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第0話|人の話をきくには、まず自分から

こうじゃないといけないって思い込みって結構ある。誰かに言われることじゃなくて、それまでの経験と見聞の積み重ねで自分でつくってる枠。でも最近、信条は大事だけど、枠はなくてもいいと思うようになってきた。

私はそれなりに名の通った大学に通ったのだが、仕事を選ぶタイミングにおいて世の仕事がピンとこず、愕然とした。やりたい仕事がない…。いや、わかってはいた。だから大学時代は働くってどういうことだろうと思って、砂防林に住んでいるおじさんとゴミ拾いをしたりしていた。インターンじゃなくて。そりゃそこには乖離があるよね。

書くことへの憧れはあったけど憧れでは仕事にならない。それなりの仕事に就かねばならんという投資回収的な欲とか見栄もあって、かといって出版社等マスコミは体力、情報処理速度、知識量、扱う情報への興味、情熱、すべて及ばない気がして、やりたいことは時間外にやって仕事はお金を得るものと割り切るのも向いてなさそうで、やりたいことをしながら自分が欲する知見も高まっていく仕事がよくて、そんな都合いいものないんだよっていわれる典型だった。

価値観としてこれがいいと思っていたのは、「時間」が内包されているもの。それから、季節感のある、風流な仕事。それが具体的に何なのかは、まったく見当がついていなかった。

それがほとんど縁としかいいようのない流れで、伝統的絹織物の産地問屋で働けることになった。扱うのは結城紬という、指でつむいだ糸でつくる布だった。ものすごく格好良くて、これだ!!!と思った。

使い込むほど風合いを増す布には時間が内包されている。2千年続いてきたとされる製法の布に触れることは、その時間の一端に触れることであり、自身が参加することでもある。着物に関わる仕事は風流でもあった。ほかに類を見ない手仕事は、国の重要無形文化財とユネスコの無形文化遺産にも登録されていて、それを伝えていく仕事には圧倒的な意義もあった。

仮説を立てて実行、検証して再実行という、いわゆるPDCAが感覚的にできたので、所属部門の業績は伸びた。こういうものがあったらいいという明確なイメージが描けたので、新しい小売店を立ち上げることもできた。もちろん一人でやったことではないけど、私の責任でやる気持ちで(いち社員が負える責任なんて実際はないのだが)全力で取り組んで、ブランディングが国内外の賞をもらったり、雑誌等での紹介が増えたり、それは周囲からの評価や売り上げの増加といった結果を伴うものになった。

お店ができてからは本当に楽しかった。美しいもの、会社の人、街の人、協業先、取引先、お客様、いずれも魅力的な出会いがたくさんあって、やりがいもあって、笑いもあって、とにかく楽しかった。明治時代の蔵を改装したお店は寒かったけど、重厚感のある空間の質は最高で、これ以上の職場ってあるのかなって感じだった。すごく良い流れがつくれている手応えもあった。

それなのに、自分でも楽しくて成果も出ていた一番良い時に、結婚に伴う移住のために辞めることになった。突然ではなく、2〜3年考えてのことで、何とかやりようがないか探したけど無理だった。なんでそんなことになるんだろうって、今考えても意味がわからなくて笑ってしまう。

その相手と結婚しなければ、結婚しても別居婚でいれば、別居婚で子どもができても地元で実家が近ければ、相手を自分のほうへ引き寄せれば、仕事内容が遠隔でもできるものだったら、辞めずにすんだかもしれない。辞めても自分で着物の店を開けば、それはごく自然な流れに感じられる。でもどれも違った。ただ辞めた。

書くのが好きで、会社でも広報業務ではずっと何か書いていたから、何か書こうとは思ったけど、そのほかの具体的なことは辞めてから考えることにした。後任を探して、仕事を引き継ぐだけで精一杯だった。ありがたいことに経済的にもとりあえずはそれで大丈夫だった。自分の貯金もあったし。

結婚披露宴は会社でDIYでやらせてもらった。街の人や市役所にも協力してもらって、街や紬のプロモーションになるように組み立てた。花嫁が親への手紙を読む流れの場所では、その場にいてくれた皆様に、これまでの感謝と辞めることについての挨拶をさせてもらった。

結婚して?仕事を辞めて??相手についていくの???これは全く信じられない決断だった。女であっても、むしろ女だからこそ、経済的に自立して自己実現を果たす、それが小さい頃からずっとそうすべきだと思ってきた枠だったから。

でもわたしは、今の社会様式の中では対価が発生しにくい仕事が好きだ。単純作業とか、家事とか。いや、全くマメに家事をするわけではないし、何か書き始めるともう何もしたくない、しなくなるけど、頭では大事だと思っていて、そういえば結城紬の会社を知ってまずはじめにいいと思ったのは、毎朝社員全員で社屋掃除をするところだった。

結城紬の価値は、生活を支える基盤になるものだと思っている。人と自然が拮抗する地点にある、人の手の力が昇華したもの。美しさが存在そのものの価値につながっているもの。

つまり目を見張るべきは、存在が持つ力そのもの。

だから思い込みの枠を外せば、家にいて最低限の家事を受け持てばいい身分になったことは、それはそれで最高だった。本を読んで文章を書いて、料理と掃除をして、近所を散歩して。書くからにはもちろんたくさんの人に読んでほしいし、必要とされたい。でもそうじゃなくてもひとまず充分だった。

今は結城紬と物理的にも距離がある場所にいて、世の中のほとんどの人は結城紬を知らないことを実感する。ただ渦中にいるときはそれが世界のほとんどだったし、辞めることの負い目はとても強いものがあった。「中の人」じゃなければできないことだらけなのと、そこで働くために必要なあれこれを身につけるのは、すごく時間がかかると痛感していたからだと思う。

その時は自責の念と(ありがたいことに会社や人に責められることは全くなかった)、まあでも普通のことだというケロっとした想いと、両方あった。あと役得というか、得られるベネフィットがすごく多かったから、単純に辞めたくはなかった。辞めなくても書くことはできるし、そのほうがいいことも多い。

なんで辞めたのか、理由を一つこれっていうことはできないけど、はっきりしているのは、そこで働き続けることが最優先事項ではなかったってことだ。

移住したのは札幌で、ずっといるのかと思ったら今度は富山に住むことになった。今は夫と2歳の娘と3人で暮らしている。これまた、なんで富山にいるのか、自分でよくわからないのがおもしろい。

実家が遠くて親戚もいない土地で、夫の帰りも遅くて出張も多いなかでの育児はウンザリすることもある。ただ想像していたよりずっと子どもはかわいくて面白いからやれている、のかな。

書く仕事ももらえるようになって、企画から自分でしてるものもあって、まだ夫の稼ぎなしで生活するには頼りないが、楽しい。全く後悔はない。そのうち売れるから大丈夫。

書くことには書くことで、こうじゃないといけないと思っている枠もあり、こうありたい理想もある。それらと現実の折り合いについてはまた別の機会に。

夢はかなう、意志が大事、問題は解決するもの、切り開いていく姿勢が重要、そういう価値観の社会で育ってきて、今もそうだとは思っている。しかしどうにもならないこともある。それを知ったのが、20代から30代にかけて働いた9年間での一番大きな学びだった。

後ろ向きに聞こえるかな。でもだから、あるものを慈しめるし、感謝できると思っている。



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