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20|卵かけご飯は料理である

たまに学生を呼んで食事会をする。人を呼ぶときはたくさん料理をつくるので(これまた学生がびっくりするほど食べる)、「毎日こんな料理が食べられていいですね」と言ってもらえたりするが、普段はそんなふうにはつくらない。

最近は、平日は味噌汁と納豆とか、味噌汁と卵かけご飯とか、朝ごはんみたいな夕飯が多い。

それは、まったくもって手抜きではないと、確信している。


きっかけは、子供にご飯を食べさせるのに苦労していることだった。

少し前までは1人でばくばく食べる子だったのに、今はいろんな方向に興味がいって、あっちへキョロキョロ、こっちへウロウロ、立ち歩きはじめて、途中からは私が対面で食べさせるか、膝の上に乗っけて食べさせるかじゃないと完食しない。ずいぶんと甘たれである。

食事を用意して終わりじゃなくて、それは食べさせることのはじまり…だから余力の残る食事づくりが必要なのと、納豆ご飯や卵かけご飯だと子供の食がすすみやすいのとで、味噌汁とそれで良くないか?と気づいたら、ほんとうにそれで良くなって、つくるのもらくちん、私自身も充分だと感じるようになった。

この発想には、土井善晴さんの『一汁一菜でよいという提案』の影響がある。一汁一菜とはご飯と味噌汁と主菜、ではなく、味噌汁を主菜にすればそれで良い、というお話だ。土井さんがそれでいいというのだから、そんなに心強いことはない。

ただ、この本が本屋さんに並んだとき、平積みされていたのを手に取った私は、ありがたい提案だけれど自分自身がご飯と味噌汁だけでは満足できないな、と思った。もっと毎日色々なものをつくりたかったし、色々なものを食べたかった。

子供ができる前、料理のモチベーションは好奇心だった。これをつくったらどんな味がするんだろう。ワクワクしないとやる気が出なくて、『きょうの料理』に載っている料理を片っ端からつくってみたり(実際やってみるとものすごい種類数で1/4程度で挫折した)、世界180カ国の料理の本をみて、日替わりでいろんな国の料理をつくったりしていた。残業が立て込んでくるとコンビニ弁当が続くこともあったし、催事期には外食が続くこともあった。いろんな種類のものをたくさん食べないと満足できなかった。

それが、子供が生まれると、凝った料理はぴたりとできなくなった。親族も知っている人も誰もいない土地に引っ越して、夫は帰りが遅かったり出張が続いたり。一方で乳飲み子は否応無く私から養分を吸い取っていく。身体は新しい命を優先するようにできているから、栄養が足りないとき、不利益を被るのは母体だ。

これは、自分の身を守る料理をしなくては。その料理をできるのは私しかいない。乳飲み子を抱えて惣菜を買いに行くのも、どこかに食べに行くのも一苦労で、自分でつくるのが総合的に一番楽だった。

料理のモチベーションが、好奇心から生き延びるために変わった。つくりたいとかつくりたくないとか関係なく、つくらなくてはならない。

乳飲み子はあっという間に離乳食を食べるようになり、手づかみ食べをするようになり、スプーンや補助箸をつかって自分で食べるようになった。成長する都度、ある面では楽になるのだが、ある面では新しい手間が増える。なかなか、「料理をしたい」と思える余裕はなくて、料理は引き続き、ただただしなければいけないことだった。

そんなとき、お味噌汁の恩恵に気づいた。食べる、排泄する、お風呂に入る、寝る、生活の全てが何も一筋縄ではいかない、でもこなさなければいけない、探求や洗練から離れた子供との暮らしのなかで、なかば嫌々つくったお味噌汁が、ある日驚くほどおいしかった。派手に働いていたときみたいに、高級料亭やレストランにいく機会はほとんどないけど、そういうところで食べた、ハッとする透明感のある味と、このお味噌汁と、どっちがおいしいと比べられないと思った。

お味噌汁のおいしさは母乳のおいしさと繋がっていることも知った。生まれて初めて口にする、体を自由に動かすことは何もできなくて、目も見えないのに、吸うことだけはできる、乳児が飲むもの。おいしさの源流と、お味噌汁は繋がっている…


そのことに気づいたときは、それでもまだ、お味噌汁に加えて、肉と野菜を炒めたものとか、魚を焼いたものとか、一品は何かつくっていたと思う。今もそういう日もあるし、つくってはいけないなんてことは全然ないし、そこは気分なんだけど、つい最近、納豆や生卵も肉野菜炒めや焼き魚に匹敵すると思うようになった。

それは、だんだん、ワインを仕込んだり、自然農の畑をやったり、漁船に乗せてもらったり、味噌蔵や酒蔵を見学したり、味噌を仕込んだり、雑草を食べたり、猪を解体したりして、やっと、食べ物を食べ物として入手できるまでの時間や空間が、体感として入ってきたからだった。

自分でつくるとしたら。田んぼでお米を育てて、大豆と野菜を育てて、とれた大豆で納豆をつくって、海で塩をたいて、麹を培養して、味噌を仕込んで、鶏を飼って。もうそれだけで精一杯、1人ではできないと思う。素材からつくるのは大変なことだし、そうして自分でつくったものはすごくおいしいと思う。

味は良いのに大量生産や流通に適さないから流通していない品種がたくさんある。説明が必要なもの、わかりにくいもの、売りにくいもの、つくっても儲けが出ないものはつくられにくい。でもおいしい、そういうものがある。天然醸造の調味料や平飼いの卵もほんとうにおいしい。明らかに、味が違う。自分でつくると、そういうことがたぶんわかる。

おいしさはイリュージョナルな統合感覚でもあるから、同じ味でも、体を動かしてお腹が空いている、渇望があるほうがおいしい。つくられる工程を知っている方がおいしい。自分でやった実感があるほうがおいしい。

とはいっても、はじめからおいしくはできないかもしれない。そもそも、食べられるだけ穫れないかもしれない。自分でやるのはやめよう。そう結論づいても、それはそれで大きな学びだ。交易は縄文時代からあるという。

では、買うことにしよう。お味噌汁と卵かけご飯。質素に感じられるかもしれないけど、野菜とお米を有機栽培のもの、味噌と醤油を有機栽培原料の天然醸造のもの、卵を平飼い卵にすると、金額としては質素ではなくなる。

大事なことは、それらは贅沢品、ということではなくて、薬品を加える等の化学的操作をして工業的につくらない場合、たべものをつくることはとても手間と時間がかかることだから、金額としては高くなるということだ。

化学肥料や農薬や畜産の現場での抗生物質の使用が問題視される。でもそれは、そのものだけ抜き出して辞めればどうにかなることではなくて、全体のつくりかたの中で、使う必要があるから使われている。辞めるなら、やり方全体を変えないといけない。そうすると、たべものはもっと高くなる。

食費はお味噌汁と卵かけごはんをつくるぶんで尽きるかもしれない。可処分所得の多くが食費に占められるかもしれない。でももしかして、それがふつうなのかもしれない。

ものすごくものすごくものすごく、色々なことができるようになっているけれど。その色々なことが、地球に負荷をかけて、いずれ住めない場所になってしまうかもしれないと言われている。もしかして、ほんとうは、今だって、実は、「食べるだけでせいいっぱい」なのかも?


料理のもとになる素材や調味料は、入手できる時点で、かなりの手塩にかけられて、料理としておいしくなるようにつくられている。野性のものとは全然違う。現在のつくり手さんの努力もあるし、品種改良の歴史やつくりかたの改良など、先人の積み重ねもある。それはもう膨大な、自然と人の歴史。その土地の気候風土のなかで育まれてきたもの。

それを感じられると、家庭料理とは、0を1にすることじゃなくて、100を101にするくらいのことだって感覚、体感が湧くようになった。

すでに100の様々な積み重ねがあって、私がするのは、ひょいっと組み合わせて、最後に仕上げをするくらいのこと。もちろん凝ったことをするのだって楽しいし、する日もある。でも卵かけご飯だって、100を101にしてる、じゅうぶんに料理だと思う。

お米を炊くこと。生で食べられる卵があること。それを炊いたご飯にかけるとおいしいって知っていること。

醤油をたらす。塩とごま油もいい。キムチをのせるのもいい。卵を溶いてからかけるか。ご飯に窪みをつくって、直接割り入れるか。工程があって、バリエーションがあって。充分に、しっかりと料理である。









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٩( ᐛ )و٩
ライター|重文指定絹織織物「結城紬」産地で働いた経験を元に工藝や地場産業のライティングを行う|『ぼくたちはケアして表現するサル?』書籍化奮闘中|神奈川出身、茨城、札幌を経て富山在住|www.chieyabutani.com