も桜も同時に咲く。秋の紅葉は、雪に備えて広葉樹が一斉に色づいて、まわりの山々がそれこそ錦秋になって、風の強い日があれば、寝て起きたら葉っぱが落ちて、景色が一変している。それで雪が降ればもう真っ白。パンっと、バシっと、季節が変わる。1週間で橙が真っ白になる。

くらべて、本州の四季は変化に満ちた繊細さがある。常に次にうつる途中のような、常に次への備えが要求されているような。それがこの島の人の感性を、いわゆる日本文化を育んできたのは間違いない。

それはみんなわかっているから、料理や工藝や観光の分野において、四季が育んだ云々というのはおきまりのフレーズで、それは事実だからそうなるんだけど、そういえば、四季が育んだ生産性の低さとは言わない。

でもそこも、何かしら関係があるのではないか。

日々が常なる変化の中にあるから、変化に気づく。気づいたら表現して共有したくなる。そうしてどんどんきめ細かくなっていく。

きめ細やかさ、ゆきとどいていること、サービスの質の高さ、それが金額に反映されない、それが当たり前だからそこに値段がつかないことは、全てではないけど、日本の生産性を低くしている一つの要因ではあると思う。

当たり前の質が高すぎて感謝が忘れられてしまっていることや、やる側に無理があってやめたいけど皆がやっているからやめられない事態は、変わった方がいいと思うけど、効率重視、生産性重視のあり方が、この島の人に合っていないところもあるんじゃないか。

生産性が低いって言葉、好きじゃない。

文化はその土地固有のものが尊ばれる一方で、経済は世界共通でみたいになってるけど、経済にもその土地固有の、その土地に合ったものがあって、経済も文化の一部なのではないかな。

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